幸せってなんだろうね
抜けない会えないアカウント協会代表のみこ氏ですこんにちは皆さん。
幸せってなんなんすか
と思うようなことが最近私の身の回りで多発しているので、我が身が如く考えたわけですよ。
そんなことしてる場合ちゃうやろ勉強しろよ私。
幸せという言葉を使って何か書こうとすると、何この人?妙な宗教の活動家なの?と思われそうですが。
私はクリスチャンなので。結構ですそういうの。
どうですか?この壺。あなたの幸せと運気を守るために「今」必要なのはこの壺となんかえっとそのコレよこの…そのぅ…石?みたいなやつ。
さて、
唐突だが、君たちはさだまさしの「関白失脚」を聴いたことがあるだろうか。この歌のせめて歌詞だけでも読めば、先人たちがなぜ「人の幸せなんて人それぞれだ」と、古くから言い続けてきたのかがわかるだろう。
ダディは、別に普段からダディと呼んでるわけではないけど、まぁ許してくれ、ダディはね、さだまさしをよく聴いてたんよ。
子どもながらに「変な歌うたう人やな」って面白がってたんやけど私は。
地元を離れてからさだまさしを聴く機会なんてそりゃないわけで。
ジッとしてたら普通の22歳だもん、「何聴いてるのー?」って聞かれて「さだまさしッス、押忍」とかやってたら変な子やん?
もう既に変な子なのに。
さて、
件の「関白失脚」。
冒頭はご主人が奥様への文句がたっぷりの哀愁に乗せて淡々と述べられるわけで。
まあそんなことはいい。
私の先生によると「夫婦ともあればハラの中に溜まるものの3つ4つくらいあって然る」らしい。ひとつやふたつ、じゃないあたりが非常に先生らしい。
まあそんなことはいい。
本題はここからだ。
右手に定期券を、左手には生ゴミの袋を持って出勤するご主人を描いた歌詞の中で、「人は私を哀れだと言うが、俺には俺の幸せがある」と言い放つMasashi。
「自分が死んだあと、何かちょっと困った時に自分のことを思い出してくれたら自分は幸せだ」
当然これは歌詞であって、ある意味文学的に「世代の人や近い境遇の人からジワリを誘う」ように意識されて書かれているものだろうとは思う。
ダディはこれを「これはこの人の幸せであって、自分の幸せとは異なる」と言う。
そりゃそうだ。
じゃあ、ダディの幸せってなんだろう。
「君たち(私と兄)がいないところで、ママが名前で呼んでくれるのは幸せやなと思う」
-それはただの惚気やろがい
「普段は素っ気ないのに、時々楽しそうにしてるママの声聞いてるのは幸せやね」
-単にママンの機嫌がいいだけやでそれ
一方のママンはどうや?というと。
「昔はお酒飲んで大暴れして、あちこち傷作ったり服汚して帰ってきたパパの後始末してた頃(兄が生まれる前らしい)から比べると、朝と夜の挨拶くらいしか会話ない日もあるけど、何事も起きなくて穏やかな今が幸せ。」
-ダディとの幸せの質が違うさすがママン
「今日は何回会話できた!ってこっそり数えるのも、幸せを数えてるような気がして嬉しい。」
-結局あなたも惚気ですか
私の友達には抱かれてるとき「だけ」幸せってのもいるし、
推し事(オタ活)してる時が幸せというのもいるし、
ママンみたいに過去と比較して今が幸せというのもいるし、
妄想してる時が幸せなんていう猛者もいる。
じゃあ私は?
もしかしたら「嬉しい」と「幸せ」を混同してるとこあるかもしれないな。
手を繋いでるのが嬉しかったり幸せだったり。
作ったご飯を「美味しい」って言って貰えるのが嬉しかったり幸せだったり。
彼が買ってくれたハイビスカスの花が今年も咲いてくれたのが嬉しかったり幸せだったり。
うーーん、私まだ甘いな。
壺、買おうかな。
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