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とりとめのない話

どこのカテゴリーに入れようか迷ったものを置くページ。あんまり内容のない日常のつぶやきとか、考えをまとめるためにバーっと書いてるので他人には訳わかんないかもしれない内容とか、(つづく)とか言いながら書きっぱなしのものとかも。まあ、四方山話です。
(続きものは、見つけた都度入れてゆきます)

私は、普段はほぼ何も考えていない状態がデフォルトなのですが、ひとたび何かについて思いを巡らせるとものすごい集中力でそのことについて考える癖がありまして。

そうやってためた思考を文字に落とすと、また何も考えない状態に戻るのです。

その後は、自分でもどうかと思うのですが、そのことについては本当に忘れてしまうので、後から読んで「そうだよね〜」ってなるんですよ。他人事みたいに。

何ですかねこれ。健忘症?でも読んですぐに「分かる!」ってなるってことは、多分記憶の奥底には全部残ってはいるのでしょうね。何ならそれに関してアップデートした自分の考えもスラスラと出てくるので、もしかするとこの「書いた内容」は自分の中ではもう消化吸収されてて当たり前になっているってことなのかも。

昔は逆に、四六時中何かについて突き詰めて考えていました。あんまりぼーっとしていなかった。

そしてその、突き詰めて考えたことを書いていったん手放す、という繰り返しで、だんだんとぼーっとする時間が増えていってる感じです。

そうやって思考と経験がちゃんと蓄積されてゆくと、最終的にはなーんも考えない頭空っぽ、という状態がデフォルトで出来るようになって、必要なことは必要に応じて出力出来るようになることが増えるのかなって思います。データベースを最適化する感じ。

頭空っぽ、という状態がデフォルトで出来るようになると多分、「今ここ」に集中しやすくなるんじゃないかと思います。

半世紀以上かけて、やっとここまで辿り着きました。間違ってるかもしれないけどね。自分にはこのやり方が合ってるかなと思います。意味不明でしたらすみません。


↓盆栽の夢未だ叶わず。っつーか、犬とか猫とかインコとかいると難しいです。畑も(犬達が掘ったり食べたりするので)結構なチャレンジ。オサレなペットブロガーさんとか、どうやっていつも家の中あんなにきちんとしているんだろうって思います。
(2013年3月28日)
3ニャンズにマイロがいるので今中断してるのですが、盆栽、大好きなんです。特に実のなる木とか山野草を使った、地味〜なやつ。

あの小さな中に大自然をぎゅーっと縮小した世界。見ているだけで居ても立ってもいられなくなるような、あの感動。どうしてあんなに魅惑的なのでしょう、盆栽。

せめて、山野草で苔玉とか、ちまちまと作りたいなあ。

ニャンズがたちまちどこかへ転がしてくに違いないので、ダメか。。



(2013年4月3日)
息子のお迎え途中の話。

ついうっかり、夢の轍をかけたら、運転中涙で前が良く見えなくなってしまった。何年たっても何時聴いても、絶対泣くアルバムのひとつ。いっしょに歌うと号泣。もうね、微熱のイントロ部分からうるっとくる。運転する時は禁止ですね、今後。

「家族の肖像」も同様の理由で、運転中や人前では聴けません。こちらは更に声をしゃくりあげる程に泣いてしまうので。年のせいでしょうか。



(2018年1月5日)
社会を構成する一員としての役割として、

「耕す」「種を蒔く」「育てる」「環境を維持する」「経済的に支援する」「指揮監督する」「責任を引き受ける」

など、それぞれの資質に応じてその場での役目というものを引き受ける、ということは大切だと思います。(例に挙げたのは比喩表現です)

共同体における自分のお役目として何らかの仕事を担うこと。

それぞれの器に応じた役割分担です。その己の器を適切にはかることが出来るか、というのがまず基本です。

私はなんとなく、自分は『耕す人』だと思っています。たとえ誰も気付かなくても表には出ずに後続の人達の礎となりたい。縁の下の力持ち系という役割が好き。

(追記)
役割を超えたことに手を出さない、というのも大事ですよね。

たとえば、マネージャーが現場の細かいことにまでいちいち口出しするような、所謂マイクロマネッジメント。

現場は現場に任せる。自分でやる方が早いかもしれないけど、その役割の人の仕事を取らないようにちゃんと我慢出来る、それも資質。

逆もまた然りで、自分の分をわきまえる、出過ぎた事をしない、それも資質。



(2019年3月23日)
前の家はすぐ裏手にバイクトレイルがあったのですが、この家に引っ越してから全然自転車に乗らなくなった私のために、息子が地下室に設置してくれました。

毎朝10分漕いでいます。

差し当たっての目標は、

"いざという時に走れる"

これです。いつの間にか走れなくなっていた、なんて事がないように足腰の強化をしておかないと(`・ω・´)و



(2019年4月30日)
機会があれば、意識していつもと違う方法をとっています。左手で歯磨きするとか。

いつもバッグを左肩にかけていて、写真撮ると左肩が上がっているくらい癖になっているのですが、右肩にかけてみたらいつもよりちょっとした動作がしやすい事を発見。(物を取り出したり)

歳とったらこういう日常の動作で新鮮味を感じるのが案外大事ですね。



(2019年5月7日)
読みかじった浅い知識なのですが、カントによると

世の中には道徳的政治家と政治的道徳家

とがあるそうです。道徳的政治家は政治を為すにおいて如何に道徳の原則に立つべきかを己の問題とし、「道徳を政治の原理となすべし」という道徳問題であると。

一方、政治的道徳家というのは道徳を政治の手段として考え、「道徳は政治をするのに如何なる利益があるのか」という技術問題として考えていると。

カントは政治的道徳家を卑しいものとし、道徳的政治家を重んじています。

カントの論じた『永久平和』を政治問題として実行することは道徳的政治家の任務であり、道徳を政治の手段とするような政治的道徳家の問題ではない。そして永久平和の状態を来らしめることはひとつの義務であり、義務としての承認を要求するものである、利益の問題として考えるべきではない、と。

そうだよね、と素直に考えれば思います。

現実の世界は政治的道徳家ばっかりですね。

自然農法の福岡正信さんがおっしゃったように、いっそ何もしない、政治家も利益ばっかり考える人達であればむしろいない方が世界は良くなるんじゃないかと本気で思います。



(2020年4月1日)
人間ってどんなことにも順応するよねって最近つくづく思います。

この不便で不自由な生活も、始まってまだ数週間でもう新しいルーティンが出来つつあります。

学校やリモートワークはオンラインビデオを駆使して。

病院の検診も、ある程度は遠隔で出来ますし。(うちも昨日、クリニックのドクターとズームでの会話をしました。)

ビジネスも、飲食業界はオンラインや電話、窓口での窓越しのオーダーでピックアップも普通のドライブスルーやカーブサイドピックアップ、ソーシャルディスタンスを保つため地面に付けたマークのところに並んで待ってピックアップしたり、それぞれ楽しく工夫してるところが沢山あります。

公共の交通機関は、本数を減らして使っていないバスで買い物のデリバリーをしたり。

スーパーマーケットもオンラインでオーダーしたものをスーパーの店員さんが袋に詰めて、それをお店か駐車場でピックアップ。

自転車屋さんなども、予約制でお店に入れるお客さんの数を制限したり。

ミネソタではロックダウン中でもエッセンシャルと呼ばれる主要な業種は営業可能で、実はエッセンシャルの業種って8割とも9割とも言われているので、制限はありますがあんまり不便では無いのです。

それぞれが創意工夫を凝らして感染予防をしつつも社会はまだあんまり不便なく動いているのを見ると、ああ、人間ってフレキシブルだねって思います。

不便の中でちょっと発想を変えて生き延びる者、お上や誰かがなんとかしてくれるのをじっと待っている者、そういう自分ではなんとか出来ない人に救いの手を差し伸べる者。

この新コロクライシスが終わったら(というかもう既に)、社会は案外早くスムーズに新しいシステムに移行するんじゃないかなという気がします。今やってるリモートワークもリモート学校も、工夫して慣れると結構いいところが沢山あるので、今後増えてゆくかもしれませんね。

それから、へえ〜と思っていること。

数年前から、ファーストフード店に限らず、コーヒーショップやファミリーレストランなどでもドライブスルーやカーブサイド・ピックアップ(電話やオンラインで注文して、車でピックアップする)が普及してて、スーパーマーケットでもオンラインオーダー(事前にオンラインでオーダーしたのを後でピックアップできる)のシステムが急激に増えていまして。カーヴサイド・ピックアップとかそういう名前。

これまでは、「いくら極寒の地といえ、車に乗ったまま買い物とか、そこまでするかね。でも働いてる人や病気の人にはいいかもね。」とか言ってたのですが、今この状況でものすごく役に立っているので、先見の明があったのかなと思います。(もしかして先にパンデミック知ってた?とかなんとか。)

まあ、この辺りでは全体主義的な動きや人種差別的なこともあんまり無いし、これがきっかけとなって、収束した時に社会のシステムがどう良くなっているかなというのは楽しみです。

ニュースを見てるとまるでこの世の終わりみたいな錯覚を起こしますが、現実はあんまりそうでもなく、いい方向に行ってるんじゃないかなーと思います。

経済のことも、確かに厳しい時代が来るとは思いますが、既存のシステムにこだわらなければ今よりもっといい(人を生かす)経済の回し方があるんじゃないかと思います。



(2020年5月22日)
今住んでいる家、先住の人が改装したのですが、家具や家電を含め殆どが某スウェーデンの大型家具店の物で、あー。。とか思ってたら案の定。次々と不具合が出てきてエクストリームメイクオーバーが必要ってなっています。

こういう、「安いものはやっぱり壊れやすい」っていう類のは最初から使わないようにしているのですが、最近は結構お高いメーカーの家電製品でも基本的に【わざと5、6年しか持たないように作られている】ので、結局アイキア(あえて英語読み)でも一緒だよねってなるのかもしんないですね。でも見た目がやっぱりすぐに分かるアイキアなので、自分では選ばないかなあ。

自室や地下室用の家具とかだったら別にアイキアでもいいですよ。でもリビングルームとか、リビングルームから見えるオープンキッチンとかでは無いかなあ。なんだろうあの、置いたとたんにお店のショールームみたいに見えるアイキア現象。あれは避けたい。

話を「わざと壊れるように作る」という話に戻すと、海外はまあ置いといて、日本でも最近は、マツダの創業者さんが息子さんに言った言葉「いい物を作れ。壊れるものは作るな。」っていう古き良き日本の精神は薄れつつあるのが残念です。

経済至上主義も行きすぎて宗教信仰みたいになってきている現代は、やっぱり色んなところで病んでいます。使い捨てが当たり前の社会は、多分人心も荒みますね。

話が大きく広がりました。



↓リンクが削除されていましたが、“ ”内は記事中より
(2020年6月24日)

"ミシン目が揃っていたり、生地端がキチンと整列していたり、糸端の始末もちゃんと出来ている。"

"糸始末や、キレイな縫製。

そんな当たり前のようなことが、実は、日常着として売られているお洋服には、欠けている部分なのよねー。"

https://ameblo.jp/cherrybonbon39/entry-12606299851.html

そうです、そのとおり。

大量生産の安い服は、残念なことにやっぱり仕立てが安いので、なんというか波動も低いし長持ちしないしそういう服を着ていると何となく生活全般もシケた感じになっちゃいます。何となくですよ。端の始末がだらしなかったりボタンつけが適当だったりする服を着ていると自分自身までそういうふるまいになりがちというか。

いいなあと思うのは、きちんとした仕立ての手作り、欲を言えば手縫いです。

自分で服を縫う人は分かると思うのですが、手縫いの服ってやっぱり隅々まで手も気持ちも行き届くんですよ。特に見えない部分。生地も自然といいものを選ぶし。

こんなふうに細かいところまで心づくしだと、服もやっぱり波動というか発するエネルギーが全然違います。

そういう服を着ていると、背筋が伸びてちゃんと生活したいなーと思うし、色々と丁寧に大事にするし、もう生活全般が変わってきますね。

この頃手縫いで色々と作っているのですが、これ読んでたらシャツか何か縫いたくなってきました。オシャレさんでは決してありませんが、自分の好きなものを全部詰め込んで作る服は、気持ちがいいです。

和裁の先生だった私の祖母は生前よく、

「いっだましいを込めんと」(訳: 魂を込めて作業しなさい)

と言っていました。

確かに、細かいところまで手を尽くして心を尽くすと、物にも魂が込められる気がします。自分の"いい気"が入るんでしょうね。



↓高見えという言葉が好きじゃない理由。100円ショップ症候群(勝手に命名)に慣れてしまうと、本人が気付かないうちに人間そのものが安っぽくなるよ。これについてはちょいちょい書いてるので、見つけたらコピペします。
(2020年8月23日)
簡素をよしとする日本人の美意識って、ともすると貧乏臭くなってしまいますよね。

簡素の美は、まず質の良さがあってこそで、一見シンプルなのに素材がとてもいいとか丁寧に作られているとか、よく見ると違いがはっきりとしているんですよね。

ただ、形だけ見た目だけ真似して一見シンプルな美しさを装っても、ものすごく安っぽかったりすると、雑誌など(特にインテリア系)でも見なきゃよかったと哀しくなってしまいます。

自分が本物がわかるっぽい書き方をしましたが、私程度のシロウトでも分かるくらいにいろんなものが安っぽくなってきているなあと。

安いものを持っていても別にかまいませんが、一見いいものに見える風な安いものの、その安っぽさは人間まで安っぽくしてしまう気がします。「高見え」というその心根自体が貧しいというか。それは人としての誇りを 無くしてしまうというか。

そうやって小手先でなんとか見栄えを良くすることに慣れることによって、向上心とか大きなことを言うと生命体としての進化の欲求が削がれて低いところにとどまることをよしとする人間になりそうな、そんな気がします。

私も自分で書いて自分もまさにそうだよねと恥ずかしい気持ちなのですが、似非ものに慣れてしまわないように気をつけたいなあ、とは思っています。

ひとりごとです。

西洋では逆に装飾の美が追求されていますが、面白いことにこの小手先のごまかしは存在してて、それもまた見てると哀しくなってしまいます。その話はまた。



(2021年3月17日)
賛否両論あるナウシカのコミックス版。

あれは、あれ以上ないくらいにリアリティのある終わり方だよねとつくづく思います。

物語や映画や漫画では、エンディングはもうそこで切り取られた終わりの世界。

でも実際の現実世界ではそういうことはあり得ませんよね。

時間は止まることはなく、現実世界はすすんでゆく。

ハッピーエンディングでそこから変化が無いということは絶対に無いわけで。

終わりは始まりにつながり、過去現在未来は影響しあって現実世界は無限に紡がれてゆく。

映画やドラマなども、むしろ「そこから」が知りたい。

ある意味、ナウシカはこの地球で起きていることの比喩というのは、多くの人が考えていると思います。

宮崎駿氏はあの作品はあまりお好きじゃ無いようですが、物凄い葛藤や苦悩の末に生み出された作品だと思います。



(2021年3月19日)
(他人の心のゴタゴタを読まされてもねえって方はすみませんスルーして下さい。FBを日記ブログの下書きに使ってるので、結構弱音も吐きますが、書くことによって既に感情の整理はついて通常モードに戻っています。)

日曜日にハクトウワシが五羽、すぐ頭上をぐるぐると回りながら上昇していってスーパースペシャルラッキーだったという話を書きました。

今週は、というかまあいつものことなんですが特にしんどくて、どんどん沈んでゆきそうだったのですよ。

でも、あのハクトウワシを思い出して踏ん張ろうと思いました。

丁度いいタイミングでしんどいのが来る前に見られてよかったです。

日常でふと目にする物や事に対して全てに言えると思うのですが、何を見てそれをどう感じてっていうのは、ほんとにもう自分次第で、何かのサインかなと思って決断したり元気が出たりするのも、自分でそう決めればいいんですよね。

たまたま前をノロノロ運転の車が走っていてイライラするのも選択だし安全運転しようねというサインだと受け取るのも選択。偶然と思うのかそれに意味を見出すのかは自分次第。

意味を見出すという意思があれば、何でもサインになる。

これ、何年か前に『アルケミスト』から抜粋して同じこと書きました。



(2021年3月19日)
みんな多分知ってて慣れっこになってるけどちょっと考えると実は恐ろしいこと。

iPhoneはじめスマートフォン日常的に使っている人のプライバシーはもう無いに等しいですよね。

先日えええって思ったのが、夫が渋滞状況を見ようとして「Show the traffic」とSiriに言ったら、即座に出てきたルート。交通状況じゃないですよ、特定のルートです。

いつもそれくらいの時間帯に行っている場所が示された。

まあ当然と言えば当然ですよね。

私は定期的にプライバシー設定の位置情報や告知などを一切合切切っているのですが(定期的にチェックしないと勝手に変更されてたりする)、夫はそこらへん無防備というか気にしないので初期設定のままで使ってるんですよ。

私はSiriもBluetoothも使いません。唯一ペアリングした夫と私の共用車は、私のスマホのBluetooth切ってても駐車位置とか夫のスマホに飛ばしてるので、どこ行ったかすぐに分かるみたいです。

オンラインショッピングや実店舗での買い物履歴はカード会社から筒抜けだし、銀行の預金残高は日本のもこっちのも把握されてるし、位置情報は記録されてるし、マイクで会話は聞いてるしカメラで見られてるし全部行動は丸わかりですよね。

そんなことはもう常識で、承知の上で使ってるので何かあったとしても自業自得なのですが、どこに住んでいてもネット上で操作出来るので悪用しようと思えば悪用できますよね。

スマホ使ってる人が今更プライバシーとか言うのって矛盾ですよね。既にしっかり監視されてる。

ちゅうごくのテスラ車に対する警戒も、国家安全保障レベルの問題なので当然ですね。

軍事利用出来ますからね。というか元々インターネットも軍事利用目的で作られていますから。警戒するってことは自国や他国でやってるってことです。



(2021年4月29日)
昔結構好きで読んでいたポンプという雑誌がありまして。

全部が投稿なんですよ。よく雑誌にある読者からのお便りコーナー。面白いですよね。その面白いのだけがぎっしり詰まって一冊になってた。

ふと気付いたんだけど今のネット社会ってそれとおんなじだよね。全部がお便りコーナー。そもそもネットってサブカルですからね。

雑誌と違うのは(投稿者間でのやり取りに)タイムラグがあるって所と編集者が不在ってとこか。

・・って思って検索してみたら、Wikiにもおんなじこと書いてあった。

『ソーシャルメディアの先駆け[3]、「紙メディアのインターネット」[4]、「現在のインターネットを予感させるような雑誌」[5]として再評価する向きもある。』

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ポンプ_(雑誌)



↓他人へのイメージの決めつけって、家族に限らず一般的にも多いですよね。同窓会とか分かりやすいですね。タイムスリップしちゃう。そういう予定調和が安心材料になることも多いので、悪いことばかりではないと思います。
(2022年3月4日)

(訳わからないと思いますが、頭の中をちょっと整理するために書きます。こんなことばっかり考えています。)

成人後の血縁者のしんどさのひとつは、自分のことを『固定された情報』として扱われることじゃないですかね。正確には『相手によって思い込まれている情報』として扱われること、ですか。

親きょうだいや親戚の記憶に残る(それも当人の思い込みがほとんど)人物像を、変わっていないことを前提に決めつけるって、家族あるあるで。

これは、多分日本に限らずインターナショナルな現象だと思います。

成人して家を出て何十年も【変わらない】ということは、普通に考えるとあり得ないことなのに、いつまでも小さい頃のまま「あんたは昔っからこうだから」と決めつけて話をしてくるのは、家族という特殊な関係の中での位置付けをそのままにしておきたい安心したいということなのでしょうか。

でもまあ、いい大人になるとそこら辺も分かって自分も家族もそういうお決まりの振る舞いをして安心するっていうのは、年に数回の季節の行事の一環となっているご家庭もあると思います。

刻々と変化することによって現状維持、成長進化を為す世の中において、変化への恐怖は人間のさが(自我と言った方が近いかな)だと思うので、変化する社会との精神的バランスを取るための安心装置として年に数回こういう場が必要な人もいるのかと。親とかね。

自分が子供という役割の家族関係に於いては、自立した時点で『家族らしさを構成する者のひとり』として傍役を演じる、そういうことも、その家族を構成する中心人物・・だいたいは親や上のきょうだいですね・・のために、まあ大事なのかなと思います。

そういう事を言い始めると、どこの社会(集団)にあってもそれぞれの社会を構成する者のひとりとしてそれぞれが傍役を演じていると言っても過言ではなく、そうなると

【自分が自分の人生の主役】

という、自己肯定感を保つための考えとの折り合いはつくのかどうか、っていうところに矛盾を感じるかもしれません。

これも、多分二局思想からですよね。

自分がどう特別なのか、ということは、自分自身の身体(肉体)はひとつという、この一点に於いては言えると思います。たとえその肉体自体もこの地球からの借り物だとしても。

そして肉体自体も何兆だか何百兆だかの微生物によって構成されているとしても。

『容れ物』としての肉体は、それぞれの意識(個としての)に基本的にひとつ。まあ複数人乗合状態の方もいらっしゃるかもしれないけどそれは特殊な例として置いときます。

とりあえず、肉体は物理的に全員がそれぞれ違う唯一無二の個性を持った自分ということは言えると思います。

では、私達が自分だと思っている『考え』はどうかと見てみると、新生児の時に持って生まれてきたという人は殆どいないと思います。やはりこれもまた生まれてきて周りの世界から仕入れて来た、いわば借り物ですよね。ということは、唯一無二の自分ではない。

となると、そもそも自分自身って自分だけのオリジナルのものって、無いじゃないですか。

無いものをあると思い込む、その幻想が苦悩を生むわけで。

むしろ、自分も他人も全員が傍役という事を前提にした方が健全なんじゃないのっていう気がします。そう思うと傍役=どうでもいい役という考えは誤りであって、自分と他人の境界線も付けることは出来なくなる。

多分、人間関係もそうだけど、私達が常識と信じている価値観というものをぐるっとひっくり返してみると、分断も無くなるんじゃないのかなって思います。

ひとつだけ、唯一無二と言えるのかもしれないことは、【体験に基づく思考と記憶】かもしれません。

そして、ここのところを突き詰めてゆくと、なぜ人間は生まれて死んでゆくのか、転生輪廻があるとしてその意味は何か、というところがぼんやりと浮かんでくるような気がします。

(種として効率良く進化するためには、転生輪廻って最適なシステムだと思います)

(人間の無意識領域集合意識にあることを感知して事象化するのがこの物理世界だとすると、グーグルとか、人間の進化システムの真似)

つづく



(2022年4月14日)
セルゲイ・ミノロフが北海道は露が所有権を持つって言ってるらしいですが、それ見た事かですよね。(林さんは根拠が無いとは言及したようですね。)

国内法でも実地でも北方領土を占領したので次はアイヌが露固有の民族だって主張するんでしょう。国際世論も知ったこっちゃないって国なので、言ったもん勝ちでそれ(自分で言ったことを)を根拠にやる国だっていうのは昔も今もそうじゃないですか。

それは中共も北も同じことで、常識とか国際法とか国際世論とかそういことは我関せずの一党独裁政党は、何を主張しているか、ということに注目した方がよいかと。ある意味、有言実行の国々なので。。

まさかそんな、とか、ウクライナで忙しくてそれどころじゃないだろう(まさか日本は武力侵攻されたりはしないだろう)とか、露の良心を信じるとかそういうのは甘いと思います。

でも北海道を露にしたい人達は日本の政治家にも沢山いそう。



(2024年3月10日)

「分からない」

そうなんだろうと思います。

今の世の中、何がより正しいのか誤りなのか、何を選択すべきなのか、分からない人だらけなんだろうなと思います。

誰かが大きな声で力強い意見を言うと、みんな一斉にわーっとそっちへ向かってしまうのも、分からないから、なんだろうと思います。

そして、【自分が中心】で、公という概念が薄れてきていることは、最も警戒すべきことだと思います。

人間という生命体の、種の存続よりも、自分が損するか得するか、自分がきついかどうか、自分の生活レベルを落としてまでそんなことは出来ない、とか、自分、自分、自分、という我よしの考え方が何より優先される人が増えている。

子供を産み次の世代につなげることは、自分の損得を超えた所にあるはずなのに、【自分が】という欲が優先されてしまう。

誰もがみんな自分のことばっかり主張し始めたら、社会は崩壊しますよね。

出産は、「欲」では決して無いはずです。それを「欲」と認識してしまうこと自体が、今の人間が病んでいるってことなんじゃないですか。

この命を繋いでいただいた祖先から続く両親への感謝を、次の世代へ贈る。それじゃだめですかね。

綺麗事だと言われるのは分かっています。経済的に難しいことも理解出来ます。

ただ、何かを決める際の理由が、真っ先に【自分】の損得であるのならば、人としての成長や種としての未来は難しいと思います。

話が大きくなりますが、人間として生まれて死にゆく目的や使命というものがあるのだとすると、それはやはり種としての(精神的な)進化なんじゃなかろうか、と思います。

我利我利亡者だらけの社会は、生き地獄にも近いんじゃないかと思います。

自分のことが何よりも優先されることがいいことであるかのような風潮は、間違っていると思う。それは決して自分を大切にすることでは無い。むしろ逆ですよね。

まずは、【公】という概念を。さもなくば、ここに書かれているような、自分を優先する類の人々はそれが理由で真っ先に自然淘汰されるでしょうね。そしてそれは因果応報です。



(2024年4月8日)
トラブル続きのボーイング社。
やっぱりねって感じです。

自分が関わる企業に次々と壊滅的なダメージを残して去ってゆく男。ジェームス・マクナーニー。

GEモデルともてはやされて、理想の経営形態みたいに誤解されていますが。

彼が去った後の企業は、GEは破産寸前に、3Mは古き良き家族を大事にする企業だったのに今では従業員を数字でしか見ない、何でもお金に換算するので(すぐに結果の出ない)研究開発は冷遇されてイノベーションどころではなくなり、一時的に株価をわーっと上げる目的で定期的に大量解雇を繰り返し、全然人に優しくない企業になって内部も外部もトラブル続き。GEだって、彼が来る前までは従業員や家族を大事にする古き良きアメリカの企業だったそうです。それが全部数字しか見ない企業に変えられてしまった。

そして今度はボーイング。

たったひとりの人間が、行く先々でとんでもなく大きな負の影響を及ぼして去ってゆく。

何ですかねあれ、ある意味破壊神?

何故ああいうのをのさばらせてしまうのだろうと疑問に思いますよね。

理由は簡単です。

今の企業は、【自分がいる間だけ一見急成長したように見せること】が最重要というトップだらけだから。

雇われCEOは、数年間滞在してあり得ないほどの数字を出した後次の大企業へと移ってゆく。その後の負の影響は知ったこっちゃないから。

マネージャーも同じです。管理職も【自分がいる間だけいい数字を出せればいい】、そしてその成果をもとにヘッドハンティングされて次々と転職出来る。

日本も、能力に応じて転職するのがいいとかいう人達いますが、とんでもなく愚かな考えだと思います。

でもまあ、そんなこと言ってる人達は余程頭脳が明晰で悪どいことが出来る人じゃないと、大半は生き残れもせずに年齢が上がってしまうと今度は転職もままならなくなって路頭に迷うパターンが多いんじゃないでしょうか。年齢関係ないはずの北米でさえ実情はそうですから。

人を見ずに数字だけで判断する企業に未来は無いと思います。

おしまい。



(2024年4月13日)
人を見た目で判断するな

とは言いますが、個人的に第一印象と顔の相っていうのは割と当たってると思います。勿論、適切な服装や態度というものは最低限自分でなんとか出来ることなので、そこらへん疎かにしている人はまあ論外とします。

最近よくネットで見かけるあの方々も、やっぱりって感じ。なんであんなにメディアにもてはやされてたんだろうって謎だったのでスルーしてた人達。

まず、顔が歪んでる。そして目が死んだ魚みたいに濁ってる。そして、身体の軸がなんとなく真っ直ぐじゃない。姿勢が斜めになってたり。

卑怯者の醸し出す雰囲気って、分かるよね。

自分もそういうものを醸し出しちゃわないよう、まずはそういう心根にならないよう気をつけよう。



(2024年4月16日)
岸田さん、なんでかなあ。

もっと、日本の代表として堂々とした立居振る舞いは出来ないかなあ。要人って、アサーショントレーニングとか受けるはずなんだけど。

なんだかなあ。あの全体的に滲み出る卑屈さ。

あれは、高確率で相手に舐められてるよね。とてもじゃないけどトランプとかだったら相手にもされないと思う。

もっと、精神的に強い首相を。

もとい。岸田さん、精神力めっちゃ強かったですね。あの鈍感力は精神力でした。あれは、精神力云々よりも内面が滲み出てるのが問題なのかも。

もっとダメじゃん。

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