軽さとギャルのポリコレ──『着せ恋』について少し

 自分自身女装=コスプレをしているのもあって『着せ恋』を最近見ている。作画はめちゃくちゃ良いし、ギャルもあまりにえっちなのだが、一点気になったことがあるので軽めに書く。
 かいつまんで言うと、メインキャラであるギャル(喜多川海夢)のコスプレの対象はギャルが好きなエロゲのヒロインなのだが、そこにあまりに屈折がなさすぎる、ということである。第一話(二話だったかな)で人形服の仕立てを頑張っている主人公の男の子に海夢はとりあえず詰められはするのだが、海夢はギャル一般の軽やかさで「え別に好きだからよくない?」と受け流す。他の点でもギャルゆえの軽やかさで物語そのものが軽〜く進んでいく。ギャル的軽快さ(軽薄でなく)は作品そのものの軽快さであるかのように見える。
 しかしゼロ年代からテン年代のオタク作品(特にラノベ)の同型のヒロイン──『はがない』の柏崎星奈や『俺妹』の高坂桐乃など──を見ればわかるように、作中においてギャルは「恥」の感情をもってエロゲをプレイしていた。『着せ恋』ではこの「恥」の感情がギャル的軽快さによってあっさりと乗り越えられている(?)のである。
 あるいはそれをギャルのポリコレと呼んでもいいかもしれない。ギャルの言うことは大抵正義なので言明いかんにかかわらず先験的にそれは正当化される。私たちは「好きなんだから別によくない?」をあまりに正しい意見として受け止めるしかない。
 しかしこうも「恥」=屈折をためらいもなくたわめ直してもいいのか?という思いが強く残る。もちろんエロゲが好きなギャルなど現実界の実在性はかぎりなく低いし、ましてやその態度をポリコレ(誰が何を好こうが自由である、という)で解消できるなどとはまったく思わない。要はこれらに関してはオタクの妄想でしかないが、少なくとも「恥」にはオタクらしい現実がある、ということが言いたいのである。
 エロゲが好きな自分が恥ずかしいのは私たちの当事者問題でもある。私はそれを大手を振って「好きだ」と言う前に、やっぱり口ごもりたい、言いよどみたい、という感覚がある。おしまい

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