マフムード・マムダニ『市民と臣民』第1章
(Mahmood Mamdnani, 1996, 𝘊𝘪𝘵𝘪𝘻𝘦𝘯 𝘢𝘯𝘥 𝘚𝘶𝘣𝘫𝘦𝘤𝘵 : 𝘊𝘰𝘯𝘵𝘦𝘮𝘱𝘰𝘳𝘢𝘳𝘺 𝘈𝘧𝘳𝘪𝘤𝘢 𝘢𝘯𝘥 𝘵𝘩𝘦 𝘓𝘦𝘨𝘢𝘤𝘺 𝘰𝘧 𝘓𝘢𝘵𝘦 𝘊𝘰𝘭𝘰𝘯𝘪𝘢𝘭𝘪𝘴𝘮, Princeton University Press, より、CHAPTER 1: INTRODUCTIONを訳出)
はじめに──アフリカの隘路をとおして考える
アフリカの現在の苦境についての議論は、おおよそモダニストとコミュニタリアンという、二つの明白な傾向のもとに展開している。モダニストは80年代後半の東欧の蜂起からインスピレーションを受け、コミュニタリアンは、リベラルあるいは左派的な〈ユーロセントリズム〉を非難し、原点回帰を呼びかける。モダニストにとって問題は、アフリカにおいて市民社会が未発達かつ周縁的構造なことにあり、コミュニタリアンにとって問題は、アフリカを構成する実際の血肉のかよった共同体が、多くの「部族」として公的生活から周縁化されていることにある。リベラルな解決策は市民社会に政治を位置づけることであり、アフリカ主義者の解決策は、アフリカの昔からの共同体をアフリカの政治の中心に置くことである。一方は諸権利を擁護する体制を呼びかけ、もう一方は文化の防衛に立つ。アフリカにおける隘路は実践的政治のレベルだけではない。それは視点の麻痺でもあるのだ。
この理論的な行き詰まりへの解決策──モダニストとコミュニタリアン、〈ヨーロッパ中心主義者〉と〈アフリカ主義者〉のあいだの──は、どちらかを選び、凝り固まった立場を守ることにあるのではない。なぜならこの論争における両者は同じアフリカのジレンマのことなる側面を強調しているからである。私は、前進の道は、同時に批判と肯定をするふたつの動きによって両者を昇華することにあると提案する。双方のポジションを超越して創造的な統合に到るためには、おたがいを問題化しなければならない。
そうすることで、私はこの本でふたつの連関した現象を分析する。つまり、権力はどう組織され、それは現代アフリカにおける抵抗をどう分裂させているか。諸権利の言語と文化のそれを、歴史的かつ制度的なコンテクストに位置づけることで、私は、国家改革と人民の抵抗の弁証法により再生産されつづける私たちの制度的遺産の一部を強調したい。核となる遺産は植民地の経験によってつくられることが示されるだろう。
植民地の言説で、外的(alien)な統治を安定させることの問題は、高尚にも「原住民の問題」として言及された。それはすべての植民地的権力が直面するジレンマであり、それら最高の知性を悩ませる謎だった。そのため、南アフリカの首相としては珍しく国際的に名声があったヤン・スマッツ将軍のような偉大な人物が、1929年にオックスフォードに招かれて有名な〈ローズ記念講演〉をおこなったとき、先住民の問題が彼の思慮の中核をなしていたことは驚くことではない。
スマッツがイギリスの聴衆に言い聞かせることには、アフリカ人は「いくらか不思議な特徴をもつ」特別な人間の「類型(type)」であり、彼はつづけてこう賛美する。「それはおおよそが子供の類型のままであり、子供の心理状態と見た目をしているのです。子供のような人間は悪い人間のはずがありません、なぜなら私たちは精神的な問題では小さな子供のようになることを禁じられているではありませんか? おそらくこの気質の直接の結果として、アフリカ人は私が出会ったうちで唯一の幸福な人間です」。たとえ言葉の中のレイシズムが人目をひくとしても、私たちはスマッツを南アフリカの異常人物としてしりぞけることには注意しなければならない。
スマッツは西欧の立派な伝統の中で語ったのだ。ヘーゲルの歴史哲学は「アフリカ本来の姿」を「幼年の地」として神話化したのではなかったか? イギリス植民地の入植者たちは年齢に関係なくすべてのアフリカ人男性を「ボーイ」──ハウスボーイ、シャンバボーイ[庭園の雇われ人。shambaはスワヒリ語で「畑」の意]、オフィスボーイ、トンボーイ、マインボーイ──と呼び、それはフランコフォン・アフリカ[アフリカのフランス語圏]であらゆる年齢のアフリカ人が子供になじみやすいチュ(tu)を使われていたこととなんら変わらないではないか?「ニグロは子供であり、子供達がいると、権威なしにはなにもできない」と、ガボンで有名な尊崇すべきアルベルト・シュヴァイツァーは言った。とはいえ植民地の精神にとってはアフリカ人はたんに子供なのではない。かれらはそうなるよう永遠に運命づけられている──クリストファー・ファイフの言葉でいえば、「決して成長しないピーターパンの子供達、子供の人種」¹なのである。
しかしこの本は植民地主義の人種的遺産についてのものではない。もし私が植民地レイシズムの遺産を強調しない傾向にあるとすれば、それは、それがフランツ・ファノンのような好戦的な知識人による鋭敏な分析の主題であるだけでなく、私が、植民地の遺産の一部──制度的な──がおおよそは無傷のままであることを強調したいからである。ちょうど脱人種化がポストコロニアル的な改革の限界を示したために、植民地主義の非人種的な遺産は、公共の議論の焦点となるだろうから、公開された状態にしなければならない。
スマッツ将軍の要点は、彼が自分の階級や人種の多くと共有したレイシズムにはない。スマッツはたんに無意識に伝統を擁護したわけではないからだ。そうした伝統の前線の見張りに立つ歩哨として以上に、彼はむしろその標準的な擁護者だった。イギリスの戦時内閣の一員であり、チャーチルやルーズヴェルトの相談相手であり、かつてはケンブリッジ大学の総長でもあったスマッツは、第一次大戦後の時代には〈国際連盟規約〉の起草者の一人となった²。まさに啓蒙的なリーダーの印象とともに、スマッツは奴隷制に反対し、「ヨーロッパを解放したフランス革命の原理」を讃えたが、彼はそれをアフリカに適用することには反対した。なぜなら彼が言うように、アフリカ人は、「アフリカ人を脱゠アフリカ化し、地上の獣かニセヨーロッパ人にしてしまう」だろう「政治の適用ほどアフリカにとって悪いことはありえない」ような「ユニークな人種」であるからだ。「そして過去には」と彼は嘆く。「私たちはアフリカ人との折衝において双方の選択肢につとめました」。
スマッツは苦心して、たとえ良き信心に覆われていても、無知においてつくられた政策の否定的な帰結を強調している。
もし「世界に貢献する」ために「アフリカは救済されなければならない」のであれば、「私たちはことなった方向に進み、その諸制度をなじまないヨーロッパの鋳型に押し込めない政策を発展させなければならない」が、「それはアフリカが自分の過去との統一を保ち」、「特にアフリカの基礎の上に、その未来の進歩と文明を築かなければなりません」。続けてスマッツは大胆にも「新しい政策」を提唱した。「大英帝国は、その人民を共通のタイプに同化させるのでも、標準化させるのでもなく、その人民が、自分たち独自の路線に沿ったもっとも自由な発展を目的とするのです」。
スマッツの主張では、「共通のタイプ」への同化とは対照的に、「(その)人民のもっとも自由な発展」が要求するのは「制度的な分離」である。スマッツは南アフリカの実践における「制度的分離」と「地域的分離」を対比させている。「地域的分離」の問題は、一言でいえば、それが制度的同質化の政策に基礎づけられていることである。原住民は地域的には白人から分離しているかもしれないが、原住民の制度はゆっくり、だが確かに外的な制度上の鋳型に取り代わっていった。経済が工業化するにつれて、「色の問題」が浮上し、その根底には「都市化された、あるいは脱部族化された原住民」があった。スマッツの要点は人種隔離(「制度的分離」)は廃止すべきだということではない。むしろ、それはより広範な「制度的分離」の一部となることで安全な足場を固めることにあった。「制度的分離は地域的分離をともなう」。経済成長による労働力需要を補填しつつ原住民の制度を保護する方法は、出稼ぎ労働の制度によってであった。「原住民の家族の家が白人のもとではなく自分の地域にいるかぎり、原住民の組織が実質的に影響されることはない」からである。
簡単にいえば、地域的分離の問題は人種的支配を不安定にすることにあった。経済が成長すればするほど、それは「都市化あるいは脱部族化された原住民」に依存するようになる。その結果、支配の受益者は外的なマイノリティに、その犠牲者は明白に土着のマジョリティであるかのような観を呈した。人種的支配(地域的隔離)を安定させる方法は、それを政治的に強制された民族的多元主義(制度的隔離)のシステムの中に位置づけることであり、そうすればみんなが、犠牲者のみならず受益者も、複数のマイノリティーとしてあらわれてくるのである。とはいえ移民労働者が原住民と白人社会のあいだに制度的な日々のつながりを提供しているため、土着的諸制度──たくさんの農村部族の複合体としてつくられたもの──は別々に保護はされるかもしれないが、より下位のものとして機能したのだろう。
しかしこの点でスマッツは挫折してしまった。南アフリカで制度的分離の政策を実施するには時すでに遅しと考えたからだ。都市化はすでに進行しすぎてしまった。しかし北側の後発植民地が南アフリカの経験から学ぶことはかならずしも遅くはなかった。「そのため、南アフリカの状況は、はるか北にできて間もないイギリス人コミュニティすべてにとって、先住民が自分の部族的つながりから切り離されることをできるだけ防ぎ、分離のシステムをまさにはじめから施行し、別々の土着の諸制度を保護するための教訓となるのです」。
しかし、ブローダーボンドはそうではなかった。このボーア人至上主義者の兄弟分にとって、人種的支配のシステムを安定させることは生死にかかわる問題であり、遅すぎるということはなかった。スマッツが制度的分離と呼んだものを、ブローダーボンドはアパルトヘイトと呼んだ。アパルトヘイトが実施されるようになった背景には、特に厳しい特徴があった。原住民を自分たち自身の制度で支配するためには、まず原住民を原住民の制度の枠内に押し込めなければならなかった。半工業化され、高度に都市化された南アフリカの文脈では、これは一方で、非生産的であるとみなされた人びとを強制的に排除し、白人地域から原住民のホームランド[アパルトヘイト時代のバンツー族のための保留地]に押し戻すことを意味し、他方で、生産的であるとみなされた人々を、毎年の移住という継続的なサイクルを通じて、仕事場とホームランドの間で強制的に行き来させることを意味していた。これらの変化をもたらすためには、南アフリカの植民地的体験を独自のものにするような、ある程度の力と残虐性が必要だった。
しかし、制度的分離もアパルトヘイトも、南アフリカの発明ではない。むしろ、〈イギリス植民地当局〉が「間接統治」、フランスが「連合」と呼んだ統治形態を理想としていたのである。スマッツの30年前には、ルガード卿がウガンダとナイジェリアにおける間接統治の先駆者となっていた。そしてスマッツの30年後、ヘイリー卿は、植民地支配の形態の違いを、ヨーロッパ人とアフリカ人の関係を整理する上で「同一性」と「差異性」の区別を軸にまとめている。「同一性の理論は、アフリカ人の将来の社会的・政治的制度がヨーロッパ人のそれと基本的に類似しているように設計されていると考え、差異性の理論は、アフリカの条件に適した、精神的にも形式的にもヨーロッパ人のそれとは異なる独立した制度を発展させることを目的とする」⁵。差異性の強調は、それによって臣民を統治するための「土着的」制度を構築することを意味した。しかし、このように定義され、施行された制度は、人種的なものでも、ましてや民族的なものでも、「原住民」でも「部族」でもなかった。このため人種的な二元論は、政治的に強制された民族的多元主義に固定されていた。
それらの攻撃的で侮蔑的な性質を強調するために、私は原住民(native) と部族的(tribal) という言葉を引用符で囲んだ。しかし最初に使用した後は、読者の継続的な警戒心と良識に頼ることにして、面倒な読み物にならないように引用符を外した。
つまり本書は、植民地期のアフリカで形成され──独立後に改革された──差別化(制度的分離)の体制と、それが生み出した抵抗の性質についての本である。歴史的には、ヨーロッパ人がどのようにアフリカを統治し、アフリカ人がそれにどう応えたか、についてである。そして現在に引き寄せ、現代アフリカにおける権力の構造と抵抗の形についてである。私はこれら三つの論点に基づいて研究を進めてきた。現代アフリカにおける権力の構造は、反植民地闘争から生まれたというよりも、植民地期にどの程度形成されたのか?かれらがアフリカの植民地に法の支配を導入したという考え方は、植民地権力の思い込みにすぎないのだろうか?第二に、人種的支配は、たんに多様な民族を共通の苦境に結びつけるというよりは、実際には、民族的に組織されたさまざまな地方権力を媒介としていたのではないか?そうだとすれば、反植民地(民族的)闘争を、民族的に組織され中央から強化された多くの地方権力に対する一連の民族的反乱──言いかえれば一連の民族的内戦ではなく、一方的なエスニシティの否認と考えるのは、たとえ魅力的であっても単純すぎるのではないだろうか?要するに、エスニシティは権力と抵抗の両方の次元であり、問題と解決の両方の次元ではなかったのか?最後に、もし権力が差異を強調し、抑圧されたマジョリティの存在を否定することでみずからを再生産するのであれば、抗議の責務は、これらの差異を否定することなく超越することではないだろうか?
私は四つの目標を念頭にこの本を書いた。最初の目標は、現代アフリカ研究に浸透しているメソッドである、アナロジーによる歴史の記述を問いに付すことである。これによって、分析のユニットとしてのアフリカの正当性を確立することをめざした。二番目の目標は、よく南アフリカに独特であるとされるアパルトヘイトが、実際はアフリカにおける植民地国家の一般的な形態だということを確立することである。統治の形態として、スマッツが制度的分離と呼んだアパルトヘイトを、イギリスは間接統治と、フランスは連合(association)と呼んだ。これは私が脱中心化された専制主義と呼ぶ共通の状態である。その結果として、アフリカの研究から得た教訓を南アフリカの諸研究にもたらし、その逆もまた然りなのだが、これによって南アフリカの例外主義という観念を問いに付す。三番目の目標はエスニシティの矛盾した特徴を強調することである。このふたつの潜性を、権威主義的なものから解放のためのものを解きほぐすにおいて、私の目的は解放的な諸運動を特定し、それらを無批判な追認に益することにはない。むしろ批判的な分析をとおしてそれらを問題化することにある。四番目かつ最後の目標は、植民地主義とともにつくられた二分国家(bifurcated state)が、独立後には脱人種化されたとしても、それは民主化はされなかったということを示すことである。独立後の改革は多様な結果を導いた。無批判に植民地の遺産を再生産するのに甘んじたような民族主義的な政府はなかった。それぞれ国家主導による、農村と都市の、エスニシティ間の分離を制度的に結晶化させた二分国家を改革しようと努めた。しかしそうするうちにその遺産の一部を再生産し、独自のさまざまな専制主義をつくり出してしまった。
これらの問いと目標は以下の章における議論のまさに根底にある。しかし、私の論議の概略を完全に描き出すまえに、私の理論的な出発点をあきらかにすることが必要だと思う。
アナロジーによる歴史を超えて
キューバ革命の余波から、従属理論は、さまざまな形態の一直線的な進化論に対する強力な批判として登場した。それは、低開発国は近代化が必要な伝統的な社会であるという主張と、それらがブルジョア革命を必要としている前資本主義の後進国であるという信念の両方を否定した。低開発は、歴史的に生み出されたものであり、近代帝国主義の創造物であるとして、産業資本主義と同様に近代的なものであると従属理論の支持者は主張した。どちらも「世界的規模における蓄積」⁶のプロセスの結果であると。
歴史的特異性を強調していたにもかかわらず、従属理論はすぐに非歴史的構造主義の別の形態に陥った。近代化理論や正統派マルクス主義と並んで、従属理論は社会的現実を一連の二項対立で捉えるようになった。近代化論者が社会を近代的か前近代的か、工業的か前工業的かと考え、正統派マルクス主義者が生産様式を資本主義的か前資本主義的かと概念化したとすれば、従属論者は開発と低開発を並置する。この二極化のうち、主導的な用語──「近代」「産業」「資本主義」「発展」──は、分析的価値と普遍的地位の両方を与えられていた。もう片方の用語は余りだった。主要な言葉がなければほとんど意味をなさないこの言葉は、独立した概念的存在ではなかった。傾向としては、これらの経験を一連の近似値として、完全に効率的ではないリプレイ、現実的なパフォーマンスには及ばない代役として理解していた。アナロジーによってまとめられた経験は、舞台上の歴史的な後発組とみなされるだけでなく、前もった運命であるともみなされていた。主要な用語が分析的な内容を持っていたのに対し、余りの用語はオリジナルの歴史と真正の未来の両方を欠いていた。
現実のパフォーマンスが規定の軌道に対応しない場合、それは逸脱として理解された。このように二極化は、普遍的で正常とみなされる経験と、余りか病的とみなされる経験との二重の区別に基づいていた。残余あるいは逸脱したケースは、それが何であるかという観点からではなく、それが何ではないかという観点から理解された。よって「前近代」は「まだ近代ではない」となり、「前資本主義」は「まだ資本主義ではない」となった。しかし、例えば、生徒はまだ教師ではないと理解されるだろうか?言いかえれば、プロの教師になることは、すべての生徒にとって、真の、必然的な運命なのだろうか?進化論の企てにおける余りの用語──「前近代」、「前工業」、「前資本主義」、「低開発」──は、一直線上の社会科学が説明しがちな「その他」を要約したものである。
しかし、単線的な社会科学には二重の操作が含まれる。もしそれに、余りの用語としてまとめられた経験を戯画化する傾向があるならば、それはまた、主要タームである経験を神話化する。前者が非歴史的であるとすれば、後者は超歴史的な発展の軌跡、その発展の主要なラインが、道中で起こった闘争に影響されないような必然的な通り路であるとされる。どちらも歴史を奪われているような感覚がある。
主体に歴史性、つまり主体性を回復させようとする試みは、構造主義に対するさまざまな批判の最先端であった。しかし、構造主義が主体性を歴史の鉄則の中に閉じ込めてしまう傾向にあったとすれば、ポスト構造主義は、主体性を救済するという名目で、歴史的制約の意味を薄めてしまう傾向が強い。フランスのアフリカ研究者であるジャン゠フランソワ・バヤールは、「世界システムへのアフリカ社会の依存的参入は、特にユニークなことではなく、科学的に脱ドラマ化すべきである」⁷と主張している。一方で「不平等はいつの時代にも存在しており──うんざりするほど(𝘢𝘥 𝘯𝘢𝘶𝘴𝘦𝘶𝘮)強調するべきだが──歴史性を否定するものではない」が、他方で、「外向性の戦略に意図的に頼ること」は「大陸の歴史の中で繰り返される現象」である。このため従属理論は、近代帝国主義が──祝われているとも言うべきか?──アフリカのイニシアチブの結果だとされているのと同様、逆立ちしているのである!同じく、最近の別の歴史的書き換えでは、奴隷制もまた、地方のイニシアチブの結果として説明されている。ジョン・ソーントンは、「大西洋の発展におけるアフリカ人の役割は、大西洋のどちら側でも、単に二次的なものではないだろう」と約束している。なぜなら、大西洋のこちら側では「アフリカ人の奴隷貿易への参加は自発的であり、アフリカ人の意思決定者の支配下にあった」こと、そして大西洋の向こう側では「奴隷制度という条件は、それ自体は必ずしもアフリカ志向の文化の発展を妨げなかった」ことの両方を「私たちは受け入れなければならない」⁸からである。人間のイニシアチブや創造性は死をもってしてもなくならないと主張することと、そのような身ぶりすべてに歴史的な自発性の証拠を見出すことは全く別のことである。「強制収容所の収監者でさえ、この意味では、彼ら自らの文化の論理で生きることができる」とタラル・アサドは言う。「だが、かれらが『自らの歴史を創っている』などと言っていいものか、疑うことは許されるだろう」⁹。
正常と異常、文明人と野蛮人という壁に囲まれた科学を生み出した、構造主義者に触発された二項対立を批判したことは、ポスト構造主義の主な功績である。しかし、この批判を評価することと、近代的なものと伝統的なものの概念に組み込まれたこれらの認識論的対立を超越しようとすることで、ポスト構造主義が健全なヒューマニズムの基礎を作り上げたという主張を受け入れることとはまったくちがう。この主張はアフリカ研究者の支持者によって提唱されている。かれらによれば、学問はアフリカを「脱エキゾチック化」し、それを凡庸化しなければならない。
エキゾチックなものからありふれたものへ(「そうだ、ありふれたアフリカだ──呪われよ、エキゾチシズム!」)¹⁰というのは、一方の極からもう一方の極へ、つまり、アフリカでの出来事の流れを世界史の一般的な流れの中で例外的なものと見ることから、日常的なものと見なし、一般的な流れの中に単に溶け込み、その流れを確認し、その過程でアフリカ人の人間性を推定的に確認することになるのである。その過程で、アフリカの歴史と現実は特殊性を失い、それにともなって、私たちはアフリカという概念を作り出されたもの以外は失うことになる。しかし、構造的な制約から抽象化されたときにのみ、主体性は歴史的特異性を欠いているように見えるのである。この時点で、抽象的な普遍主義と親密な特殊主義は、同じコインの裏表のようなものであることがわかる。どちらも経験の特異性に、その独自性をしか見出さないのである。
家産制国家
ポスト構造主義者がメタ理論やメタ経験を避け、親密さや日常性を重視するのに対し、主流なアフリカ研究者はそのどちらにも遠慮している。アフリカの発展はごくはじめの歴史を反映したものとして理解するのが最善であるという推定は、北米のアフリカ研究者の間で広く共有されている。現在、民主主義の保証人として市民社会が関心事となる以前──後で述べるように──アフリカの政治学は主にふたつの問題に関心を寄せていた。それは、システム内の人びとの汚職への傾向と、システムの周辺にいる人びとの退場である。
汚職に関する文献では、その蔓延を、ヨーロッパの古い実践の再来として理解している。「家産制(patrimonialism)」または「プレベンダリズム」¹¹である。2つの大きな傾向が見られる¹²。国家中心主義者は、国家が社会に十分に浸透せず、そのために国家の人質になっているとし、社会中心主義者は、社会が国家の責任を追及できず、そのために国家の餌食になっているとする。私は、前者が、国家がどのように社会に浸透していくのかという権力の形態を見落とし、後者が、社会がどのように国家に責任を負わせるのかという反乱の形態を見落としているということを論じる。なぜならどちらもアナロジーによって作用しており、歴史的に特異な現実に取り組むことができないからだ。
民主主義の保証人として市民社会を擁護する現在の社会中心主義者に話を戻すが、国家中心主義者の議論の輪郭をたどることは価値がある。社会的な圧力に圧倒され、個人や部門の利害関係によって組織的な整合性が損なわれた国家は、「弱いリヴァイアサン」¹³、「社会の上に吊るされた」¹⁴存在になってしまった。「柔らかい」¹⁵にしても、「衰退」や「腐敗」¹⁶にしても、この生き物は「遍在」してはいても「全能」¹⁷ではない。ここに次のような論理的な結論が続く。つまり、このような国家権力の形態は、「近世の権威主義的国家」、「近世の絶対主義的国家」、「家産制独裁国家」とさまざまに呼ばれ、17世紀ヨーロッパや初期のポストコロニアル・ラテンアメリカの先達になぞらえて、資本主義への移行期の政治的特徴として強調されることが多い。
具体的な条件──このばあいは16世紀から18世紀のヨーロッパ──のもとで展開された歴史的プロセスを、その後の社会発展を理解するための視点とするとどうなるか?その結果、プロセスとしての歴史というよりはアナロジーによる歴史となってしまう。アナロジーを求めることが、理論形成の代わりになってしまうのである。アフリカ研究者は、外国語を学んでいる者が、新しい言葉をすべて母語に戻さなければならず、その過程で新しい経験において何が新しいのかを正確に見落とさなければならないのと似ている。このような立場から、もっとも激しい論争は、観測中の現象の意味を捉えるためのもっとも適切な翻訳、もっとも適切な適合性、もっとも適切なアナロジーは何か、という点に集中する。アフリカ研究者の議論は、現代アフリカの現実が、17世紀ヨーロッパの絶対主義下での資本主義への移行にもっとも似ているのか、それとも他の第三世界の経験下でのそれに最も似ているのか¹⁸、あるいはアフリカのポストコロニアル国家がボナパルティズムと絶対主義のどちらに分類されるべきなのか¹⁹、という点に焦点を当てる傾向がある。両者の違いはあっても、アフリカの現実は、それ以前の歴史の発展における特定の段階を反映していると見なされるかぎりにおいてのみ、意味を持つという点で一致している。ヨーロッパの歴史的経験をその試金石とし、普遍的なものの歴史的表現としている以上、現代の一直線的な進化論は、より具体的かつ適切に、ヨーロッパ中心主義として特徴づけられるべきである。このような方法論的志向の中心的な傾向は、現象を文脈やプロセスから切り離すことである。その結果がアナロジーによる歴史となる。
捉えられない農民たち
汚職に関する文献はおもにアフリカの国家について書かれているが、出口に関する文献は農民について書かれている。ここにはふたつの正反対の視点がみられる。ひとつは、アフリカの田舎を市場での取引の集合体としてみるものであり、もうひとつは、市場ではない親族関係の環境に巻き込まれた世帯の集合体として見るものである。前者にとっては、市場が農村生活の決定的な特徴であり、後者にとっては、アフリカの村落の本質的な現実は、市場とはほとんど関係がない。同じ傾向が、対照的なイデオロギーの装いをまとって現れることもある。例えば、アフリカの農村は実際には前資本主義であり、市場は外的で人工的な押しつけであるという議論は、ジュリアス・ニエレレを筆頭とするアフリカ社会主義の支持者によって最初に提唱された。従属理論が主流だった70年代半ばには、この説は大きく信用をなくしていたが、80年代になってゴラン・ハイデンが復活させた²⁰。ハイデンはニエレレと同じように──ふたたびタンザニアの経験資料に基づいて──「アフリカ」の「本質的な現実」は市場の関係とはほとんどかかわらないと主張したのである。それどころか、それは前市場的な「愛情の経済」のユニークな表現であると主張した。市場理論は、基底状態(ground-level)の市場の合理性が、顧客に追われながらも全権を握る国家によって、抑圧されると同時に歪められていると主張するIMFの理論家によって支持された。この主張は、ロバート・ベイツの『アフリカにおける市場と国家』という研究が広く普及したことで、学術的にも評価されるようになった。後者の傾向が、政策決定の場で公式の真実としての地位を享受する一方で、前者は学術界では周縁的だがファッショナブルな関心事として生き残っている。
私の関心は、これらの対立する視点を導く方法にある。市場理論家の場合、その方法は明白である。かれらは市場を非歴史的で普遍的な構造であると考える。市場はつくられるものではなく開放されるものであり、アフリカの国々はヨーロッパの国々と同様に市場社会である。しかしゴラン・ハイデンは、アフリカの赤裸々な現実を暴露していると主張する。しかし、彼はそのような現実を歴史的に検証するのではなく、形式的なアナロジーによって進めている。アフリカに適したアナロジーを探すうちに、彼は適さないアナロジーを次々としりぞけていく。その過程で、彼は主要な結論を確立する。アフリカは、賃金労働によって農民が「捕獲」されたヨーロッパではないし、借地契約によって農民が「捕獲」されたアジアやラテンアメリカとも違う。しかしこの探求は、存在しないものを示すことにとどまっている。「本書の主張は」とハイデンは書いている。「アフリカは、農民が他の社会階層に取り込まれていない唯一の大陸であるということだ」²¹。正しい歴史的アナロジーの探求に熱を上げるあまり──この点はあとで明らかになるだろうが──ハイデンは、それによって「自由な」農民が「捕獲」され再生産されるような関係を正確に見落としている。
この本で私は、アフリカの経験を例外的でエキゾチックなものとして切り離すことも、ルーティンかつ平凡なものとして広範な理論の塊に吸収させることもしないように努めた。どちらも、それを否定するためのさまざまな方法であると思われたからである。対照的に、私はアフリカの経験、あるいは少なくともその一部分の特異性を強調しようとした。これは、比較研究に対する議論ではなく、抽象的な普遍主義の名のもとに、あるいは親密な個別主義の名のもとに、アナロジーによってのみ意味を持たせようとするため、現象をコンテクストから持ち上げて歴史から切り離そうとする人びとに対する議論である。対照的に、私の試みは、分析の単位としてのアフリカの歴史的正当性を確立することである。
市民社会
市民社会に関する現在のアフリカ研究者の言説は、ごく初期の社会主義に関する言説に似ている。それは分析的というよりはプログラム的であり、歴史的というよりはイデオロギー的である。その中心にあるのは、市民社会はヨーロッパと同様にアフリカにも完全に形成された構成要素として存在しているという主張と、どこでも民主化の原動力は市民社会と国家とのあいだの争いであるという主張である²²。これらの主張を理解するためには歴史的な分析が必要となる。なぜならこれらの結論はアナロジーによって得られるからだ。
市民社会という概念は、1980年代後半の東欧の蜂起で注目されるようになった。これらの出来事は、国家中心から社会中心の視点へ、国家権力を獲得しようとする武装闘争の戦略から、自己限定的な権力をつくり出そうとする非武装の市民闘争の戦略へのパラダイムシフトを示すものと受け止められた。1980年代後半、社会-国家の闘争というテーマは北米のアフリカ研究者の間で反響を呼び、それによってアフリカで起きている出来事の重要性を測るための新しい反射鏡となった。武装闘争から民衆の市民的抗議行動への移行は、南アフリカではその10年前、1973年のダーバン・ストライキと1976年のソウェト蜂起の過程で起こっていたにもかかわらず、これらの出来事の重要性を例外的に評価する傾向があったのと同じ観察者が、のちに東欧で起こった出来事の輸入を熱心に一般化したのである!
ルネサンス以降の理論²³の核心は、市民社会は歴史的に構築されたものであり、国家における権力と、経済における分業という全面的な分化の過程の結果として、市民生活を統治する自律的な法的領域が生まれたというものであった。ヘーゲル的な市民社会の概念は、この主題に関する西洋思想の主流の集大成であると同時に踏み台でもあるといっても過言ではない²⁴。家父長的な家族と普遍的な国家にはさまれた市民社会は、ヘーゲルにとって二元的なプロセスの歴史的産物であった。一方では、商品諸関係の普及が経済以外の強制力を弱め、そうすることで経済──ひいては社会──を政治の領域から解放したのである。また他方で、近代国家における暴力手段の集中化は、暴力に直接頼らずに社会における差別化を解決することと並行して行なわれた。経済以外の強制力がなくなったことで、力(force)は日常生活における直接的な裁定者ではなくなった。自由かつ自律的な個人の間の契約関係は、のちに市民法によって規制されることになる。法に縛られた近代国家は市民の権利を認めた。法の支配とは、法に制限された行動がルールであることを意味する。市民社会が文明社会(civilized society)として理解されたのはこのような意味においてである。
相反する利害関係が出会う場として、ヘーゲルの市民社会はふたつの関連したモーメントから成る。ひとつ目は衝突的な、ふたつ目は統合的なモーメントである。ひとつ目は市場のアリーナに、ふたつ目は世論においてである。これらふたつのモーメントは、マルクスとグラムシにおいて市民社会のふたつの異なる概念として再浮上する。マルクスにとって市民社会は市場に埋め込まれた諸関係の全体である。その特徴を決する行為主体はブルジョワジーである。グラムシにとって(ポランニー、タルコット・パーソンズ、そして後のハーバマスにとっても)、市民社会の根底にある差異化は、国家、経済、社会の間の、二重ではなく三重のものである。市民社会の領域は市場ではなく世論と文化である。その主体は、主にヘゲモニーの確立に関与する知識人たちである。その特徴は、自発的な結社と自由な世評、つまりは自律的な組織と表現生活の基礎である。
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