本能的に旅人 最終話
ただいま、日本
最後の寄港地を後にして、オリビア号に戻る。
このほしに行き止まりはなく裏側ともつながっていた。
海の上を通ってたくさんの人と関わり合えたから、ミクロネシア連邦の憲法にあるように「海はわれわれを繋ぐものであり、引き離すものではない」と、心からそう思う。
最終日の朝、デッキではケンちゃんがビーチチェアに座ってたばこの煙を爽やかな空に向かって、フ~と長く吐きだしていた。
しばらく遠くをみて切ないメロディを口ずさみながら思いついた歌詞を紙にメモしている。
それからテーブルに立てかけてあったギターを手にとり、優しいリズムの曲を弾きはじめた。
ぼんやりとその様子を見ていると、ふとこちらに気付いた彼が言った。
「気分はどう?」
「長い夢をみて、ついさっきすごく遠い昔から帰ってきて、今とても満たされていて、これまでのことはもう全部終わって、これから全く新しい人生がはじまるような、真っ白い気持ちだよ」
「それなら、目覚めの良いひとつの朝と同じだね」
「そっか、朝起きたときにそんなふうにリセットされている感覚を忘れてたよ。昨日の続きのはずだって、しばって閉じ込めてた。本当は朝起きてからやることや、浸っていたい気分を自由に決めることができるのに」
新しい気持ちで見渡すかぎり広がるさわやかな朝の海を眺めた。今日はどんな一日になるのか、これからどんなことが起きるのか、わくわくした思いで。
広い海をながめながら大きくひとつ深呼吸。
これからどうするか決めるのは、自分。
どんな周囲の意見や起きた事柄をもちからにして。
一周四万キロの丸い地球を巡ってきた船旅が、あと数時間で幕を閉じる。
終わるということは、別の章が始まるということ。
同じ場所に帰ってきたら、はたして前と同じように窮屈に思うのだろうか?いや、少しは成長して別の目線から見ることができるようになっているはず。
こだわりや思い込みから自由になって日々を新しい目で見て、ただありのままを受け入れ、臨機応変に味わっていきたい。
目の前の美しい瞬間を見ないで、いつまでも影響されたまま下を向いているのはもうやめよう。
もう終わったことに気をとられることはない。本能と直感で選んできたことを「すべてよし」と尊重して、心に深く決めてきた未来へ向かうのみ。
どちらから吹く風をも味方に舵をとれば、どんなことがあっても幸せに続いていくのだから。
前方デッキに出てまっすぐ前を見据えると、点のように見えていた日本の国土が徐々に大きく見えてきた。
ただいま日本!
船がゆっくりと港に近づいてゆくと、港の一部がカラフルに揺れているのが見える。
帰ってくる船を待つたくさんの人たちが、手を振ったり大きな声で名前を呼んだりしていて、近づくごとに、粒だった人の姿が次第に大きく見えてくる。人々のあたたかい出迎えには胸がじんとする。
誰にでも特別なひとがいる。大切にしなければならない存在がある。
それは今、心の中で一番に思い浮かぶひとたち。
港で手を振る人たちの顔も分かる程の距離になってきた。
船は重い船体をゴゴゴゴゴとゆっくり向きを変えながら横づけをしようと体をよじっている。
船体の真横では水面が大きく渦巻く。
日本を出発した時と同様、紙テープがスタッフから渡された。港にいる人々の手にも紙テープが握られている。
「ただいまー!」
誰かがそう叫び黄色の紙テープをデッキから投げると、それを皮切りに他の人も一斉に手に持っていた紙テープを港に投げ渡した。赤、緑、水色……。
光あふれる歓喜の中、果てしない青空のように未来が広がっている。
この虹を超えた後、一番きらりと光る道に進もう。
どの道を選んでも絶望と希望はいつでも半分ずつあり、結局のところ、何を選ぶかより、選択した後どこに注目して喜ぶことができるかどうか。
それなら、いつでもるんるんと明るい方をみていたい。
どちらを向くかを選ぶことこそ、自由の醍醐味なのだから。
「おかえりー!」
港からもテープのラインが描かれる。するとその空間には太い虹ができて、一本一本のラインが太陽光に反射してきらめきだした。
はたはたと風に揺られて帰国の時を讃える紙テープの虹と、神戸の港で目に映る全てのものが輝いてお祝いしてくれている。
そこに、愛しい顔をみつけた。
「うたくん!」
三か月の旅を共にしたみんなと熱いハグを交わす。「楽しい時間をありがとう」の数は、ひたすら増えていく一方だ。
旅のなかで出会った大切なひとたちとシェアできた、たくさんの素晴らしい瞬間の数々。
そんな宝物の時間を、そっとお気に入りのブローチのように胸に飾っておこう。
船を降り、急いでうたくんの元に走った。
堂々と両手を広げて受け入れてくれる彼に思いきり抱きつく。
「おかえり! ハイジ。どうだった?」
「地球、ちゃんと丸かったよ。また一周したい」
「次は一緒に行けるといいな」
私の重い荷物を当然のようにかついでくれながら笑った。
彼との関係の行方は、ゆったりと見守っていきたい。
一緒にいることだけが縁というわけではない。人間関係には色々なかたちがあって、白か黒かではない気楽でゆるいつながりもあるもの。
一方で、これからを共に歩んでいくことができたらどんなにいいかと想像するとほほえみが止まらない。
お互いにこれからやりたいことがある中、私と居るときも、いないときも、どうか彼の今が満たされたものでありますように。
うたくんに改めて会う約束をした日も朝日がちゃんと時間ぴったりに昇ってきた。
小鳥は朝を喜び、かわいくうたっている。
久々の自転車にまたがって、田んぼと山の風景を全身で感じる。
こんなに水に恵まれていて自然豊かな国は他にない。
すべての緑が気持ちいい、美しき日本。
ここでの生活が退屈だと思っていたのはただの贅沢病だったと、地球を一周して思い知った。
退屈とは、そこに広がっている恵みに気づいていない状態。
きれいな空気、動く身体、平和と安全。見渡せばありがたことで溢れかえっていて、文句を言う隙間もない。
この土地の良さをかみしめるように自転車をこぐと、太陽の光、新緑の風、草の匂い、良きものすべてが体に染みこんでくる。
植物が色鮮やかに芽吹く春。
新しいはじまりの予感が、こころの中にじわじわと広がっていく。
「ハイジ、これからどうするの?」
落ち着いたカフェでうたくんが聞いた。
「何をするかは、色んな国で出会った子どもたちがヒントになりそうだよ。南アフリカで会ったストリートチルドレンのエリックや、スラムの家に招待してくれたシエラ、それから南米で物乞いをしていた女の子も、いつも心の中にいる」
「いい出会いがたくさんあったんだね」
ゆったりとした時間の流れが光る曲線で見えるような静かな朝。
ありのままの自分でいられることが嬉しくて続けた。
「私にできることは何なのか、そもそも何かするべきなのか、するべきでないのか、してあげるというスタンス自体おかしいのか、正直分からない。彼らからたくさんの新しい体験や強い感情をもらったけれど、自分の優しさを発揮したいと思うのは驕った態度かな?」
私の話をききながら熱い紅茶をズズ、ズズと慎重に二回ずつすすりながら飲んでいた彼が言った。
「願望をもつことは悪いことじゃないし、不足感からの願いじゃなければ、それは愛だよ」
「そうだね、まずは自分が恩恵の中にいるって気がつくことからだね。満ちた日々が重なって、いつか海外で働いていきいきとした子どもたちに囲まれていたら最高だな」
うっとりした気分に浸っていると、うたくんがゆっくり口をひらいた。
「未来で叶うから思いついてるんだよ。実現している感覚を忘れずに、疑うことなく目指すことさえできれば、必ずかたちになるよ」
「ありがとう。世界は善いところだって子どもたちが感じられるような環境を作りたい。開いた心で豊かに生きていけるように」
そんな私の言葉に頷くように、紅茶をごくんと飲みほした。
「ハイジならきっとできるよ。大丈夫。この人生を自分らしく生ききるために必要な力は、全部備わっている」
「うん。これからひとつずつ願いを叶えていく。この船旅での学びを消化して形にしていくには、もう少し時間がかかりそうだけど」
「素直にこれから日々新しい自分になっていくのを楽しんでいけたら、絶対うまくいくよ」
地球を一周してさらに進化した彼は、まっすぐな視線で答えてくれた。
午後に差しかかる日差しが店内をやわらかい黄色に染めている。
私は窓辺に飾ってあるサンキャッチャーにちょうど太陽光があたって、たくさんの小さな虹がうたくんの周りで揺れているのを眺めていた。
いろいろなことはとても貴重なことだから、愛おしむように心ゆくまで感じておかないともったいないな、と思いながら。
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