子なしのリアル

「子なし」も知らない、他の「子なし」の人たちのこと_『「子なし」のリアル』(奥平紗実 著、経営者新書)

昨日一気読みした本、『「子なし」のリアル』(奥平紗実 著、経営者新書)。「子なし」という言葉を私は身の回りで聞いたことがない。が、ひとごととは思えず、つい手に取った。

世間では、「子なし」の人はかなり肩身の狭い思いをしたり、嫌な目に遭ったりしているらしい。本書に登場する人の多くは、親や兄弟姉妹、親戚、職場の人や友人から心ない言葉を投げかけられ、子どもがいないというだけで損な役回りを押し付けられている。

「多様性を認める社会に」と言いながら、こと子どものことになると偏狭になったり、結婚したら子どもを持つのがあたりまえ、子どものいない人は身体的、心理的に何らかの欠陥があると口にこそ出さないものの、思う人は多いのかもしれない。

ただし、「子なし」という一言で片付けられないほど、「子なし」であるのにはさまざまな状況があり、それは大まかに3タイプに分類できると著者は言う。

まずは、子どもが欲しくて仕方がなかったが何らかの理由で子どもができなかったタイプ。

次に子どもを切望していたわけではないし、欲しくないわけでもないが何となく機会を逸してしまい、気づいたときには子どもが望めない状況になっていたタイプ。

そして最後が、そもそも子どもを欲しいと思っていないタイプだという。

どのタイプであるにせよ、子どものいない人の多くは、「子なし」の現状について理由や経緯を尋ねられるのが大なり小なり苦痛である。プライベートな事柄だから誰にでも話せることではない。その上、現在使われているという「子なし」という言葉には侮蔑的なニュアンスも含まれることがある。多くの事情を経て今の状態があるのに、「子なし」と一言で片付けられると傷ついてしまう。

そこで著者が提案するのが、「子なし」に代わる、「ノンファン」という言葉だ。ノンファンはフランス語の「Non Enfant(ノン・アンファン)」の略だろうか、著者の造語らしい。

日本語では「子どものいない人」ぐらいの意味になるだろう。日本語だと生々しいが、フランス語由来と聞かされると、おしゃれな雰囲気さえ漂うのが「フランス語マジック」だと思う。

この先入観のついていない言葉を用いることで、子どものいない人は自分の状況をひとことで言い表すことができ、繊細な事柄にまであれこれ踏み込まれることが減り、初対面の人ともコミュニケーションを取りやすくなるのでは、と著者は考えている。例えて言うなら、「アラフォー」や「バツイチ」「おひとりさま」の仲間のような言葉だとか。なるほど。

私にとっては、世間の「子どものいない人」にはさまざまな理由があり、ステレオタイプでは括れないし、括るべきではないと改めて理解できたこと、心ない言葉を吐く人や、理不尽な目に遭うことに悩む人が存在することを本書で知ることができたのが収穫だった。

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かく言う私も「子なし」である。

自分は本書でいうところの「そもそもタイプ」で、小さい頃から赤ちゃんを欲しいと思ったことはなかった。ただ、そもそもタイプであっても、そこには理由があって、それを関係性の浅い人に世間話で掘り起こしてほしくない気持ちは同じである。

幸い、私は「結婚しないでバリバリ働く!」と宣言するかわいげのない子どもだったので、結婚しただけで祖父母は喜んだし、親や親戚、友人も「子どもは?」とはほとんど聞いてこない。タチが悪いのは、そこそこ遠い親戚である(十年に一度会うかどうかぐらいのおじさん、おばさんのたぐい)。

私の性格や考えを知らないため、世間一般の常識をばしばし当てはめてくる。新婚当初、母方の「いとこ会」なるものに参加したときは辟易した。「子どもはつくらないの?」なんて質問はあたりまえ。牛の人工授精士のおじさんからは「おじさんが作り方を教えてやろかい?」とも言われた。これには怒るというより、呆れた。セクハラだと言ってやるのももったいない。こういう輩には「つくり方は知っています(ニッコリ)」と返すのが効果的だ。こちらが恥ずかしがるのを楽しみにわざとこんなことを言うわけだから、二度と近寄ってこない。

嫌な思いをしたといっても自分が思い出せるのはこの程度の体験なので、本書に出てくる人たちほどに苦労はしていない。「ノンファン」の私でも、同じ括りに入る他の人の思いや苦労は意外とわからないものなのだなと、新鮮な気持ちで本を閉じた。