Born in the USA / Bruce Springsteen (220131)

 1984年にリリースされたブルース・スプリングスティーンの「Born in the USA」は、冷戦下の東西陣営の思想的対立(とされている)の主戦場となったベトナム戦争の傷──それは身体や精神にただ傷つけられる傷ではなく、それがなかば強制的にともなう抑圧を反復せざるをえないという意味でも〈傷〉であるのだが──が、10年以上経ったいまでも決して癒えていないことを示したという点で、アメリカン・ドリームの代理-表象(representation)として機能していた米ポップスの出色というべき作品だった。どの言語であろうとこの世に生を受ける言葉は受身でしか表現されない(「産まれる」、「be born」、「kuzaliwa」…)。「アメリカに生まれる」ことは自分の自由意思を超え出たところに、絶対的に現在を規定する彼岸にある。「Born in the USA」は、「アメリカに生まれる」ことの偶然の両義性──「アメリカに生まれてよかった!」と「アメリカに生まれてしまった」──を必然的に負わされている。前者は愛国主義を、後者は(厭国にとどまらない)厭世主義を帰結する。なぜなら「この国に生まれてしまった」ことは、「あの国に生まれたこともありえたはずだ」という根源的な問いを内包せざるをえないからだ。そして、「なぜ私がこの国に生まれ(、戦場に送り込まれなければならなかっ)たのか」という問いには、「あなたがその国に生まれたからだ」としか答えることができ(ず、それは答えたことにはなら)ない。答えを前提できないこの問いはそれ自体が〈傷〉として反復されつづける。かような〈傷〉を執拗に繰り返す──キャッチーなフレーズに載せた「born in the USA」という言葉を文字通りリフレインする=繰り返すことで──ブルース・スプリングスティーンの歌い方はどこか痛々しい。それは戦死者の霊のうめきにも似て、シンセサイザーのあまりに軽い響き(それは消費に次ぐ消費を見越して生産されつづける「モノ」に覆われた豊かなアメリカの、残酷なまでに軽薄な時代と相即して鳴っている)と徹底的に背反する。それは「こんな時代になってまだそんな昔のことを言うのか」という冷淡な反応にさえ見舞われることになるかもしれない。
 しかし「Born in the USA」の二年前に公開された『ランボー』で主人公ランボーが言うように、「戦争はまだ終わっていない」のである。それはランボーが「my war」と表現したような、個人の実存・心理にのみかかわる戦争だけではない。ベトナム戦争の終結は結局のところ冷戦=戦時体制の継続をしか意味しなかった。戦争の〈傷〉はいまだ生々しい。ブルース・スプリングスティーンの代行した亡霊のうめきはいまだにリアリティをもって響き続ける。私たちはその圏域から完全には(それどころか一歩も)抜け出てはいないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?