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香取市・見廻り隊1(伊能忠敬)

  佐原の水路となっている小野川は、街の中心部を流れる利根川の支流である。九十九里浜で水揚げされた鰯は、加工され干鰯(ほしか)となって利根川の河港から江戸に向かって運ばれていった。江戸時代、佐原はその河港の一つだった。
 干鰯を運ぶ陸路も整っていた。九十九里浜から作田川に沿って北上し小関、横芝、多古を通り佐原へ抜けるコース。この陸路コースを伊能忠敬は辿っている。「チュウケイさん」と呼んだ昭和の時代、九十九の里では親しみを込めて言い合った。
 江戸時代、千葉一族の分家は、千葉県下で200近くに広がり分家では干鰯と関りを持つ一族が多く出た。忠敬さんの家系もその一つ。浜の小関家は、名主で網元。小関家の婿養子なった父は横芝小堤の神保家の次男。忠敬さんも多古・平山家の養子になり佐原の伊能家に婿入りをした。
「古来のも稀なる春を松浦潟八十島かけて九州を経ん」・伊能忠敬

 佐原には7神郡の一社、香取神宮があります。対岸の鹿島神宮とは海路・水路で繋がっていました。鹿島神宮と香取神宮の神紋は「三つ巴」です。
香取神宮の系列と伝わる春日大社の神紋は、近藤家の家紋と同じ「鹿角」です。中臣(藤原)氏と鹿が繋がります。芭蕉の鹿島紀行から、
「この松の実生(みば)えせし代や神の秋」・松尾芭蕉


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