ベケットの「消尽」とその可能性

1. はじめに

 本稿ではアイルランド出身の劇作家・小説家・詩人であるサミュエル・ベケット(Samuel Beckett、1906-1989)の諸作品に共通してみられる「消尽」概念と、1979年の散文作品『伴侶』(英題Company、仏題Compagnie)に焦点をあてつつ、彼の思想がジェンダーの観点からどのように読み解けるかを試みる。ベケットは作品を執筆したあと、それを英語からフランス語へ、フランス語から英語へ手ずから翻訳をするのが常だった。そのため本来は原書にあたって二か国語間の細かい異同をたしかめるべきなのだが、筆者の個人的な問題により、以下、宇野邦一による邦訳(1990年、書肆山田)のみをあつかうことをここでことわっておく。
 最初にサミュエル・ベケットの女性観について触れておきたい。対馬(2011)はブライデンの研究を参照しつつ、ベケットの初期作品において女性は「男性主人公のいる外界から隔離された孤独な、純粋な空間に侵入してくる肉体」として描かれていたが、後期作品(殊に1957年の『すべて倒れんとする者』以降)においては「存在と非存在のどちらにも属さない何か、あるいは世界に完全に生まれていない〈存在〉」として表現されたと述べる。それは「人間主体の中心にある、直接的な表象にはなりえない〈傷〉の存在」の媒介として表現されるのだが、ではなぜベケットが女性をそのように表象したか、という問いに、対馬は次のように答えている。

 歴史的にみて、女性は、支配的な家父長制社会において周辺へと追いやられてきた存在であり、(…)主体としては完全に存在しているのでもないが、不在でもないという曖昧な位置を与えられてきた。その意味で、女性は世界に完全には「生まれたことがなかった」という〈傷〉と共に生きる存在であったとも言える。(1)

 つまりベケットは(主体の)存在/非存在を揺れる曖昧さという点で、〈傷〉と女性一般をパラレルに描き出していた、ということである。本稿ではこれと異なるベケットのジェンダー読解を試みる。ベケットはそのような〈傷〉に対してひとつの回答を、特に『伴侶』において与えていると考えられるからである。

2. 「可能なこと」という暴力

 ドゥルーズはベケットの小説、散文、テレビ作品を読解したエッセー『消尽したもの』で最初に「可能なこと」という概念を提示している。ドゥルーズはそれを以下のように説明している。

 何か可能なことを実現しようとするとき、人は何らかの目的や計画や選択に照らしあわせるものだ。(…)可能なことの実現は排除によって行なわれる。それはさまざまに変化する選択や目的を前提とし、これらはいつも先行する選択や目的にとってかわるからである。(2)

 このような行為選択の特性をドゥルーズは「排他的選言命題」と呼ぶ。これはつまり私たちが普段意識的に/無意識的に行なうような、無数の遂行的可能性のうちからつねにひとつだけを選び出す、その一連の可能性の実現の束によって、私たちの生活が成立しているということを指している(「きょうはピクニックに行く予定だったが、雨が降ったのでやめにした」など)。排他的選言命題に従うかぎり、私たちは不断に行為の主体として振る舞わなければならない。なぜならこの格率を放棄することは選択をやめることを、つまり生きることそのものの放棄を意味するからである。
 しかしこの行為選択法にはいくらか問題がある。第一に、排他的選言命題で前提とされる行為主体は決して問いに付されることがない透明な存在であり、第二に行為の排他的「選択」は暴力的なものである。選択されるものは選択するもの=有徴化されない主体に従属し、その実現される可能性の背後には無数の選択されなかった可能性たちが打ち捨てられている。よってここでは二重の階層化が行なわれていることになる。つまり(A)主体/非主体の、(B)実現される可能性/実現されない可能性の階層化であり、AがBを包括し、それぞれ前項が後項に対し優位性をもつ。排他的選言命題はこの点で私たちの社会とのアナロジー関係に入る。「男は性によってしるしづけられることなく、『普遍的な人間主体』になりうるが、他方、女は、普遍ではない『特殊』、主体にはなりえない『他者』、性によってしるしづけられている存在だとみなされる」(3) 。
 以上から、排他的選言命題をジェンダー論的に読み替えたばあい、以下の通りになる。
 男/女関係はAに該当する。BはAから派生しているため、実現可能性の選択は主体(≒男)の恣意的な選好に拠っている。可能的なことの選択はつねに実現されなかった可能性の排除を生み出す。これは私たちの社会では男女間の雇用機会の不均等(女性が仕事を得る可能性の排除)、再生産労働の抑圧(賃金労働からの排除)、また、それらから導出される、ありえたかもしれない未来(すべての人びとが平等である未来)の全的な排除といったかたちであらわれている。
 このことを精神分析を用いて映画作品から読み解いたのがローラ・マルヴィの1975年の論文「視覚的快楽と物語映画」である。マルヴィは「ハリウッド映画を中心とする主流映画がいかに家父長制に直結したイデオロギーであるか、そしてその装置がいかに働くかという問い」 (4)の中で、物語映画がサディズムと深く関わっていることを指摘する。

 サディズムは物語を要求し、何か事が起こるのを心待ちにし、他人に何らかの変化や意志と強固の戦い、勝利/敗北などを強いる。そしてこれら全てが始まりと終わりに繋がる直線的な時間の枠内で起こるようになる。(5)

 マルヴィのこの見立てにはさまざまな批判があるが(6) 、ひとまず本稿の議論と接続すると、次のような図式化が可能である。マルヴィ的サディズムは物語=一連の排他的行為選択を要求し、直線的な配列による行為の組織化をうながす。そして、この行為の能動性は物語映画においては男性の担うところとなるのである。

 規範的な物語映画において女性の存在は見世物の不可欠な要素であるが、目に見える女性の存在そのものは、物語の筋の発展にしばしば遡って作用してしまう。(…)こうして、この違和感を呼ぶ存在は必ず物語の一貫性の中に統合されなくてはならない。(7)

 これらを取りまとめるとひとまず次のことが言えるだろう。排他的選言命題は私たちの社会においてはきわめて強権的に作用する。それは不断に男/女を主体/非主体に割り当て、そうして行為を担わされた主体は可能的なことの実現によって他の実現可能性の排除を行なう。同様の構図は直線的な時間概念を前提している物語映画にもみられる。それは家父長制と非常に相性がいいイデオロギー装置として私たちに働きかけうるのである。

3. 「消尽」と「伴侶」

 このように見れば排他的選言命題は一つの強固な権力構造のように私たちに映る。しかし先述したようにこれを放棄することは生の放棄であるがゆえに手放すことは不可能に近い。着実かつオーソドックスな解決法としては行為主体とその選好を拡張することが第一に挙げられるが、それは私たちの現行の社会のラディカルな変化を間接的に要求するものである以上依然として困難な方法である。
 しかしベケットはこれとまったく異なった行為の形態を私たちに示唆している。それが「消尽」である。ドゥルーズは「消尽」を以下のように表現している。

 消尽することは、これ[排他的選言命題:引用者注]とまったく別である。あらゆる選択の順序や目的の組織化、あらゆる意味作用を放棄するという条件で、われわれは一つの状況の変数の総体を組合わせる。(…)何かを成し遂げはしても、もはや何も実現しない。(…)しかも受け身ではなく活発に動くのだが、それは何のためでもない。(8)

 ベケットの小説作品において、主人公はあらゆる行為の網羅的な順列組み合わせに汲々としている。たとえば『マーフィー』では「主人公は五つの小さな菓子の組合せに没頭するのだが、ただしそれは(…)全部で百二十に及ぶ置換可能性の様式を勝ち取るということが条件である」(9) 。そこではもはや行為の実現にはなんの意味もない。あらゆる可能的な行為の系列をしらみつぶしに選び取る「包括的選言命題」がメタ的に実現されるだけである。それは一見してこの上ない無意味でしかないように思える。しかし本当にそれだけだろうか? ドゥルーズがベケットから読み取った「消尽」は、もっと重要な責務を負っているはずである。
 それは一つには、「消尽」が主体の変容を伴わずにはおかないからだ。「順列組合わせはその対象〔客体〕を尽くすのだが、それはその主体自身が消尽しているからである」(10) 。消尽行為は計画→行動の実現過程を基礎に置く合理的理性=主体をも消尽する。行為主体はみずからの行為の必然的なフィードバックによって絶えず宙吊りにされる。主体-客体の序列はこうして掘り崩される可能性にたえず晒されるのである。
 しかし同時に、「消尽」は「可能性を尽くしながら、可能性の次元そのものを消尽させてしまう試み」(11) でもある。つまり可能性の網羅=消尽そのもののメタ的な消尽である。その結果、ベケット作品中の登場人物たちは「一切から退却して、ただ待機する姿勢を続けること」(12) になる。代表作の『ゴドーを待ちながら』にその傾向が顕著にあらわれているといえよう。そしてそれは、彼の後期作品に、よりラディカルなかたちで見出すことができる。
 以上を踏まえたうえで『伴侶』の読解に入る。なお、訳題の「伴侶」はここでは原題の『Company』(仲間、連れ合いという意味)の訳であり、「配偶者」の謂いではないことを明記しておく(13) 。
『伴侶』は次のような構図で物語を進行させる。真っ暗闇の部屋に一人の老人が仰向けに横たわっている。老人は自分に「おまえ」と語りかける声を聞いているが、老人は、ひょっとしてそれは自分にではなく、部屋にいる別の誰かに向けられているのではないかという疑念を抱く。物語は三人称による状況への仮定・推論と、「声」が「おまえ」と呼びかける者の過去の思い出や記憶の描写が同時並行して進められる。
 物語中盤で、実はこの部屋にいる別の誰かが「『伴侶のために全てを想像する想像された想像者』『創造者』」(14) (以下「創造者」)であり、彼が自分自身を三人称で語っていることが明らかにされる。しかし最後にはそれさえも錯綜とし、「創造者」は本当は横たわった老人の創作であり、この物語そのものが「闇のなかにおまえといっしょにいる他人について作り話をするおまえについての作り話」(15) という何重にも入り組んだ構造をもっていることが判明する。いわば『伴侶』においてこれと断言できるようなことはなにひとつないということである。
 この複雑な構造の作品から何が読み取れるだろうか? それはたとえば先述した〈女性的なるもの〉(=存在と非存在の間の揺動)のイメージである。

 おまえはかつて存在した。おまえは決して存在しなかった。かつておまえは存在したか。おお、決して存在しなかった。もう一度存在せよ。あいかわらずのさえない調子。(16)

 ベケットのこのレトリックにこそ消尽=包括的選言命題が如実にあらわれてはいないだろうか? 排他的選言命題に従えば、「存在する」ことを実現した瞬間に「存在しない」ことは非実現可能性として捨象される。先にもみたようにこの一連の選択と排除こそが私たちの社会の抑圧の体系を産出してしまう。ベケットはトレードオフ関係にある二つの可能性を並置することでそのような「可能なこと」にヒビを入れようとしている。この「揺動」こそ対馬が〈傷〉と呼んだものと思われるが(「生まれたことがなかった」という言表がパフォーマティヴに存在/非存在を併せ持っている)、『伴侶』にはこれに加えて消尽の「組み合わせ」にヒントを与えているところがあると私は考える。それがタイトルにもあるような「伴侶」概念である。
 たとえば「伴侶」は本編で以下のように説明されている。

 だから声が彼にむけてではなく、他人にむかって語っているのであれば、声は彼についてではなく、この他人について語っているのであって、他の誰についてでもない。(…)伴侶になるために彼は、何らかの精神的な活力を示さなくてはならない。(17)

 彼(ここでは横たわった老人)は声が自分に対して/について語りかけているのか不安に感じ、別の他人へ語りかけているのではないかと危惧する。「伴侶」は一つには二者間の結びつきを意味している。結びつきは必然的ではなく、「精神的な活力を示さな」ければ自分と異なる他者が「伴侶」となってしまうかもしれない。これはたんなる排他的選言命題のように見えるが、作中ではたびたび「すべてを自分の伴侶として想像する」という一節が差し挟まるのに加えて、「伴侶」は身体の境界を是非としない概念として提示される。

 声と、聞き手[横たわる老人:引用者注]と、自分自身を考え出すもの。自分の伴侶として、自己を考えだすもの。そのままにしておくこと。彼は自分について、まるで他人についてのように話す。自分について話しながら、彼は言うのだ。彼はまるで他人について話しているように自分について話していると。彼もまた自分の伴侶として、自分を想像していると。(18)

 人物たちは自分自身を「伴侶」として「想像」している。それは自分自身を他者としてあつかうことでもある。強調しておかなければならないのは、「すべてが自分の伴侶である」という状況はあくまで想像によって生まれることである。ベケットはたえず「想像」を呼びかける。

 さらに想像しなくてはならない。例えば自分の姿勢。立つ、あるいは座る、あるいは横になる、あるいは闇のなかで、他のごくありきたりの姿勢でいる。さらに想像すべき様々な答えの中の答え。同様に別の問いに対しても、さまざまな答えがあるなかで。(…)想像可能なあらゆる姿勢のうちどれが、同伴に好都合か。同じようにまた別の問いも想像しなくてはならない。(19)

 初期の小説作品において実際に行なわれた包括的選言命題は後期においては想像の営為となる(ドゥルーズが参照した『マーフィー』は1938年の作品)。かれらは見かけ上ただ待っているような姿勢で、執拗なほど別のありかた、別の答えにかんして想像をめぐらす。すべての伴侶=結びつきの想像、あらゆる可能な組み合わせの想像によって、営々とそれを待ちつづけるが、待ち受けたものはつねに決してやってこない。『ゴドーを待ちながら』では、二人の主役=エスドラゴンとヴラジーミルが待ちもうけるゴドーは結局姿を見せず、かれらは最後に「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう。」と言い交わすものの、物語は「二人は、動かない。」というト書きで締めくくられている(20) 。これに怠惰であるとの誹りは不適当だろう。なぜなら待つことをやめた瞬間に「可能なこと」はただ一つの実現へ排他的に収束してしまうからである。

4. 可能性の拡張

 以上をまとめると次のことが言えるだろう。ベケットは『伴侶』で伴侶=結びつきが想像力と密接な関係にあることを示唆している。どんな組み合わせが可能なのか、さまざまな答えの中にさらにどんな答えがあるのか、どこまでの行為がありうるか、そうした「すべてを自分の伴侶として想像する」ことを登場人物たちは実践している。「伴侶」は主体さえも不断に他者化する。それは自己との結びつきさえも消尽へ投げ込むきわめてラディカルな実践である。もちろん作中の「伴侶」概念はより開かれた意味をもち、本稿の論理展開はあくまで本文から引き出した読解の一つでしかないことに注意されたい。
 私がここで提案したいのは、排他的選言命題と消尽の揚棄ともいうべき行為の格率である。なにかの実現が即なにかの排除を生み出すのであれば、同時に複数の可能性を含み込むような選択法をとる必要があるだろう。そのさい、行為の可能性とその結びつきをたえず想像し、どんな行動の形態がありうるか、どの程度可能性が拡張されうるか、包括的に考えなければならない。組み合わせの過程で主体は基盤を失い、特権的・支配的な地位を剥奪されうる。
 たとえば「可能性の拡張」に関連して、エリザベス・ブレイク(2011)は「最小の結婚」という概念を提起している。現在の結婚制度はヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範)と強く結びついたものであり、婚姻関係を一対の男-女に限定することで他の多様な可能性の実現を妨げてしまう。「排他的な一対一のみを承認する婚姻法は、たとえ同性婚を承認したとしても異性愛規範的であり、それゆえ異性愛規範性は、成人間のケア・ネットワークを周縁化させるのである」(21) 。それとは対照的に最小結婚は二者間にのみ付与される婚姻上の権利を異性愛関係にとどまらないより多様な関係性へ分割し、分配する。

 最小結婚は、人々が持ちうる無数の関係や成人間ケア・ネットワークを支援するために、個々の権利を分割することを可能にする。最小結婚は、人が自分の結婚の権利を他の人と相互に取り交すことも、自分自身の成人間ケア・ネットワークを通じてその権利を分配することも可能にする。こうして最小結婚は、性愛規範的な婚姻法が排除してきたさまざまな関係性すなわち、友人関係、アーバントライブ、重層的ネットワーク、ポリアモリ等――をも支援できるのである。(22)

 本稿の議論に照らし合わせれば、最小結婚は選択による排他性を極力抑え込んだ「複数の可能性を含み込む選択法」である。ブレイクはそれを権利の分割という方法で包括的に温存しようとした。それは消尽といえるほどには網羅的ではないが、私たちの社会の支配的イデオロギー(恋愛関係はそれ以外の人間関係より優位にあり、なかんずく異性間のそれが最も尊重される)を揺さぶり、別様の社会のあり方を示すのに充分である。このように、「想像」は私たちの社会の別様のあり方を示す手段としてきわめて有効であると考えられる。
 菊池(2012)は『伴侶』の末尾に付された「ただ一人(Alone)」という単語が、それまでの語りと独立した「最後に残る唯一の人物を明るみに出」し、その人物こそが「『第三者』としての創造者であ」り、「人称代名詞による『語りのシステム』の外側にいる」と分析する(23) 。「創造者」は『伴侶』作中の虚構そのものを生み出し、みずからもその虚構へ身を投げ込む。「『伴侶』の末尾は、創造者が虚構の内部から外部へと引き戻される瞬間を表している。だが、再び伴侶を欲した創造者は、声と聞き手を想像し、同じ虚構の同伴へと帰っていくのである」(24) 。たえず同伴へと帰ることで、外部という静止へとどまることなく、生成変化へ身を置きつづける試み。ベケットはそのような主体のあり方を『伴侶』に描き出している。「すべてを自分の伴侶として想像すること」は、それほどにもドラスティックな実践ではないだろうか。

5. おわりに

 ベケットは存在と非存在の「どちらでもないもの」を〈女性的なるもの〉ととらえた。それは歴史上周縁に置かれたものとのアナロジーとしての表象だったが、本稿ではその〈女性的なるもの〉の表出にこそ主眼を置いた(ここでは「女性的」はあくまで修辞的な用法であり、特定のセクシュアリティや性指向を意味しない)。排他的選言命題による抑圧のシステムとはまったく異質な「消尽」と、それを支える「伴侶」と「想像」によって、ベケットはその方法を私たちに示唆している。決して行動を躊躇するわけではなく、ありうる/あらゆる可能性の結びつきを考慮し、同伴し、その上で選択することで、私たちはありうる社会や、きたるべき未来を引き寄せることができる。そのひとつが、ブレイクの提唱する「最小結婚」概念であるといえよう。それは抵抗であると同時に変革を呼び起こす実践である。ベケットはその端緒を私たちに示している。

脚注

(1)対馬美千子(2011)「ベケットにおける〈女性的なるもの〉と〈傷〉」『論叢現代語・現代文化』vol.6.pp. 1-16.筑波大学人文社会科学研究科現代語・現代文化専攻.p. 11.
(2)ドゥルーズ、ジル(1990=1994)『消尽したもの』(宇野邦一・高橋康也訳)白水社.p. 8.
(3)竹村和子(2000)『思考のフロンティア フェミニズム』岩波書店.p. 19.
(4)マルヴィ、ローラ(1975=1998)「視覚的快楽と物語映画」(斉藤綾子訳)岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『「新」映画理論集成〈1〉歴史/人種/ジェンダー』pp. 126-141.フィルムアート社.「解題」p. 140.
(5)同論文.p. 135.
(6)たとえば田崎英明(2000)『思考のフロンティア ジェンダー/セクシュアリティ』岩波書店.pp. 5-7.など。
(7)マルヴィ、前掲論文.p. 131.
(8)ドゥルーズ、前掲書.pp. 8-9.
(9)同書.pp. 9-10.
(10)同書.p. 11.
(11)同書.p. 104.
(12)同書.p. 104.
(13)companyはジーニアス英和辞典(2014年、大修館書店)では「(一緒に過ごす)仲間、友達、連れ」と説明されている。
(14)菊池慶子(2012)「同伴するために 『伴侶』におけるイメージの創造と境界の感覚」岡室美奈子・川島健・長島確編『サミュエル・ベケット!-これからの批評-』pp. 185-209.水声社.p. 188.
(15)ベケット、サミュエル(1979=1990)『伴侶』(宇野邦一訳)書肆山田.p. 108.
(16)同書.p. 30.
(17)同書.pp. 16-17.
(18)同書.pp. 40-41.
(19)同書.p. 42.
(20)ベケット、サミュエル(1952=2013)『ゴドーを待ちながら』(安藤信也・高橋康也訳)白水社.p. 196.
(21)ブレイク、エリザベス(2011=2019)『最小の結婚 結婚をめぐる法と道徳』(久保田裕之監訳)白澤社.p. 158.
(22)同書.p. 273.
(23)菊池、前掲論文.p. 191.
(24)菊池、前掲論文.p. 192.

参考文献

菊池慶子(2012)「同伴するために 『伴侶』におけるイメージの創造と境界の感覚」岡室美奈子・川島健・長島確編『サミュエル・ベケット!-これからの批評-』pp. 185-209.水声社
田崎英明(2000)『思考のフロンティア ジェンダー/セクシュアリティ』岩波書店
竹村和子(2000)『思考のフロンティア フェミニズム』岩波書店
対馬美千子(2011)「ベケットにおける〈女性的なるもの〉と〈傷〉」『論叢現代語・現代文化』vol.6.pp. 1-16.筑波大学人文社会科学研究科現代語・現代文化専攻
ドゥルーズ、ジル(1990=1994)『消尽したもの』(宇野邦一・高橋康也訳)白水社
ブレイク、エリザベス(2011=2019)『最小の結婚 結婚をめぐる法と道徳』(久保田裕之監訳)白澤社
ベケット、サミュエル(1979=1990)『伴侶』(宇野邦一訳)書肆山田
 ――(1952=2013)『ゴドーを待ちながら』(安藤信也・高橋康也訳)白水社
マルヴィ、ローラ(1975=1998)「視覚的快楽と物語映画」(斉藤綾子訳)岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『「新」映画理論集成〈1〉歴史/人種/ジェンダー』pp. 126-141.フィルムアート社
『ジーニアス英和辞典 第5版』大修館書店、2014.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?