2000字小説「金魚すくいの夜」
「あたしはね、背の高いお兄さんに連れてってもらいたいの。優しくて、ハンサムで、声が素敵なお兄さんなら誰でもいいの…」
水の中で、赤く分厚い唇をすぼめて、金魚は言った。小さい泡がぷくぷくと水面へ昇る。
「金魚鉢に入ったあたしを見つめる、ハンサムな顔をあたしも毎日見つめるの…!」
なめらかなシルクのような、赤いひれが、夜の水槽の中で揺れている。その様子はまるで、赤いワンピースを着てはしゃぐ少女のようだといつも思う。
「へぇ、そうかい」とだけ、俺は言った。
「…会話が下手なのね!」
金魚は不満そうな声をあげて、水の中で身をよじった。
「冷たっ、水を飛ばすなよ」
「おじさんが暇そうだから、あたしは相手をしてあげているというのに。ちょっとはお店を繁盛させてよ」
俺は安い椅子に腰掛けたまま、頬づえをついて、周りの屋台を見渡した。
りんご飴、たこ焼き、チョコバナナに、お好み焼きに、わた飴。どの屋台にも客が群がって、店主はくるくると働いているが…。
「繁盛したら、それはそれで、お前さんは嫌がるだろうが」
煙草に火をつけてふかし始めた俺を一瞥して、金魚はふてくされだ泳ぎ方で、箱の隅の方へといってしまった。
祭りの夜はまだまだ長い。
「金魚すくい」ののぼり旗を立てて、俺が全国の縁日や祭りを渡り歩くようになったのは、もう思い出せないくらい昔からだ。
「ねぇ、ここは熱くて嫌よ」
ある夏、仕入れたばかりの金魚が高い声でそう言ったとき、俺はそれが水槽の中でひときわ鮮やかな赤い金魚の声だとすぐにわかった。他のより、体が小さくて、ひらひらと逃げ回るのが上手い、そいつは、水槽を覗き込む俺を見て、「がっかり。ハンサムな雇い主が良かったのに」と口を尖らせた。
俺はトラックで街から街へ移動するとき、いつも、そいつだけは助手席に置いた。
「ねぇおじさん、聞いてったら。昨日の昼間こがきんちょが酷かったのよ。あたしばっかり狙ってポイで追い回して、最後は汚い手で掴もうとしてきたんだから」
「おい、がきんちょなんて言葉、一体どこで覚えたんだよ」
「あらやだ、おじさんがいつも言ってるじゃない。『うるせぇがきんちょだな』って」
「言ってねぇよ」
「言ってるもん、この耳で聞いたんだから」
「へぇ、金魚に耳があるのか」
「もちろんあるわよ、小さくて可愛いのが」
たわいも無い話をしながら、街を渡り歩く。祭りでは金魚は決まって、「ハンサムに出会えるかもしれないから、皆んなと同じ水槽に入れて頂戴」といって、店の水槽に入った。眼鏡にかなう客は滅多になく、金魚はあまたのポイから、逃げて回るのを、俺は楽しく見ているのであった。
それが今、そいつが目の前で、赤くて華奢な体を、ポイの上に乗せられようとしている。
俺は固唾を呑んで見守る。若い男の客が、手首を返すと、金魚は小さなお椀の中にぽちゃりと落ちて、くるくると回った。
俺は苦い気持ちで、客から茶碗を受け取り、金魚をビニールの袋に詰めた。
それがお前の言う「ハンサム」なのか。
せめて動きやすいように、水をたっぷり入れてやると、嬉しそうに身を翻して動きまわる。袋を顔の高さに持ち上げると、俺はそいつ目を合わせた。
「さよなら!」赤い唇がぱくぱくと動いた。
「おう、元気でな」
後ろ髪を引かれる思いで、客に手渡した。
男の甚平の背中が、祭りの夜に紛れて消えていく。最後に見えたのは、透明の袋の中に、小さな提灯のように光る、金魚の影だった。
あれからどれほど時間がたったことだろう、煙草を六本すりつぶす間に、ポイを渡した客は二人だった。もう俺も潮時かもしれない。地元で、元嫁の熱帯魚店に雇われに行くか。
首を落として、アスファルトを見つめていると、「おじさん、すみません」と声をかけられた。「魚を取り換えて欲しいんですけど」
さっきの若い客だった。ずいと差し出した袋の中には、ひっくり返って動かない、金魚がいた。そんな、そんな、早すぎるだろう。
頭が真っ白になったまま、金魚を取り換えて渡す。手元の袋の中の中の金魚は、色褪せて、しなびて……。
「いや、お前、死んだふりが上手いな」
「んふふ。ただいま帰りましてよ」
おじさんじゃないとやっぱり退屈で、と喋る金魚を水槽に戻し、俺は煙草に火をつけた。