地元ノリと稀少性──コムドットやまと『聖域』の感想

 コムドットやまと『聖域』を読んだ。内容としてはコムドットのおもなファン層である高校生を対象とした自己啓発であり、とくに想定の域を出たものではない。一読した感じ、やまとの手つきは「地元ノリ」をパッケージされた商品として首尾よく売り出すすぐれた起/企業家のそれであって、一般にいわれるようなイメージを更新するものではあった。以下は『聖域』でいわれている「地元ノリ」への私の注釈(?)である。ささやかな小論として読んでもらいたい。また本書の主張の基盤にあるコムドットやまとの生存バイアスへの指摘はここでは措いておく。

 これまで私はコムドットの動画を見ながらずっとふしぎに思っていたことがあった。コムドットの主要コンセプト「地元ノリを全国へ」にもかかわらず、かれらは自分たちの地元をいっさい公開せず(一方フィッシャーズは「葛飾」を自分たちの地元として強く押し出している)、動画でやることといえばチェーン店のラーメン屋へ行くかブランド品を買うか他YouTuberとコラボするかくらいなのである。「地元ノリ」と「全国」が対置される以上、ここで地元(ノリ)は全国に包摂されない特殊性をもっていると想定されるはずだ。そこでこの「特殊性」を検討しなければならない。

 そこでやまとが言っていることをみてみよう。本書の後半部分で、やまとは「稀少性」を軸に資本主義の要点をまとめている。

 現代の資本主義社会において、僕は「希少性」こそ、最も重要な要素であると考えている。「希少性」とはレアリティを指す。つまり、市場の中にレアなものがあれば、その価値が高くなるということである。[…]レアなものは、必要とされるのだ。

コムドットやまと『聖域』p.174、強調やまと

 もちろんこれ自体は当たり前だが、問題は文脈の立て方としてこれが「地元ノリ」を意味していることだ(「特殊性」=「希少性」)。『聖域』を読むかぎり、一起業家としてのやまとが(成功者の自己正当化という読解を度外視したうえで)YouTubeの活動に「地元ノリ」をえらんだことには、それが市場における希少性をもっているからにほかならない。
 ではやまとの考える「地元ノリ」はなんなのか。それはこう説明される。

「地元ノリ」とはいつものメンバーとやる遊びや、ゲーム、特殊なかけ合い……これらはもちろんなのだが、僕が本当に全国に伝えたいのは、生き様だ。[…]それぞれがそれぞれのやりたいことをやっていて、それをお互い応援しあっている。/これこそが、僕の伝えたい地元ノリなのだ。お笑いもそうだが、当たり前のように女性に車道側を歩かせないスマートさや、友達の卒業式に駆けつける仲のよさや、お互いの夢を応援しあえる熱さこそ、僕たちの地元ノリであり、それを全国に轟かせたいのだ。

『聖域』p.142-143、強調原文

 整理(?)しよう。やまとは「地元ノリ」は内実的なものと形式的なもののふたつに分け、後者にとくに重きを置いているようである。これは前述したコムドットの動画企画に照らしても自明だが、では「地元ノリ」が形式的に希少性をもつとはどういうことか?

 コムドットが地元を公開しないこととこの疑問は同根だ。それはコムドットのいう「地元」が、もはや巨大資本によりシャッター街とイオン、チェーン店、コンビニに覆われたどこにでもある風景でしかなく(要は「ファスト風土化」)、その地域的「希少性」を問えないことに起因している。というより商品としての「希少性」が市場の差異化の論理によって導入された以上、その「希少性」の起源はあらかじめ擬制されたものとしてしかあらわれえない。やまとが活動の中心に置く、匿名的な「地元」に根ざしたノリは、このようなアポリアに逢着する。「地元ノリ」は同じ市場の論理によって、抹消されると同時にかつ商品としての意味をもつのだ。

「希少性」についてもうすこし考えてみよう。絓秀実は『小説的強度』の多くのページを、ヘーゲルの主/奴の弁証法の解説に割いている。絓によれば奴が主に服従するのは、主が「稀少性」をもつからだ(それは端的に死を賭けた戦いにおける勝利、つまり「死」である)。奴どうしのコミュニケーションはこの「稀少性」によってのみ可能とされたが、ヘーゲルの目論見に沿うかぎり、奴はついに主を殺してしまう(否定)。そこで奴はこの死した主に変わる「稀少品」を調達しなければならない。端的に言えば、それは男である奴にとっての「女」であり、そのために女は労働過程から放逐されてしまうのである(労働は奴のいとなみにほかならない)。

 しかし労働はこの稀少性を踏み越え(ようとす)るものでもあったはずだ。ただ一方で、稀少的なもの(死)の起源への接近は、コムドット的「希少性」の起源への遡行が市場の論理によって禁止されていたのと同様に不可能である(主は死んでいないゆえに主なのであって、「死」を表象=代行しているにすぎない)。さしあたって「稀(希)少性」は二重に表現の詐術である。一方で労働を支えるものの、もう一方でその労働が生み出すものの。むろん19世紀の労働概念が耐用年数をすぎているにしても、それはコミュニケーションを規定するという意味でなお有効である。

 コムドットが形式的な「地元ノリ」を商売道具にしていることはこの点から考えられる。つまり一方でヘーゲル的な(擬制された)稀少性はコミュニケーションを規定し、他方で市場的な希少性は「地元」の内実を空洞化し、かつ差異化を促進する。もはやそのような稀(希)少性に依拠しなければノリは生まれない。この、いま日本でもっとも見やすい例はまさにコムドットだが、それは「地元ノリ」にかぎらずあらゆる差異化の際に無視しえない問題でもある。応援してます。日本を獲ってください(このときかれらが無自覚なナショナリズムに陥っていることは当然指摘しておくべきである)。

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