210223 (未完)

 世界は有るよりは無い方が好いばかりではない。出来るだけ悪く造られている。世界の出来たのは失錯である。無の安さが誤まって撹乱せられたに過ぎない。世界は認識によって無の安さに帰るより外はない。一人一人の人は一箇一箇の失錯で、有るよりは無いが好いのである。個人の不滅を欲するのは失錯を無窮にしようとするのである。個人は滅びて人間という種類が残る。この滅びないで残るものを、滅びる写象の反対に、広義に、意志と名付ける。(森鴎外「妄想」)

 そして私の拒絶を一層強調しようとして、私は足の先でどしんとばかり土を蹴ったが、勢いあまって私の脚は、出来たての墓地の中に膝のあたりまで埋まってしまい、そのあげく、罠に捕えられた狼のように、私は、恐らくは永久に、理想というこの墓穴に捉えられてしまったのである。(ボードレール「何れが真の彼女なのか」)

 岸辺に立っている。朝まだきの褪せた空に具合の悪い雲が滞留している。わたしは日和見しながらこんなところに来たんではなかったかと思う。ずるずると引きずられるように潮が引いていく。携帯の充電が気になる。実はあんまりどうでもいい。視野は良好とはいえない。どこを見ても煙っている。煙っているのはわたしのほうかもしれない。
 戻ってきたら、と言おうとして声が出ない。喉に栓をされて言葉がつっかえてしまっている。出かかるのにあと一歩で食道に戻ってしまうのを飲み込んでまた口にする。もうずっとこんな調子で、でもほかにやりようがない。戻ってきたら。言ったところでどうなるだろう。戻ってくるのか。Tシャツが丸っこい肌にへばりついている。ひたすらに海は凪いでいる。衣織を波浪がさらうこともない。
 ついでに泣きたいのに涙も出ない。わたしにはあなたが必要なのにとか口が裂けても言えない。どうでもいいことに踏みとどまっていると思われることを避けるために足元でそれとなく地団駄を踏んでみる。むこうを向いたままでわたしに見向きもしない。そのほうには遥か地平線が真っ二つにわたしたちを分かっている。邪魔しないでよとも言わない。かれこれ五分は動いていない。もしかしたらもう死んでしまったのかもしれない。寒いだろなあとは思う。こんなことをしようと言い出したのはわたしではない。衣織の勝手な感情の発露だ、取り返しのつかない……

      1

 実家と縁が切れた衣織がわたしの家に蟄居し出した頃……わたしは下宿先の狭いアパートの中、煙草の吸いすぎで身体を悪くしていた。何を食べても戻してしまう日々が続いていた。チャイムが鳴ったあのときも便器に顔を突っ込んで喉穴がひりつくのに耐えていたところだった。
 喉に引っかかる酸味と空腹と連日続く腹痛で気を荒らしながらドアを開けてそこに立っている人間を見たとき、これはたちの悪い悪夢かなにかだと信じたくなった。その人間はつい数か月前までわたしと交際関係にあり、そして出来ればしばらくは会いたくないと思っていた人間だった。しかも号泣している。重い重い溜息をついてしまった。
「…何……今更」
 咳払いと息切れに揉まれながらなんとか口に出した。涙声かつ屈曲した話の進め方で半分何を言っているのか理解できなかったが、要約すれば、もともと両親と仲が悪かったが、ヒスを起こしてももう家に上げてもらえなくなり、折り合いがつかなくなって飛び出してきた、ほかに友達がいないのでわたしの部屋を間借りしたい、と。
 気分は最悪だったし本心としては追い返したかった。頭がガンガンして難しいことは考えられなかったのだ。それにこの期に及んで泣きつかれたって図々しいにもほどがある……しかし顔面をぐしゃぐしゃに泣いている人間が目の前にいてむざむざ突き放すほど、わたしは冷静でもなかった。なんだかんだ言って押しには弱かった。家賃を半分肩代わりするのを条件に部屋をシェアすることに相成った。
 気まずかった。勢いで部屋に上げたものの、今さら友達同士からやりなおしましょうとはさすがに言えない。第一別れたきっかけも向こうだ。付き合っていく上で耐えられない面は多々あった。駅前広場で一時間も待ちながらいっこうに既読のつかないメッセージを見たとき、わたしはもうどうでもよくなってすべて投げ出して反故にした。そんな相手と、ふたたびどんな関係を取り結ぶべきなのだろうか?
「あんた知らないかもしれないけど、わたし今病気なんだよ」
 ちょっと脅かしてやるつもりでわたしは言った。煙草の煙が眼にしみて涙目になった。まだ洟をすすっている。
「え…」固まる。「病気?」
「うん。何食べても吐いちゃう。頭痛ひどいし、肩凝りもしんどくて、ずーっと頭にモヤがかかってるみたいなんだよね、ここ最近」
「……ごめん」
「何で謝るの」
「それって多分、わたしが麻衣にひどいこと言ったから……でしょう?」
 どれだろう。衣織の中では決定的発言があるらしいがわたしにとっては衣織そのものが結構ひどかったので別になにもない。そう思うとおかしくなって笑ってしまった。衣織はもっと縮こまった。
「まぁあんたがそう思うんならそうなんじゃない。でも衣織にふられたくらいで潰れるんならわたし最初から付き合ってなんかなかったと思うよ」
 口をついて思ってもないことを言ってしまう。なんだか失敗した過去を言い繕おうとしているようで歯がゆい。まったくそんなつもりはないのに。露骨に話頭を転じる。
「そういえば大学ちゃんと行ってる?」
「…………」
「だと思った」
 灰皿に灰を落として戸棚に向かい目についたカップ麺に湯を注いで衣織に渡した。三分経つまで話題をつなげればいけなかった。二本目の煙草に火をつける。衣織は煙草をやめていた。
「じゃあもうずっと引きこもりだったんだ」
「うん」
「そうか。でもまだ一か月くらい? だったら充分間に合うって。つってもわたしも最近はひどいときは一日中寝込んでるみたいなのも多いけどさ」
 また面持ちが暗くなった。わたしはカップ麺程度で衣織の腹が膨れるのか心配だった。
「まあ適当にゆっくりしていってよ。わたしももう衣織と別れたんだし。好きにすれば」
 それは解放というよりは放任に近かった。向こうも過干渉はこりごりだろう。その日はちゃんと夕食を食べて二人ともあっさり早く床についた。固いフローリングで背を丸め縮こまった衣織は、むかし付き合っていた頃と比べてあまりに貧相で見すぼらしく、思わず寝返りを打って眼をそらした。なんとなく、わたしのせいでこうなってしまったという確信があった。なんとなく、やっぱり支えなければという義務感が生まれた。
 その日から、いわく言いがたい関係が始まってしまった。とにかくひとまずの目標は衣織に家に帰ってもらうこと、つまり、精神的に安定し、授業にも毎日ちゃんと出て、彼女の両親と復縁してほんらいの生活へ戻ってもらうことだった。なにせ人が増えるとただでさえ狭苦しい部屋がいっそう窮屈になる。そもそもこちらには相応の言い分がある。わたしの精神状態がさらに悪化するようなことになれば即刻衣織には退去を言い渡すつもりだ。それ以上はさすがに面倒見きれないし保護者にもなれない。限度というものがあった。
 本人に両親と仲直りする気はあるかと訊くと躊躇がちにあると答えた。
「そうか。ならよかった」と前置き、わたしはつとめて表情を固くして言った。「いい? わたしはもう衣織の彼女じゃないし、友達にもなれない。あなたが貸してくれって言ったから貸しているってだけのこと。自立しないでグズグズ居候しつづけるつもりなら、申し訳ないけど出ていってもらうし、親とも揉めるよ。わたしだって色々しんどくて余裕ないし。わかった?」
 衣織はしばらく面食らった様子だったが結局頷いた。その眼には昔見慣れていた人懐っこさと不安感が混ざっていた。その細かく震える虹彩をわたしは見ていた。そんなものを見るのは久しぶりだった。

      0

 実は同じ高校だったらしいが記憶がない。衣織と会ったのは大して乗り気でもないサークルオリエンテーションでのことだった。やりたいことがないだけであぶれるのが癪で、軽音サークル紹介の寄り合いに出て奢ってもらえるので適当に居酒屋までついていったが、二、三年生が飲む酒としゃべる内容はどれも同じで、その場の全員が全員ごそっと交換可能なようにしか思えず、そうするとここにいる理由も見出せなくなって、わたしはコーラ一杯と肝一串で席を立った。振り返りもせず外に出ると、タバコを吸っていた衣織がわたしに気づいて視線をよこした。
「あれ、……サーオリに来てた人?」
 さきに声をかけたのはわたしだった。人の顔は覚えやすいたちだった。
「…はあ」不審げに答える衣織。「そうですが…」
「そうですよね。よかった」
 なにも良くないが、わたしはそう言って壁に背をもたせかけ、無目的にスマホをいじり始めた。暇の空いている高校の友達と飲み直そうかぼんやり考えていた。
 二分ほど経った。おもむろにタバコの火をもみ消しながら衣織が言った。
「つまらないですよね、ああいうの」
「え?」
 自分の意中を当てられた気がしてわたしはどぎまぎした。
「酒飲むのが目的になってるから話も添え物なんですよね。自分のこと面白いと思ってるけどあそこに座ってる人なんてべつにだれでもいいんですよ。だから嫌になって出てきたって感じです」
 鬱屈感にあふれていたわたしは衣織の言葉にそれまで得られなかったある実感を覚えて、即座に柄にもなく名前と学部と連絡先を聞きスマホに登録した。その日の晩すぐに衣織と通話して朝まで盛り上がった。お互いに喋りたいことを一方的にぶつけあった、それはコミュニケーションとは呼べないものだったが、向こうの機嫌も気にせずに堂々と自分の言葉をつなげられる相手を、ようやく手にできたというささやかな喜びがあった。
 それから大学でもなるべく二人になって過ごした。金をとられたくなかったのでサークルにはどれにも入らなかった。衣織は最初テニサーに入ったが名目上のテニス活動がいやで一か月でやめた。双方とも友達がいなかった。わたしは高校の友達とも疎遠になり、衣織はそもそも他人との付き合いがなかった。遊び場所も限られていたので、わたしたちが行くのはたいてい映画館か書店か喫茶店かわたしの下宿先だった。どこにいても衣織とは何時間でも話せた。深夜まで深酒をして早々に酔いつぶれるのはいつも衣織だった。赤く血にたぎって液体のようにうつむいた衣織の顔を、わたしは何時間でも眺められた。
 友人関係から交際関係に至るまでにさほど時間はかからなかった。二人ともなんとなくそういうものなのだろうという雑な確信があった。付き合いはじめると目に見えて衣織は怒りやすくなった。どうでもいいような、それ以上遡れないようなことでも真偽を正さなければ気がすまなかった。喧嘩が増えて部屋をいろんな物が飛び回った。付き合って数か月もしないうちに顔を見るのも嫌になって、でもそれで三日会わないとコロッと惚れ直して、いざ会って日月が経つとまた辛抱できずに喧嘩別れし、それで顔も見ていないと……毎日がその繰り返しだった。わたしたちはどこまでも似通っていて同じ人間だった。そして同じ人間どうしは一つの場所に相容れなかった。
 そもそも衣織とまじめに付き合うなんてこと自体無理なことだったのかもしれない……クリスマスの日、いつものように待ち合わせに遅刻する衣織を待ちながらそう思った。その頃からわたしは全身の倦怠感がひどくなりつつあった。その日わたしはこれ以上待っていると本当に死にかねないと危惧し、衣織に嘘をついて家に帰った。いまになってわたしはあのときぐらいはちゃんと衣織と過ごすべきだったと後悔する。思えばあそこでなにもかもだめになったのかもしれない。

      2

 まず時間割を把握し、最悪午前の講義は削ってもいいので三、四時限目は確実に出るようにきつく言った。朝に目が覚めた日には衣織も起こして、身体全体にわだかまる倦怠感を引きずって大学に向かった。講義室はまったくバラバラなので出席状況までは確認できないが、本人の様子から察するに授業にはちゃんと出席しているらしい。健康管理のため昼食もなるべく一緒にとった。食堂はいつ行っても混んでいるので生協の弁当を構内の空いたベンチで食べた。
「なつかしい。こうやって一緒にご飯食べるの」
「? ……たしかに」
「その…まえ言ってた病気って、大丈夫なの」
「え? ああ」箸を口に運びながら、「ちゃんと診察してもらったわけじゃないからなんとも言えないけど……、今だいぶ安定してるほう。さすがにひどくなったら病院には行くけどね」そして言い忘れたので付け足す。「衣織のせいじゃないよ」
 実際ここしばらくわたしは講義内容の無意味さについていけず、ほとんど惰性でノートをとっていた。それだけじゃない、いろんなことの無為、無意味さに追いつけないでいた。まえまで好きだった本、音楽、映画……なんでもいいが自分が好きだったものすべてに、わたしはとっくに熱中できなくなっていた。何を契機としてこんな事態に到ってしまったのか見当がつかない。ある日を境に、みたいなハッキリした日取りもわからない。しかし衣織と別れたことが念頭にあったのには違いなかった。体調も崩しがちになった。
 そして、それは決して趣味だけの問題にとどまらなかった。食事にも興味がなくなりつつあった。食べ物の味はするが、なぜその味がするのかがちっともわからない。眠ることにも意義が見出せない。そうなると不思議なことに眠れなくなって、その時間がわたしには死ぬほど苦しい。死ぬほど苦しいなら死んでしまうしかない、無理して生きることもない……衣織はそんなとき、つまり、ちょうどわたしが自我に飽いて自殺しようとしたときに帰ってきてしまった。ある意味でそれは充分に意味深な出来事だったのだろう。いまはまだその成り行きを追うので精一杯だった。

 六月を過ぎた。奇妙な日々は依然続いた。平日は二人で大学へ行って、休日にはわたしがバイトで外へ、衣織はなにもせず家に留まるというのがルーティンになった。かつてないほどの安定感を有した生活を共にするうちに、わたしはなんとなく衣織とやり直せる気がしていた。ただこの特例に乗じて関係をやり直そうと言えるほど厚かましく動けなかったし、それにいずれまた面倒事がこじれて以前のような状態に逆戻りするとも限らない。素直にわたしは衣織を大事にしたかった。そしてそれは衣織が両親と復縁して一家団欒を築いたあとで充分間に合う話だった。
 衣織は着々と現実の感覚を取り戻しつつあった。日常にも笑顔が増えて普段の夕食時も華やいだ。そんな折、食べるときの衣織の右の犬歯を見ていると、行為の最中に痛みを我慢してわたしの指を噛んでいたのを思い出して勝手に感傷的になった。右の指、首のくぼみ、手首に張り出した骨、すぐ赤くなる耳、を見るたびにわたしは、いやな思い出が何故いやな思い出だったのか思い出せず、衣織と何故離れたがったのかわからず、わたしが昔何を考えていたか判然としなくなった。目の前に衣織がいることは自明で、それを問うこと自体が無為かつ無意味なことだった。
 七月に入った日、わたしは先に布団に入った衣織を起こして闇雲に手を出した。

 あきれた話だと思う。どちらから言い出したのかさえハッキリしない。衣織が何を考えていたのかも知らない。はじめからそのつもりで来たのかもしれないがどうでもいい。わたしたちは小休止(のようなもの)を経て元に戻ってしまい、それはつまり復縁計画がおおかたオジャンになってふりだしに戻ったことを意味した。
「でもさすがにこのままじゃ駄目だよ」
 八月の暮れ時、蒸した室内で素麺をすすりながら衣織が言った。
「こんなんじゃまたすぐ前に戻っちゃう。ちゃんと区切りつけないと。……今ならわたし、あの人たちと仲良くやれそうな気がするから」
 衣織がそんなことを言うので意外だった。明確にそれは成長と呼べるものだった。食後、食器を洗いながらぼんやり考える。これはひょっとして危険な兆候ではなかろうか? つまり、もし衣織が両親と復縁してここを去るようなことになったら? それはそれでまた以前のように毎日会えば済む話だ、そう言えればいいが、わたしはこの病状の悪化を恐れていた。それはわたし個人の病というよりは、わたしたちが抱えている病、危うい均衡のうえに成り立ち、足並がわずかでもずれると崩れてしまうような病だった。
 すると発作のように思い出すのは、去年の夏、二人で海へ行ったとき、衣織がなかなか戻ってこないことだった。衣織から眼を離したわたしにも非があった。たぶん三十分くらい、衣織は腰が浸かるほど波にたゆたいながら、あまりに遠すぎる地平線を眺めていたのだろう。わたしは必死になって水をかきわけ衣織の腕をつかんで引き戻そうとした。
 しかし腕を伝って堅固な身体の軸の重さを感じた瞬間、衣織はきっとこのまま戻ってこないだろうという直感があった。ひょっとしてそれはただの諦念で行きすぎた思い込みだったかもしれない。しかし同時にあのとき、わたしのなかで衣織はどこかへ行ってしまったような気がしてならない。

      3 U (Man Like)

 ところが何日経っても衣織が両親と復縁するそぶりはなかった。夏季休暇中ずっと、はたから見ればスマホをいじるかゲームで遊ぶかってだけの自堕落な生活で、しょうじき衣織に家族のもとへ帰る意志があるようにはまったく見えない。彼女の両親も妙といえば妙だ。もう三、四か月経っているし、そもそもこれまで来なかったのが不思議だ。それだけ親子間にただならぬことが起きたんだろうか? 学費は? もう警察に通報しているかもしれないが、それにしたってなんの音沙汰もないのはおかしい……
 衣織が風呂に入ったときにこっそり父親にコンタクトをとってみた(パスワードが誕生日でよかった)。周期的なコール音に汗が止まらない。「もしもし」太い声がした。「あ、あの」なんとか平静を取り繕い挨拶がてら言葉を継ごうとしたが、衣織の父親は特に驚くような様子もなく、ああ君ね、と言った。
「え?」
「君あれか、まえ衣織と仲良くしてくれてた子でしょ?」
 衣織は両親にはわたしたちの関係をぼかしていた。
「はい、それで、」
「いやぁ助かるよ。迷惑かけて申し訳ないね」
 助かる? その一言に眉根がピクついた。
「うちとしても手を焼いてたんだよ、あの子には。自傷だなんだ知らんがあの年になってもまだ構ってほしいと思ってるようでね。それはもっともなんだがこっちが何を言ってもああなんだ。譲歩の姿勢がまったく見えない。そんな奴と話し合っても仕方がないだろう?」
 衣織の父親は笑った。それからも長々と衣織との間に起こったであろう諍いごとをいくつかまくし立てていた。わたしは上の空だった。
「……じゃ、じゃあ、じゃあ」無理に話をさえぎって牽制をかけようとしたが、舌が思うように動かない。「衣織が言ってましたよ、家に上げてもらえなくなったって、それって、」
「上げてもらえなくなったって……」父親は溜息のように笑った。「勝手に出てったもん、どうしようもない、君が拾ってくれて助かったよ」
 ……衣織から両親の話は聞いたことがない。こっちからなにか言い出しても露骨に顔が曇るので避けてきた。その理由が今更わかった。そしてこの場合わたしは憤慨するべきだった。この父親の非保護的態度をあげつらって論駁しなければならなかった、それなのに、涙が溢れて口元が震える。なにか言い出す前に向こうから言葉が飛んできた。
「そういえば、ちゃんと学校は行ってるかな? 学費はこっちが払ってやってるしそこは折り合いつけないとね。あ、金銭的にきびしいようなら少ないが仕送りでも」
 わたしは電話を切った。嗚咽で息ができなかった。部屋は静かだった。元あった位置に携帯を戻して座り込む。なぜ泣いてしまったのかわからない。この涙からどんな感情を取り出すべきかわからず、しばらくさめざめと泣くことしかできなかった。
 苛立ちと欲求不満はイコールだった。こんな日にかぎってわたしは衣織の了解も得ずに強引にしてしまうことが多い。そんなこと許されるわけがない。零時を過ぎて視界のきかなくなった部屋で、わたしがベッドに沈ませた四肢の中に衣織が横たわっていた。居心地悪そうに顔を俯けて。
「嫌じゃないの」
「…」
「嫌なら嫌って……言えばいいのに」
 衣織は眼をそらした。わたしは自嘲気味に笑った。
「衣織が風呂入ってるときにね、お父さんと電話しちゃった」
「…勝手に、」
「あんた、仲直りしたいなんて嘘でしょ」
 歯噛みした衣織の唇がほどけて闇に白々しい歯並を見せた。今度はちゃんとわたしを見ていた。
「ちょっと話しただけでわかった。あんな奴と衣織がやっていけるわけがない。そもそも自分の娘が家出して心配もしない親なんてクズだよ。衣織だってそんなのわかってたよね?」
「…………」
 無言は肯定だった。
「はじめからわたしとヨリ戻すつもりで、下心で来たんでしょう。あんたが、いないとわたしがやっていけないってわかってて……ほんとに馬鹿みたい。自分じゃなんにも決められないんだね」
「麻衣」
「衣織、言ったと思うけどわたし病気なんだよ。多分これからもっともっと悪くなるよ。こんなふうに衣織に乱暴もするよ。そんな奴がそばにいたら大変だろうな。殴られても蹴られても、好きだから、離れたくないからって一緒に…」
「麻衣」
 衣織が頬に手を伸ばした。暗すぎて表情が読めない。
「なに、触ん……」
 その手を払いのけようとした。しかし衣織の骨ばった親指が頬の上で不器用に揺れていた。最初は乾燥した皮が痛かったそれが、徐々になめらかに吸いつく。わたしは泣いていた。衣織の鼻先に垂れた涙が鼻水のように引っかかっていた。衣織の顔はよく見えない。しばらくわたしたちはそのままだった。もういい寝ようと打ち切って先にベッドに倒れ込んでしまったのはわたしの方だった。馬鹿みたい、馬鹿みたいと口の中で繰り返しながら、依然目元はわなないたままで、しばらくわたしは泣き通しになった。

「寒くない?」
 あの子の肩はまだ浸かったままだった。どこを見ているんだろう。声を張ったが風が強くてかき消されたかもしれない。もしかしたらあれがゴールなのだろうか? あれで身体が芯から細っていくのを待つばかりなのか。そしたら止められる。止めなければならない。止めなければ……

      4

 交際のようなものは、飽きもせずだらだらと続けられた。わたしの病状は芳しくなかった。わたしはどんどんまともでなくなった。
 秋が深まってきた頃。衣織はだいぶマシになり、わたし抜きでも平時はちゃんと授業に出て、スーパーでバイトも始めた。わたしは心身の疲れを自覚するようになった。毎日午前一時半ごろに差しかかると耐えようのない無気力感=倦怠感が全身にまつわりつく。それは芥川を殺した「ぼんやりした不安」というのとたぶん同じものだった。そんな些細なことですら人は死ぬのだ、というのではない。こんなものに人間が耐えられるはずがないのである。普段は見まいとするから気づかないだけで、いざ向き合えば尻尾を巻いて遁走するよりほか手立てがない、人間の中心の空洞。わたしは死なずにいることがこんなにつらいとは思わなかった。そんなこと、どうだっていいのに。
 衣織が来てからしばらくは安定していたが、それはやっぱり誤魔化しにすぎなかったのだろう。身体のほうも不調をきたしはじめた。時折中毒症状のように指先が小刻みに震え、寒くもないのに全身が引きつったりした。衣織は心配して病院に行けと言ったが、どこも具合が悪くないのに医者にかかるのは変だと返して突っぱねた。
 徐々に明確に体は重くなった。セックスの回数も減った。それから寝る前に左手首が痒くなることが増え、半分眠ったわたしの頭はその痒みにありあわせの理由づけをするようになった。いわく、太陽系を瀰漫する極小の粒子によってアレルギー反応を起こしているとか、体内盗聴と戦うために傷を付けているとか、形而上学的に痒みにアナロジーを見出すとか、そんなつまらん与太話のたぐいである。わたしもだんだん慣れてきて、あぁまた妄想が始まったんだなと徐々にしらけた捉え方になっていった。ふだん使わない脳の部分が、活動の間隙を狙ってわたしに見せてくれる幼稚な妄想。わざわざそれに付き合うだけの甲斐性はわたしにはなかった。死なないようにいるだけで精一杯だった。
 とうとう年が明けた。衣織は常人同然になった。わたしの病状はしかし悪化してしまった。わたしはバイトをクビになった。代わりに衣織が週一でも雇ってくれるアルバイトを見つけてきた。頭痛がひどかったので自分でやったらと乱暴に答えてしまった。もう何をしようにも身体が重い。三が日に実家へ戻らなかったのが心配なので母がこっちに様子を見にくると連絡をよこした。そんなこと、勝手にすりゃいいのに。
 その週の土曜日にほんとうに来た。部屋は床が見えないほどに散らかっていた。わたしは起き上がれなかった。母は叱ることもなく近所で買ってきた甘いものかなんか(記憶にない)をテーブルに置いた。味がしないのでわたしは食べる気がしなかった。
「あんた誰かと住んでるの?」
 わたしの部屋の形跡から同棲の臭いを嗅ぎ取ったらしい。声を出すのもしんどいので頷いたが、母にはそれが見えないらしかった。
「べつにお母さんは反対しないけど。でもこんな様子じゃまともに大学にも行ってないでしょう」
 わたしは頷いた。でも母には見えなかった。
「こんなに好き放題して、……あんたがのびのびやれるようこっちからは何も言ってこなかったけど、これじゃ仕送りは当分無しかな。地元の公立蹴ってこっちに来たいって言ったのはあんたなのにね。あんたはお父さんのことが嫌いだろうけどね、お父さんずっとあんたのことで頭がいっぱいだったのよ昨日もおとといも、あんたがちっとも連絡返さないから、もしかしてなにかに巻き込まれたり、倒れたんじゃないかって。まあ倒れてるのはほんとうだったけどね。あ、これ、こっち来るときに買ったからよかったら食べて。あんたの彼氏さんはいつ帰ってくるの?」
 お願いします頼むから黙ってください頭がガンガンするんですこめかみに穴が空きそうなんです歯が痛いんです、とも言えず、わたしは黙って受け流すことしかできなかった。どうしてこの様子でそんなことが言えるのだろうか? シンクはもう一週間片づけていないし、冷蔵庫の生物は腐らせてしまったし、スマホがどこにあるか把握していない。わたしはあなたの子供ですが、あなたが思うようにわたしは育っていないかもしれない。わたしを見てください。母はわたしを見ている。わたしの何を?
 三十分くらいして衣織が帰ってきた。母が「お邪魔してます」と言う。「どちら様ですか?」「母です」「何しに来たんですか?」「学校に行っているのかはなはだ疑問で、来てみたらやっぱり行ってなかったんですよ。あなたからもなにか」「麻衣は病気ですよ」
 母の唇の端がわずか引きつった。聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔をした。
「あーまた薬飲んでない。飲まなきゃ治るのも治らんって」
 おそらく棚の上に出しっぱなしにしていた錠剤のシートを手に取って衣織は言った。……薬なんて一度飲み忘れたらもう二度と服用できない。飲んだところで治らないのだ。また頭痛がひどくなってきた。顎の骨が痛い。万力で頭蓋骨をミシミシ締められているような気がする。
「ごめん今日作るのもめんどくさいから、スーパーのお惣菜だけどいい?」
 衣織はわたしからの返答などはなから期待していない口調で言う。惣菜のパックを開けてレンジで温めなおす音がする。母は身じろぎしない。もう帰ってほしい。母は動かない。ここでご飯を出してもらえるとでも思っているのだろうか? 帰ってほしい。なぜ帰らない?
「帰ってくれませんか」
 言ったのはわたしじゃなかった。衣織だった。
「あなたがここにいたら多分もっとずっと麻衣の病気は悪くなりますよ。あなたの分の食事も用意してないし。自分の子供が苦しんでるのにそんな嫌がらせするの、親として最低だし、みじめですよ」
 母はなにも言わなかった。あまりに長い沈黙のあと、「このことはお父さんとよく話します」とだけ言い捨てて荷物を掻き取ると部屋を出て行った。きのう捨てたはずのカップラーメンのゴミが急に鼻についた。わたしはもうなにも食べたくなかった。チンと音がした。
「さあさあ冷めないうちに」
 テーブルのゴミを床へ払いのけ、湯気の立つプラスチックの皿を割り箸と一緒に差し出して衣織は言う。好意を無下にできずにわたしは食べてしまった。一口食べて胃が引きつけを起こしてその場に吐いてしまった。わたしは死にたくなった。衣織はティッシュで黄色い吐瀉物をつまみながらわたしの背を撫でてくれた。出したものは食べてほしかった。でもそんな汚い真似はしてほしくないとも思った。わたしは人間になった衣織を憎むようになった。

 海水が冷たい。波に足をすくわれそうになりながら、じりじりと歩み寄っていく。突然胸が苦しい。さほどないと思われていた距離がわたしたちを異様なほど隔てている。フラクタル構造のようにどこまで追っても尽きない相似形の群れを掻き分けているようで、果たして衣織にそもそもたどり着けるものだろうか? たどり着いたとして、わたしに何が言えるだろう。わたしだってべつに、衣織が必要なわけじゃないのに。

      5

 遅々として進まない時間を耐え、ようやく三年生になろうとしていた。両親からの連絡はその後なかったが、仕送りはピタッと止んだ。わたしは大学に休学届を出した。治療に専念するといえば聞こえはいいが、つまりこれ以上すり減らすための精神がとうに尽きていたのである。衣織はバイトのシフトを減らして出来るかぎりわたしの身の回りを手伝ってくれた。シャワーを浴びられないのでせめてもとシャンプーをしてくれた。処方された薬もようやく飲むようになった。薬を飲んだり、定められた時刻になると、意味もなく気分が高揚した。そんなことはないのに、自分が全世界から承認されたように感じられたり、生きとし生けるものの祝福性に随喜の涙をこぼすこともあった。そしてそんなとき決まって左手首の湿疹はひどくなった。掻けば掻くぶん、ふだんの脳ミソでは思いつけない妄想を披瀝してくれるので、わたしは大いに興がった。
 そしてそんな時にかぎって症状はさらに悪化する。深夜一時にだけあらわれていた無能感は、時宜をわきまえず昼日中にもあらわれ始めた。特に心が苦しいとき、だれもいなくなった午前十一時の電灯も消えた室内で、やっと眠れると思えたときに、耳鳴りが倍加して頭が重くなる。わたしを殺そうとしているんだ。誰かがわたしを殺そうとしている……そう考えるようにした。でも誰が? その答えを用意できなかったので頭痛はもっとひどくなった。他殺妄想は自殺願望に容易にすり替わった。
 ……どうしてこんな状態になってまで生きねばならないのか理解できなかった。左手首は皮膚が破れて血が滲むようになった。体重が何キロも落ちた。衣織はゼミで帰りが遅くなった。月二回はちゃんと病院に行く。医者は本当にわたしの話を聞いているのだかわからない。何を言っても出される薬はいつも同じだ。でも薬を飲めばちゃんと気分がまともになる。相変わらず手首は痒い。錠剤を複数飲んで手首を掻くと、あまりの快楽に目の奥がチカチカし、両足がジタバタ跳ねて息が上がる。ずっとレスになっていたわたしにはこれが唯一の楽しみだった。
 なんとなく、衣織がむかしよくやっていたようにリストカットをしようと考えていた。でもカッターナイフは転居以来目にしたことがない。普段使う機会がないので買う必要もなかったのだ。それを口実にわたしはやっぱり不健全だしリスカはやめておこうと諦めた。
 でもある日衣織の筆箱からカッターナイフを見つけたとき、わたしは心底、どうしてこんなことをされるのか、わからなかった。気づけば左手はその刃物に伸び、わたしはカッターの刃を右手首の張り出した骨に当てて薄皮を破いていた。けどもクチュクチュ刃と皮膚がこすれて血の玉が生えてくるのが、わたしには面白くなかった。興ざめしてしまった。わたしは悪くなかった。こんな手の届く範囲に人を傷つけうる道具を放り出した、これは衣織の責任だった。どうしてわたしを殺すような真似をするんだろう?
 けどわたしはリストカットをやめる時機を逸してしまった。自分の心根では必要としていた行為だった。右手首は腹を捌かれた魚の死体のように赤々と、いきいきとしていた。左手首も依然快楽のために使っていた。この腕二つあれば効率よく自分自身に手ずから快楽を与えられる。睡眠剤と都合のいい幻覚と無害な快楽物質を提供してくれるこの二肢さえあればわたしは安全だった。確実に外界からの刺激をせき止めてくれる適切な防衛機序。わたしは立ち上がらなかった。寝ていれば気が狂わずに済んだ。

 衣織との関係は冷えきっていた。デートも旅行も恋人らしいこともなにもできないまま同棲だけが続いた。わたしは二年前を夢のような日々として回想した。二人して深夜のキャンパス構内でアルコールを煽りながらふざけたこと、潰れた衣織を背負って駅まで連れていったこと、自殺すると言って腕を切って血まみれになった衣織を返り血浴びながら手当てしたこと……そういえばあの頃も恋人らしいことはなにひとつやれなかった。なぜ自分が衣織を必要とするのか、とっくにわからなくなっていた。わたしはまた向こうから別れたいと告げられるのを待っていた。四六時中泣くこともあった。部屋はつねに異臭がして、衣織も忙しいからそれらは野放しにされて、ゴミ処理場と大差なかった。わたしは一人になりたかった。
 するとある日の日付も変わる頃、大学から帰ってきた衣織はわたしの腕をつかんだ。握力が痛かった。わたしは上半身を起こされて壁に押しつけられた。ほとんど血が乾いて赤黒くなった右手首と、赤い斑点がひしめく左手首を、まじまじと見ていた。握力が強かった。わたしは顔を上げられなかった。
「いつからこんなことやってたの」
 吐息が鋭かった。病者をいたわる気はさらさらなかった。
「こんなことって、」
「それ、わたしのカッターでしょう。勝手に持ち出して、ちょっとは隠す努力くらいしてよ。脂と血ついてるカッターとか誰も使わんて」
「ああ……」
「で、これいつからやってたの」
 わたしは答えられなかった。溜息をつかれた。
「まあ別にいつからでもいいけど。あ、」と、そのまま滑るようにわたしの右手の指を取って、「……爪割れてる。ごめん、最近忙しくてぜんぜん手入れできなくて」
 みじめだと思った。どうしてこんなに優しくしてくれるのか理解できず、わたしは処理不足で泣こうとしたが、短い呻り声みたいなのを数回喉から鳴らせただけで、それはぜんぜん泣き声にも聞こえなかった。また左手首が痒くなってきた。なにも言わずにシミの多いわたしの下着へ目を落とす衣織に、次に何を言われるのだろうと、そればかりが心配だった。人は人とわかりあえないわけではないが、わかりあうには健全でなければならないからだ。
「さすがにもうそろそろ風呂とか入らない? 短くてもいいから入ろうよ」
 突然提案される。風呂、どころか、シャワーからは、もう二か月遠ざかっている。水が身体中に刺さってくる気がして気持ち悪いのでシャワーはダメだ。つっかえつっかえ言葉をつなげてわたしはそう伝えたが、「じゃあ」とわたしが言い終わらないうちから、
「シャワー浴びんでいいから浴槽だけなら大丈夫?」
 と代案を持ち出された。わたしはそれならと頷いたが、いかんせん風呂はハードルが高くて、入れるか心もとなかった。結果的に衣織が全部やってくれた。わたしは自分の娘に介護される高齢者の気分で浴槽まで案内された。
 わたしは言葉が出てこなかった。風呂は温かかった。衣織が目の前にいる。目の前にいる理由がわからない。気づくとまたわたしの右手を取ってためつすがめつしている。また浮かない顔をしている。
「…これ、わたしのせいだよね」
 え? と目を上げるとわずか開いた口から歯並が見えている。
「普段の麻衣のこと、ぜんぜん気づけなかった。……麻衣がこうなるまでわたし何もできなかった。もっとシフト減らして病院にも一緒に行って考えるべきだったのに、わたしがちゃんとしてたら、もしかしたら」
「そうだよ」とわたしは言った。
 それはわたしの意志から出た言葉ではぜんぜんなかった。
 衣織がわたしを見る。頬のあたりの滴が鬱陶しかった。
「あんなところにカッター、置い、てなかったらわたしはこんなことしなかった、あんな目につくところに、やってくれって言ってるんだよあんなの、死んでくれって、死ねって、言ってるような、それくらい、死ねって!」
 自分でも何を言っているのかわからない。こんなこと言ってもどうにもならないのに。
「衣織がここ来、ここ来たときも、やり直せ、るとか思わなかったのに、勝手にズカズカ、そんな、何で、もうまともになったのに、何でまだ、う、ぐ」吐き気と嗚咽で口がいっぱいになる。だるい。言葉にできずに母音ばかり鳴る。「なん…なんでまだ、こんなところに、こんなところで……」
 その後もしばらくわたしは悪罵を衣織の顔面に浴びせかけて、その顔はわたしの目の前でどんどん沈痛に俯いていって、髪の先から垂れる水滴が波紋を作るのは、どう考えてもわたしのせいだとうっすら感じていた。震えているのはわたしの唇か衣織の睫毛なのか今では判然としない。もつれる舌に邪魔され湧き出る涙(泣きたくないときにいつも泣いてしまう)に阻まれながらわたしの口はあることないことぶちまけてしまった。多少は本心も混じっていた。わたしは一人になりたかった。しかしそれはこんな伝え方をしていい意志ではなかった。衣織の顔を直視できない。眼筋が収縮して動悸がひどい。わたしは普通に抱きしめてほしかった。普通って何? どうしてわたしはこんなになるまで、こんなに必死になって、
「……、そうか。そうだよね」
 衣織は自分の右手の五指を見て言った。笑いながら諦念にあふれていることが隠しきれていなかった。わたしは自分で言ったことを打ち消そうとした。しかしそういう時はたいてい言葉は出てこなかった。あまりに遅すぎた。
「ごめん。勝手に転がり込んできて、こんな真似して。麻衣が病気になったの、わたしのせいだよね。風呂も入りたくなかったよね。上がるか。タオル取ってくる」
 衣織はそれだけ言い残すと浴槽から身体を持ち上げて風呂場をあとにした。目の奥が痛い。口腔に血の味がする。難しいことが考えられなくなるほど脳は萎縮していたが、衣織を傷つけることが絶対の悪であることは疑いようがなかった。
 取り返しがつかないことをしでかした。そう思った。

      6

 別れ話には発展しなかった。わたしも衣織も帰る家をなくしていたからだが、たんにその気力がなかっただけかもしれない。その後一週間、わたしたちは互いに口を聞かなかった。わたしはずっと横たわり、左手首の痒みに耐えながら、症状と闘っていた。タバコとアルコール缶の本数が増えた。部屋が日毎に狭くなっている気がする。世界に殺されそうな気がする……しかし、理由はわからないがそんな関係妄想とは裏腹に症状は小康状態に入った。うっすらと食べ物にも味がするようになった。もしかしてこの状況を打開できるかもしれないという希望が持て始めた。
 そんな矢先、衣織は体調を崩しがちになった。最初はわたしを気遣ってうちに残っているのだと思ったが、平日じゅうもずっと部屋にこもって、バイトも当然サボり気味になったのでクビになり、ゼミにも顔を出さないのでむろん成績もつかない。これが五月の終わりごろ。そのころになるとわたしの精神は快癒に近く安定しだした。医者から飲み薬の数を減らすと聞いたときはまだ信じられなかったが、実感として眼に映るものが生き生きし始めて、指先に触覚が戻り始めてから、わたしはこの暗く長いトンネルをやっと出られるのだという安堵で全身が湧き立った。
 七月のはじめごろには完治といっていいほど歩けるようになり、翌年を待たずに今学期だけでやっと自分の病を克服することができた。それは待ちに待った「正常」と呼ばれうる状態をとうとう獲得したという意味だった。

 もう肩まで浸かってしまった。衣織の先に待っているのは果たして死なのだろうか? とふと思う。死んでほしくない、というのも事実。しかしこんな死に方をする人間がまともな死を死ねるとは到底考えられない。それからこう考える。衣織は本当に死を望んでいるのか? だいいち衣織の動作はあまりに緩慢で漸進的だ。それにどこか確信めいたものがある。この足取りでは不意の突風やシケなど訪れないだろうという確信。するとわたしは衣織が実際はこの海すべての統率権を握っているという妄想にとらわれてもはや進退ままならず足がすくんでしまう。自分の意志などあまりにちっぽけだと、衣織を見てそう思う。左手首が痒い。

 九月も終わり近くなった。正常を獲得すると右手首の傷はくっつき、左手首の湿疹は自然に消えた。
 今度はわたしが忙しくなった。滞納していた家賃や奨学金の返済のためにバイトも入れ、休日返上で昼も夜もあくせく働いた。もし治ったら二人でなるべく遠くへ行こうと話していたが来年に持ち越しになった。十月からは休学を取り下げて授業にも出て、ゼミの担当教授からはお褒めをあずかるほど学業に精を出した。
 衣織の様子は目に見えて悪かった。長い間瘴気にあてられていたからか、日中は布団をかぶって横になるだけで、来月に受験しなければならない英語の資格試験の勉強も放っぽり出している。あの日の言葉を頭の中で反芻する。罪もない衣織を責めたのはわたしだ。衣織の努力を無下にしたのはわたしだ。衣織に出ていけと言ったのはわたしだ。衣織がわたしを殺していると言ったのはわたしだ。衣織を殺したのはわたしだ……。
 この反省が無益な自己満足でしかないことはわかっている。もともと衣織は崩れやすかった。よく些細なことで心身のバランスを欠いていた。雨が降ると低気圧で頭痛を起こし、酒を入れるとすぐに酔いつぶれた。二人で絶え間なく傷を舐め合っているとき、こういうことは多分一生続くだろうなというやるせない感じがあった。だれも助けてくれない、だれも殺してくれない、なら自分たちでどうにかするしかない……でもどうやって? どうやってここから抜け出すべきなんだろう? 性生活も再開に傾きかけたが、衣織のほうから気持ち悪いと言われてすぐに終わった。部屋は息苦しい。わたしには別れを切り出せる気がしない。
 いっそのことすべて諦めて二人で海へ身を投げようかと思い至ってしまって、すぐに打ち消した。この六畳に比べれば海は広いには違いない。しかしその広さはあきらめたものの広さだ。あまりに広すぎる空間は容易に死と手を結ぶ。逃げ道はそこにはない。わたしたちは生きねばならない。

 バイトから帰宅後、わたしが通院していた心療内科に衣織を連れていった。似たような鎮静剤と睡眠剤をもらって帰された。移動中も診療中も衣織はなにも言わなかった。
 わたしが玄関を開けた瞬間だった。電灯もつけないうちに衣織が足音高く部屋の中へ勢い込んで消えていった。「衣織、」返事がない。おかしい。重い荷物にもたつきながら衣織の後を追って部屋へ駆け込む。日はとうに落ちて姿がはっきりしない。夕闇の奥に真っ黒の影になった衣織が立っていた。なにか握っている。いやな予感がして「衣織!」床のゴミを蹴散らしその手に持ったものにつかみかかった。刺痛がして一瞬力が抜ける。五、六センチ刃を出したカッター……わたしがリストカットに使っていたカッターだった。衣織の力は強い。全身の力でなぎ倒されるのをなんとかこらえ、絡みつく指を一本一本ほどきカッターを洗面所のほうへ投げ出した。あたりに血滴が飛び散ってテーブルに出しっぱなしにしていた千円札に点々と染みついた。
 肩で息をしていた衣織が床に倒れかかる。慌てて支えてやってゆっくり寝かせた。赤くなった両手で衣織の手を握る。もうずっと触っていなかった骨がちな指。爪が伸びて痛い。今朝切るのを忘れていた。
「……ゃ魔しないでよ」伸びて枝毛の増えた髪をもどかしそうにして言った。「なんで、こんな都合いい時だけ、彼女面なんか…もうほっといてよ」
「……衣織」
「わたしなんか!」語気が強くなる。「わたしなんかいらないって、……言ったのは麻衣じゃん。なのに、……わたしだけで死にもさせてくれないんだ」
「違う、わたしが悪かった、日頃の感謝もせずにあんな最悪なこと言って……わたし、衣織がいないと、」
「そんなのもう聞きたくない!」衣織の口から唾が飛んできた。「どうせ嘘なんでしょう。最初からわたしをここから追い出したくてしょうがなかったんでしょう? 麻衣の嘘下手なんだよ。バレバレだから。わたしにもう飽きてるって。使えない人間だと思ってるって」
「…そんな、わたしそんなこと言って」
「言うとかじゃないんだよ。わかるんだよ、空気で、自分が必要とされてるかどうかってことぐらい」
 その言葉にわたしはなんとか反証を加えようとした。しかしどんな言葉も論駁される気がした。衣織が両手をふりほどく。空になった手で衣織のベタついた髪を撫でようとした。その手を衣織からすげなくはたかれる。
「やめてよ、気持ち悪い」衣織が歯を見せた。「前から思ってたけど、衣織の手つき気持ち悪いよ。触ってやったらなんとかなるとか思わないでよ」
 衣織が軽く溜息をつくと、すぐさまその表情はこわばって背筋が丸くなった。右手でこめかみの部分をおさえている。
「……衣織、大丈夫」
「うるさいなあ黙っててよ! 今頭痛いんだから!」
 罵声が飛んでくる。涙声になって「なんでこんなになってまで、……」とぶつぶつ口にしながらどんどん縮こまってゆく。わたしは処方された鎮痛剤とコップをテーブルに置いて「これ飲んだら頭痛楽になるから」と言い残し、包帯がわりにタオルを巻いて落ちていたカッターを拾い玄関を出た。
 カッターは近くの川に捨てた。わたしは服に付着した返り血もかえりみず、しばらくあたりを歩き回った。イチョウで地面が黄色い。今まで衣織と付き合って季節の移り変わりを気にしたことがなかったので新鮮だった。公園のベンチに腰かけ、人の消えた遊具の群れをぼんやり眺めながら、もう衣織と別れようと決心した。
 思えばどっちも愚か者だった。こんなになるまですり減らすことでしか互いの居場所を確認できなかった。別れて生きることが正解だと気づくまであまりに時間がかかりすぎた。すべてが遅かった。わたしは大学を一年近く無駄にしてしまった。今も衣織は生活を無駄にしている。……わたしの責任だ。この問題にはかたをつけなければならない。ちゃんと衣織とそのための話をしよう。わたしは決然と立ち上がって部屋に帰った。衣織はまだ固まっている。鎮痛剤を飲んだのかぼんやりした眼でわたしを一瞥して、すぐにあらぬ方向へ流す。無意味に冷蔵庫を開けて訊いてみる。
「なんか食べる?」
「……うん」
 二人分のチキンラーメンを作ってテーブルのゴミを払いのけて衣織のほうへ置く。爪垢を親指でこそぎ落としている。さっきまであんなことがあったとは信じられない空気だった。しきりに目元をぬぐっているが泣いているようには見えない。
「煙草吸っていい?」火をつけたそばからわたしは訊いた。
「別に。…待って」ライターを持った腕につかみかかって前かがみになる衣織。手の傷がまだ痛い。「わたしも吸う」
「禁煙してるんじゃないの」
「いい」
 深々と煙を肺に満たしてから吐き出す衣織を見ていると、出会った頃が思い出されて懐かしくなる。一日一箱開けないとやっていけないとか言っていたのが嘘のようだと思う。頃合いをうかがってラーメンを食べる。味がしておいしかった。衣織にも味覚が戻ってほしいと思った。
「……さっきはごめん」
「いいって。謝るべきはわたしだから」箸を止める。「衣織の苦労も知らずに好き放題言ったの、めちゃくちゃ後悔した。……それで、やっぱりさ……、わたしたち上手くやっていけないんだと思うよ。これまでなんとか持ちこたえてきたけど、こんなのが続いたら絶対に身がもたない、と思う。衣織……は…、いや、ごめん、これもエゴだよね、別れたいのはわたし。二人のこれからを考えて、とかじゃなくて……単純に、わたしが、別れたい」
 たどたどしく言葉をつなげて意見表明のようなものを作る。この結論にたどり着くのに多くの時間を無駄にした。喉が渇く。衣織は無表情のままラーメンに手もつけずに短くなるタバコをゆっくり吸っている。そうして何十秒も過ぎた。息苦しかった。まるまる一本吸って灰皿に吸い殻を押しつける。衣織がわたしを見る。
「やっぱり、」溜息をつく。「まあこうなるとはなんとなく想像ついてたよね。どっちかが先に疲れて音を上げるんだろうなって」
「…………」
「そんな暗い顔しないでよ。…おたがい馬鹿だったよね。こんな簡単なこと、なんで今まで気づけなかったんだろうなあ……ほんとに馬鹿みたい」
「……衣織」
「わたしも麻衣と別れたいよ」返答を待たずに衣織は言った。「でも……今はまだこのままがいい。このままでいい」
「……それって……」
「べつに深い意味はないよ、いまは家に帰れないから……」そこでなにかを飲み下して、「だから…あの人たちと仲良くやれるまでここに置いてほしい。でなきゃわたし、いつまで経ってもこのままだろうから……」
「衣織」
 気づくとわたしは衣織を抱きすくめていた。涙がせり上がってきてわたしは我が事のように泣いてしまった。「ちょ、何、急に気持ち悪い」とかなんとか聞こえてくるがかまわず抱きつづける。汗と血の臭いがする。「ごめん、本当にごめん、今までほんとに、ご、う、ふ」先が続けられず涙にかき消えてしまう。ごめんなさいもありがとうも同じ意味な気がしてくる。自分がこの瞬間満たされた人間であるような気がしてくる。よりよい未来へのきざはしが目の前にひらけてくるような気がしてくる。
「ねえ」衣織の肩口で涙を拭いて顔を上げた。「キスしようよ」
「は? 何で?」
「したい」
「……はあ。別に」
 それでキスした。煙草の味がした。苦かった。

      7

 わたしたちはすぐに眠くなってすぐに寝た。衣織はさすがに今日は床で寝たいと言ったのでフローリングに横になるだけのスペースを作って寝かせた。
 わたしはすっぽり穴にはまるように眠りに入った。眠りの中は薄暗かったが、居心地の悪い狭さではなかった。その筒状の眠りに一条、二条と白い光が差してくる。まだ弱々しく幼い曙光が眠りを阻害する。だんだんそれは地平線上に浮かぶ粒に縮んで、空と同じ色をした薄黒い海が皺を作ってこっちへなだれ込む。何が起きているのかもわからぬまま眼を上げると衣織が立っている。衣織……?
 気づくと跳ね起きていた。悪夢で目覚めたのではないことはすぐに理解した。スマホを見ると午前四時だった。まだ真っ暗だ。ふとフローリングに目がとまる。衣織がいない。トイレにも電灯がついていない。玄関をたしかめる。スニーカーが一足たりない。上着も引っかけず出たらしい。血の気が引いた。
 すぐさま立ち上がり身ぐるみ支度して部屋を出た。コンビニに出歩いたという可能性は? あるわけないと即座に否定する。本能でわかる。手汗をしきりにぬぐって眼精がゆるむのを我慢する。衣織はどこへ……玄関はちゃんと閉めてきただろうか……手がまだ痛い……どうしようもないことを考えながらほうぼう走り回る。病気の弊害かタバコの吸いすぎか数十メートルもしないうちに息が上がる。胸が苦しい。衣織もそう遠くへは行けないはずだ。それにこの近辺で目ぼしい場所など限られている。しらみつぶしにあたっていけばいずれ見つかるはずだ。それまで死んでいなければいいだけで。…………
 わたしの足は自然と海のほうへ向かっていた。

(欠)

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