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恨み節の人生(Passive-aggressive)

この事については過去大量に書いてます。自分にこういう傾向があるという自覚があって自分自身がそうならないように気をつけているから。

恨み節の人生というのは、自分の“不運”の原因や責任を自分以外に見ること。流行りの言葉で言うと他人軸で生きちゃってるってこと。そして“察して”ちゃん。依頼心の強さも特徴ですね。あと、「〇〇しなきゃ損」とか「〇〇なんてずるい」とか言いがち。

この頁には、恨み節や関連すること(自律的に生きるとか)について以前書いたものをまとめてコピペしていきます。都度更新で並びは古い順です。



(2018年2月14日)
息子が教えてくれた、今学校で観ている映画の話。(その映画の中で出てくる寓話です。)

ある時、信心深い男が海で溺れていました。

そこに一艘のボートがやってきて助けてあげようと言いましたが、男は「いいえ、神様が助けて下さるから結構です。」と断ります。

しばらくして、また別のボートがやってきて助けてあげようと言いましたが、男はまた「いいえ、神様が助けて下さるから結構です。」と断ります。

男はついに、溺れて死んでしまいます。

天に昇った男は神に問います。「なぜ助けてくれなかったのですか?」と。

すると神は答えました。「ボートを2艘送ってあげたではないか。この馬鹿者め。」

多分キリスト教圏では有名な寓話なのでしょうかね。へえ〜と思いました。

『The Pursuit of Happyness』、邦題は『幸せのちから』という映画です。観てみようかな。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/幸せのちから_(映画)



(2019年6月18日)

コンテクストの共有レベルが高いか低いかというのは、カンがいいか悪いか、という事じゃないかな。人種や文化によるコンテクスト共有以前に動物的なカンでなんとなく察することが出来るかどうか。

日本人は日本人同士の空気を読むことも上手いですが、全然知らない人に対しても空気を読むことに長けているような気がします。西洋人は察するのが苦手な人が多いように思います。言わなきゃ分からない。というか、察することをむしろ嫌っているかも。「察して」という態度の人は、Passive aggressiveと言われてめちゃくちゃ嫌われます。

グローバル化による社会的問題の解決には、日本人は言葉でちゃんと説明することが苦手な人が多いので、空気を読まないコミュニケーションスキルをもっとつければいいんじゃないかな。家や学校でも、自分の感情や考えを言語化することをきちんと教えるとか。そうすればコンテクストの共有度はあんまり関係ないと思います。

偉い大学の先生方の研究にシロウトが難癖つけてすみません。



(2019年9月10日)

またシェア。何度でもシェアしたい本。

人は、ほんとうに自分で見たい現実を作っているということがよく分かります。同じ時同じ場所で同じ事を見聞きしても、それをどう自分の現実として感じてつくるのかは自分次第。自分で決めればいい。

そして自分の過去も未来も自分にとっての記憶(想像)でしかないので、過去の悲惨な体験のせいで今惨めな思いをしているというのも自分でそう思おうと決めた記憶だし、今を変えたければ過去や未来の記憶を変えればいいだけ。自分が今この世を去って自分の人生を見てみたらどうなんだろうと想像してみると、俯瞰で見てみると全然深刻なことじゃない。



(2019年9月25日)

(この記事は、彼女の母親が書いた書籍から彼女の障害や環境問題運動家になった経緯、彼女が裸眼で二酸化炭素が見えることなどについて書かれています。あーそうかそうなのね。という感じ。グーグル翻訳で大意はわかると思います。)

彼女の個人的な事情は、地球温暖化防止運動には何ら関係ないので、これに関する話を持ち出して論点をずらすのは全くナンセンス。

異論を唱えたメディアや人々が、彼女の障害を理由に謝罪するのは変。

そんなことをしていたら、"弱者"による"正義の主張"はもう暴力と同じじゃないですか。

ここに、他の正義を盾にした運動と同じ構造(パッシブ・アグレッシブを使って権利など得たいものを得る)が見えてしまいます。しつこいようですが、彼女を批判しているわけじゃないですよ。

全員が同じ方向を向くことを強要してそれに同意しないと批判する、人々が派閥を作ってお互いに争う、論点のすり替えで混乱する、そういう動きになってきたら要注意だと思います。(続く)


(続き)
↑上は、周りの大人達が論点をすり替えて違う方向へ向けちゃいかんよ、という意味を込めてこう書いたのですが、なんか自分から「大人はいつも私の外見や話し方や障害のことに話をすり替えて論点をずらす。」とか論点ずらしをして被害者モード全開になってきたので、もうこの件について書くのはやめます。

空が青いのも郵便ポストが赤いのも自分が不幸でみじめなのもみーんな周りのせい、と口外していいのは小さい子供が自分の親に向かってだけだよ。もう16歳なんだから。

ただ、学校で教師が生徒に素晴らしい活動だと熱心に教えてるので、それは引き続き見続けます。(子供は扇動されやすいので)

うちで息子に言ってるのは、

「もしも真剣に何かを変えたいと思うのであれば、それが出来るポジションと発言力を持つ仕事なり何なりを得るのが多分効果的だよ。例えば政治家とか企業のそういう方面とか。自分がその現場に行くこと。」

ということ。自分が『今』出来る事に取り組む事が、目標へ続く道ですからねえ。未来ばっかり見てて今がないと、その未来には永遠に辿り着くことはないよ、ということです。ただ、現場で何かを変えられるかどうかはまた別問題。現場ではまた色々ありますからね。(体験済み)

まあこれは自分の体験からのアドバイスなので、それをどう受け取って行動するのかは息子に任せます。決めるのは本人。親は言いっ放しでいいと思います。



(2019年10月15日)
北米の『被害者、弱者』と『救済する人々』は、表に現れているケースはほとんどエゴの共依存関係に見えます。

弱者を演じる嘘。そしてそれを助ける『善意』というものは、強烈な中毒性を持つ自己満足じゃないかと思ってしまいます。

本当の弱者や善の人は表には出ません。人知れず淡々と生きている。

勧善懲悪モノのドラマは、被害者意識・自分よりも強大なものへの服従と依存(黙って辛抱していれば誰か正義の人が何とかしてくれる)・Passive-aggressiveと、エゴの正当化と増長。

・・とか、こういうこと書くのもエゴの満足なのですが。一見"正しい"こと言うのって気持ちいいですよね。バランスが大事ですね。



(2019年11月18日)
1999年、全日空61便ハイジャック事件

息子が観ていたので一緒に観たのですが、何これ。パイロットの美談じゃないでしょう。

事前にセキュリティの穴を指摘されていたのに何もしなかった運輸省、警察、空港、航空関係各社。しかもハイジャック予告の手紙まで受け取っていたのに何もしなかった警察。「あの手紙を思い出して背筋が凍った」じゃないでしょう。

事前に防げたチャンスは何度もあったのに、事が起こらないと動かない。これは日本の至るところに見られる構図じゃないですか?

この事件は犯人の恨み節の人生が問題なのではない。



(2019年11月20日)
こういうのも面白いので読んでます。
前篇

後編

そうそう、そうです。

エナジーバンパイアと言うとあっち系と思われがちですが、いわゆる"Passive Aggressive"というやつです。これまで何度か書いたけど、自分を極端に卑下して周りに「そんなことないよ〜」と持ち上げてもらったり被害者であるという立場を利用して周りを思うままに動かしたりする人のこと。

炎上させる人達も同じですね。

チャネリング とか思わずに普通に心理カウンセリングみたいな感じで読むといいと思います。

こういう人達には同調しなければ影響されません。いい意味で「自分は自分、あなたはあなた」と思うこと。同調してしまう人は物理的に距離を置くといいと思います。

略奪タイプも同じで、「スルーするスキル」と「距離を置く」こと、です。



(2020年2月22日)
独り言です。

因果応報っていうのは、自分の思い考え行為に基づいた現象が自分に起こるという作用反作用のことで、自分に嫌なことをした人にバチが当たるとかそういうのは全く別のお話なんですよね。

その人はその人でまた、自分の撒いた種を自分で刈り取るけどそれは私の期待や思惑とは全くの別ってことです。もしも「どうしてあんなひどいことした人が幸せで自分ばっかりこんなに不幸なんだろう」と思うのであれば、それは自分自身のそういう被害者意識が生み出している作用反作用に過ぎなくて、そこに気付かない限りは自分自身でどんどんその作用反作用が大きくなってそれをカルマという都合のよい呼び名で納得してしまい、今この時に修正できることをしない。

相手に原因を見る限りは、いわゆるカルマというものは(そういうのは本当はないと思いますが。単純に自分自身の宿題がどんどんたまっているだけ。)無くならないんですよね。全て自分自身。

"お天道様"がいつも見ているっていうのは、自分自身の良心がちゃんと知っているってことです。

相手がどうであろうと自分の思い考え行為は自分に嘘のつけない心で判断するしかないわけで。

そしてこれは神様とかそういう存在がもしいたとしてその存在に"審判"してもらうようなことではなく、全員平等に作用反作用であり、そういう意味ではこの世界は公平なのだと思います。

何を思い行動するのかは自分で決められる。

そしてそれを受けた相手がそれに対して思い考え行為する。作用反作用であり両者の循環作用。この、因と果の間に入る"縁"によってどのような果を結ぶのか分からないところもまた人間の面白いところでありまして。

そして、それが良いとか悪いとか判断するのも人それぞれの意図することによると思います。

でもそれを好転させることが出来るのも一人ひとりの思い考え行為であり、お互いに気持ちのいい相互作用ができればいいねっていうことだと思います。

あと、ひどいことをされたと思う場面では、ちょっと想像力を働かせて(のっぴきならない事情があるのかなとか具合悪いのかなとか、もしかして自分が相手に嫌な事しちゃったかなとか)相手の立場を考える余裕が持てれば腹も立ちにくいです。人間関係はお互いさまですから。

この世は忍土ではありますが、自分の気持ちひとつでどうとでも捉えることが出来るし変えることが出来る。

地上の楽園ってそういうことなのでは思います。

・・・というようなことを知った(読んだ)のは十代の頃だったのですが、頭で知ったつもりでいて全っっっ然分かってませんでした。経験からああそうだよねとしみじみ納得できるようになるのに40年くらいかかりましたよ。頭でっかちの早わかりじゃいかんですね。多分、こういうことがすっと理解出来る人は今どんどん増えていると思います。何かが常識になるのは集団の理解がすすむと本当に早いですよね。(オリンピックとかで新記録が出されると、それ以前の新記録だったものを超える人が続々現れるように)

お互い頑張りましょう。



(2020年4月14日)

https://satoumamoru.hatenablog.com/entry/2020/04/14/184337

この老兵(私)もほぼ同じ考え方です。(まあ、さすがに人間に貴賤が・・とか言い切っちゃう勇気はありませんが、はしたないなあと思うふるまいの人には眉根を寄せてしまいます。)

ワイドショーなどで言ってること(の記事)、ニュースサイトや情報サイトについてるコメントは、ことごとく自分の考えと真逆で、世紀末の様相を感じてしまいます。多分そういうコメントを残す人達は元々強い意見を持つ声の大きなごく一部の人間だと、マジョリティはそうじゃないと思いたいです。

小林よしのりさんのブログも、至極真っ当、私もそう思うってことが多いです。日本の方がずっと先に感染が始まって死者数もかなりおさえているのに、ずっと後から感染し始めた(しかも人口密度は東京よりもずっとずっと低いのに)NYみたいになるって大騒ぎするのはなんで?って思ってたら(日本の対応を高く評価しているってことです。)彼も同じこと言ってる。メディアはおかしなことばかり目に着きます。

ここもそうですが、ロックダウンでみんなが大変な時に、地元商店を助けるために少しでもテイクアウトやローカルのお店での買い物をしたり、そういうお店のリストを作ったり、お互いに助け合う方法は沢山あるしそういう方向へシフトする人達は沢山います。

自分は恨み節でただ来るかこないかも知れぬ救いを期待して人生ダメにして自滅の道は避けたいと思っているので、お上は最初からあてにせず、自分の出来ることをやって生き抜きたいと考える派です。(そういう派があるかどうか知りませんが今作った。)

Passive-aggressiveは自滅の道ですよ。



↓自分で考えて行動することが、恨み節にならない生き方。と思うので、このカテゴリーに入れます。
(2020年6月19日)
マギ

久しぶりに読み返したら面白かった。

漫画家さんって、感受性や表現する能力がやっぱりすごいよなあとつくづく思います。

善と悪、光と闇、白と黒、そういう二見ではなく、全部併せて人間であり世界である。勧善懲悪ではない、というのがテーマのひとつで、こういうテーマの漫画が今ものすごく多いのは、やっぱり多くの人が感じて求めていることなのでしょうね。

それと、最後に強調されているのが、

【自分で考えて自分で決めて行動する】

【多くの人との交流によって、自分とは何かを知り、自分はつくられる】

という点で、誰か強い人に守られて引っ張られて生きる依存は、後に後悔を生まないか?(宗教などの思想も依存させるという点でそうですよね)、誰かのせいにする人生はもうやめようよ、というメッセージ。

これも今【自覚して自分の足で生きる人生を取り戻したい】と思っている多くの人々の深層心理を掬い上げていますよね。

他にも大事だよねと思うところが沢山ありますが、これだけ長い連載だとテーマも盛り沢山で毎回心に残るシーンが変わるのも面白いところです。

勿論、これが正解ということじゃないですよ。

子供の頃にこういう漫画を読んで、自分で考えるきっかけを持つのはとてもいい機会だよねと思います。日本の漫画文化はすごく哲学的なものが多くてそれらを日本語で読めるのって、すごくラッキーです。(私みたいなバアさんにも)


(2020年12月27日)
ついでに。
嫌われても全然構わないので本音を書きます。

日本人なのにトランプ派バイデン派に分かれてどっちが正義かとかやってるの、アホか!と思います。

日本の政治家が腐敗しているので調査して下さいとか他国の政府に嘆願するのは、もっとアホか!!と思います。

誰が大統領になろうとアメリカが日本の救世主な訳無いじゃないですか。

日本は、このゴタゴタの隙に日本国内の地固めをしっかりとすればいい。自立独立の道へ向けて。

そのためには、ひとりひとりが日本という国体を維持するためにちゃんと考えること。

自分を守ってくれるのは、自分の属する日本という国、法人としての日本しかないですよ。

“地球市民”を守ってくれるのは経済力です。だからあの人達はむしろ国境に頓着しない。だって、ボーダーのない地球全部が市場の方がいいから。騙されちゃいけませんよ。



(2020年12月29日)

批判されるであろうことは承知で書きます。

ヤングケアラー?何?どういう意味?って読んでみたら、家族の面倒をみる若い人っていう意味なんですね。これ、意味わかる人いるのかな?英語ですらない奇っ怪な造語はいらないので、まずは日本語で書いてほしい。

これは、普通に読むと当たり前すぎる話なのに、どこら辺が問題になるのかと考えますに、沢山の理由が重なって個人への精神的肉体的な負担になり、それが社会問題にされているところ。

先に書きますが、大変な思いをしている人苦しんでいる人達が実在しないと書いているわけでは無いですよ。根性論で乗り切れとかそういうことを言ってる訳でも勿論ないです。

こういう『弱者に寄り添う』フリをした記事を書くことによって、実の所人をどんどん弱くするのはどうかと思うだけです。

年寄りや小さい子のお世話をするのって、当たり前の話ですよ。重労働だということも分かります(知っています)。

当たり前のことなのにさも不当かつ大きな負担である事のように扱うことで、それをする人がまるで被害者のように感じてしまうっていうのもあるんじゃないですか。

勿論、ご近所さんや行政の支援が少ないっていう社会的な理由もあると思います。

でも、家族って全員が健康で全員が自分の思う通りに出来るって思うこと自体がまずそもそも非現実的で、そういう考えが社会に蔓延することが苦痛を生み出すというのは、あると思うのですよ。

生きることって、理不尽だらけだし辛く悲しいことだらけですよ。

それがいいとか悪いとかじゃなく。

ここでのキーワードは、やはり【孤独】ということだと思います。言い換えれば、誰もが孤立していると思ってしまう社会。個々の繋がりを感じられない感性。ご近所、お隣さんにすら助けを求められないほど切り離された人間関係。

核家族化、個人主義が行き過ぎて、孤独を感じる人がそれだけ増えていること。

ご近所付き合いや地域の集まりなど、確かに面倒かもしれませんが、それがちゃんと機能していれば地域でお世話のお手伝いも出来る。

行き過ぎた個人主義、共同体の破綻、そこを最初に注目しないと。

NHKさんは、一体何に対して怒りを向けさせようとしているのでしょうか。

やらなければいけないことは存在するのに、それをさも間違いであるかのように煽るのは、当事者の何の役に立つのか。



(2021年2月2日)
先日、妊娠2ヶ月の母親とその子供達2人が殺害された事件がありました。

犯人はシングルマザーだった母親のボーイフレンドで、殺害したのは「彼らを救うため」と警察で述べているそうです。

自分が酷い人生を送っていて、そういう将来が待っていることをまだ知らない子供達を救ったと。

狂っています。

社会の歪みは一番弱い部分に現れるもので、それはだいたい子供達なのですが、こういう弱い心を持つ者もある意味『弱者』(←鉤括弧付き)とも言えて、こういう人は思っているより増えているのかもしれません。

そしてBLM(組織的な巨大被害者ビジネス)もそうですが、被害者意識が大きすぎて全ての不幸が自分以外の責任であるという社会の風潮もそれを後押ししていると思います。日本でもそうですよね。

犯人が単独犯なのか雇われた扇動員なのかは知りませんが、どちらの可能性もあると思います。今の米国はそれほど落ちている。前者だとしても、被害者意識がここまで肥大してしまったのは今の社会風潮に影響されてしまったのでしょう。

これに感化された救世主気取りの殺害が増えるかもしれません。注視します。



(2021年9月29日)
幸せとか不幸とか、どんな状況にあっても自分がどう思うか、それ次第だよねっていうアドラー的な話です。自分の人生は自分で決める。

人は他人のことを自分と同じように考えていると判断しがちですが。

最近、ある人と話すたびにやたらと慰められたり励まされたりしていまして。

どうやら、その人から見ると今の私はものすごく悲劇的でドン底らしいのですよ。

私自身は全然落ち込んだり鬱状態になったり悲観的ではないので、そこのところを説明して大丈夫だよ〜って言いました。

考えてみると、これって前からあるんですよね。

大昔、高校からの友人と話してて、その友人から見た状況の私があまりにもポジティブだったらしく、「そんなこと言うけど、あみの人生、これまでろくなことないじゃん」ってズバっと言われたことがありまして。

私は、逆境とかむしろ自分が成長したり変わるチャンスと思って「よし!」とか思ってやる気が出て前向きになるタイプなので、「へえ〜、他の人は今の私みたいな状況は絶望と見るんだ」と、目から鱗のような気持ちになった記憶があります。

みんなそれぞれ、自分のフィルターを通して他人を判断しがちなので、あまりにも考え方の方向性が違っている人とは噛み合わなかったりしますね。

でもまあ、それもまたいい経験ですね。私もまた自分のフィルターを 通して他人を見ているのだろうし。お互い様ですね。

人それぞれ耐えられること耐え難いことは違うしキャパシティも違うので、私が平気なことを平気じゃない人もいるだろうし私も他の人には全然大したことないようなことでへこんだりするだろうし、一概には言えませんし。どっちが、っていう競争でもないですしね。当人がどう感じるか、です。

一応書きますが、ポジティブ=いいこと、ネガティブ=悪いことっていうことじゃないですよ、もちろん。

とりあえず、他人から見ると今の私は状況的にはかなり厳しい状況らしいですが、本人は精神的に結構前向きに生きています。(身体が付いてかないだけ。今は養生第一、肉体を労ってぼちぼちです。)




(2022年4月22日)
いじめ、レイプ、殺人、などで必ず出てくるやった方への擁護論「やむを得ない理由がある」「やられる方も良くない」に決定的に欠けている視点。

【世の中には決してやっちゃいけないことがある】

そりゃあ生きてると死にたくなるほど悔しいこと辛いこと人によっては強烈な欲望(快楽)は山ほどありますよ。

恨みを持たない精神的に強くなれっていうのは人生かけて到達するくらいの境地で誰にでも出来ることじゃない。

でも、だからと言ってやっちゃいけないことを実行する理由にはならない。

最後の最後でこらえることが出来るかどうか、そこのところだと思います。畜生ではなく人間なんだから。

正当防衛で極限状態でっていうのはまた別だとは思いますが、それはここでのポイントが違う。


(2022年7月26日)
前から兆候はあったけれども、『パンデミック』が始まった2020年夏頃から、恨み節の人が激増しているように見える。北米での犯罪理由も恨み節ばっかり。どうしちゃったの。英語では過去に何度も書いてるPassive Aggressive
それが親や社会から受けたことに対する自分ではどうしようもないことが原因だとしても、次につなげない、恨み節の連鎖を止めるのは自分だけ。
『弱者』に寄り添うことも必要な場面はあるけれど、寄ってたかって寄り添い共感同情することって、むしろ当事者の気持ちを前向きにすることを難しくしているんじゃないのかって思う。そして多くの人に共感同情され認定された『弱者』って実際は最強なのかもしれない。恨み節の正当化という免罪符を得た無敵の人。はからずも2ちゃんねるのあの人(名前出てこない)と同じ言い方(意味は違う)になったけど、意図した訳じゃないです。今気付いた。



(2022年8月22日)

“焦りが生まれ、不全感やストレスにつながりやすい”

それは分かる。でも、だからと言って自分以外の人にその感情を撒き散らすことを正当化する理由にはなりませんよね。

周りがそういうのを受け止めてくれて当然と、もしも無意識にでも思っているのであれば、相当幼児性が強いからだと思います。

子供がお母さんに甘えてるんじゃあるまいし、大人の人間同士のコミュニケーションじゃないですよね。

小さい頃からずっと大目に見てもらって色んな場面で下駄を履かせてもらい、甘やかされることに慣れきってそれが当然と思ってしまってる人が、こういうふるまいをしがちだと思います。

私はそういう人とはすっと距離を置きます。関わらないといけない場合は、自分の感情とは結びつけない。当人の問題なので。

過度な感情のぶつけ方をしてくる相手は、暖簾に腕押しって感じで受け流すのがいいと思う。

誰も引き受けなければ、その感情は自分で引き受けるしかなくなるので。

そうやって「この人は甘えさせてくれないな」と認定されると理不尽なこと言ってきません。

言葉にせず、察して(自分に都合のいいように)動いてくれることを相手に勝手に期待し、それが叶わないと駄々をこねる。これもpassive aggressiveのひとつ。



(2022年11月11日)
ナオミ・ウルフ博士の記事について。

どんなことにもいえることですが、

【影響される人】

【影響されない人】

この違いは、自分によるところが大きいんじゃないかと思います。

この人は、自分の思考によって見える世界に生きていて、恨み節になっちゃってるように見えます「許します」というたびに、恨みつらみを募らせて自分では望まないと思っている世界観によってそういう現実世界に寄せて行ってる。

一種のママチャリ現象。

「あ、そう」

で流して否定もせず受け入れもせず、幸せだと思うことを見つける世界線に生きることもできるのに、それを選択しないという意思は彼女の選択。

同じ社会にいて、どう思うかの選択によって見える現実世界も全く変わってくる。

恨み節の人生はまっぴらごめんって私は思うけど、それが心地良い人はいいんじゃないの?って思います。

これもまた流行りの“多様性”ですよね。(シニカル

人は人、自分は自分。

この人、多分どこに住んでても同じこと注目して(見て)同じように考えて許しますと言いながら恨みを肥大化させることを選択するのかもね。つーか、許しますってどこから目線?

嫌な気分になったらごめんなさい。ここも似たような状況だけど私は全然彼女が書いてるようなこと思ったことない(差別的な経験も全く感じなかったしこの辺りの人の気質ではそういうこと言う人はあんまりいない)ので、正直な感想です。



(2023年1月2日)
田原総一郎さんのことは特に支持している訳ではない(寧ろあんまりよくは知らない)けど、日本がこれからよくならないと本気で思っているというタレントに対して激昂したというのを聞いてちょっと好感持てた。

彼の真摯な気持ちは大事だと思うよ。やりとりを読んだけど、あれは“老害”じゃない。

日本の将来に対して否定的な若者に対して檄を飛ばすのは真っ当な感覚だと思う。多分私も(声は荒げないけど)「本気でそう言ってるの?」ってなると思う。前向きに見ることが出来ないと自滅の道だと思う。あんなネガティブな考えが根底にある人が増えると日本は良くはならない。

年寄りのせいで日本がダメになると思っているのであれば、現状をまるっきり否定して「このまま変わらないから諦める」のではなく、自分達若者が変えてゆくという強い意志を見せることも出来るんじゃないのかな。



(2023年2月1日)
今の時代の特徴のひとつって、

(自分にとって)悪いことは全て自分以外に原因を見ることだよなあと思います。個人から世界まで。

人が生まれて生きることは、理不尽っていうのは最初からそう。

それなのに、高い理想の「こうあるべき」を声高に叫んで現実世界ではそうじゃないから恨み節の人生になっちゃってる。

身近な所では、毒親とかブラック企業とかハラスメントとか差別とかそういう便利な概念が市民権を得てきてから人間って劣化の一途を辿っているんじゃないの?

古くは、人権宣言なんてのもそう。

美しいこと言ってるけど、そこから大きな苦悩怒り恨みが生まれ続けている。

まずは、人間は平等ではないし生まれながらにして世界は理不尽っていうことを前提としてそこからどうするのか、出来るのかを問いかけないと。

不平不満、恨み節のプロテストでは事態は好転しないと思う。

口だけ番長ではなく、現実処理能力が大事。

・理想(空想に近い)はこうあるべきだけど現実世界はそうじゃない → 【絶望】

・現実世界は理不尽だけど理想はこう → 【希望】

ってことです。順番が逆。



(2024年1月2日)
ひとつ上の続き。

もしも自分が悪い為政者で、大衆を支配したいとすれば。

あらゆる事に問題点を作り出して、不満を呼び覚ますのが効率的だろうねって思います。

人種、性別、学歴、時代、経済的な事、なんでも。

他人と比較して

「自分はこんなに辛い目にあっている。自分は差別されている。他の人は自分よりも得している。あの人はずるい。」

メディアを使ってそういう不満の芽を大衆にばらまいて植え付けて、不満分子をどんどん増やしてゆく。

やがて大衆の側からそういう声があがって大きくなってきたらしめたものです。

その不満の声をひとつひとつすくいあげてニュースやコラム記事にし、御用学者に尤もらしい解説をさせて、イデオロギーを作り上げる。

あとはもう、そのムーブメントを国民の声として耳を傾け“世直し”すればいい。これぞ民主主義!

ポイントは、個人的なことや身近なことであるほど効果的ってとこかな。

しかもこれ、ひとつを特別扱いしちゃうと他から新たな不満が生まれてくるので、終わることがないという特典も。後はほっといても次々と不満分子を作り出す永久機関の出来上がりってもんです。

あれれ?これってなんか、実際にあるよね。

分かりやすい例としては、◯◯ガチャと呼ばれるもの。あれって、もう言い方からして他責ですもん。不満しか産まない。あの呼び方をしている限り、出てくるのは不平不満と諦め。なかなか前向きになれないよね。

LGBTQやBLMなどのダイバーシティもそうですね。

人は生まれながらにして平等という幻想を、幻想であるとまずは認識した方がいい。

現実的に自分の生まれ持っている条件、そこからしか、自分の人生をより良くすることは出来ないから。そして自分の身の丈に合ったことで満足すること。

そう思います。



(2024年1月7日)

虐待や貧困など、自分では選択できない環境によって教育の機会を奪われている人々にさえ自己責任論が突き付けられ、救済が後回しにされている現在、高学歴難民の事情まで汲み取ることができる人はそう多くはないでしょう。

高学歴難民同士が悩みや情報を共有し、難民生活を共に支えあうコミュニティが必要だと考えます。”
(記事より引用)

何これ。こんなの、寄り添う価値も無し。

どんなに優遇されてもいわゆる勝ち組の条件を手にしていても、恨み節の人生を選ぶ人はいるってことですわ。

本は読んでないけど、このシリーズの記事をざっと読む限り、何が言いたいのかさっぱりわからない。とにかく不平不満、愚痴ばかり。自分の人生が失敗したのは自分のせいじゃない。

何だろうこれ。誰もが、自分以外の何かのせいにして、自分こそが辛いんだと不幸自慢でマウント取りあって、一体こういう声を掬い上げることで何がどう好転するのか。

社会が、人種や性差という、自分が不当な扱いを受けている“わかりやすい理由”のカードを切っている中で、世間的には優遇されている立場の人まで我も我もとネガティブキャンペーン始めちゃった。

“高学歴難民”などと変な名称を付けて“マイノリティ”と主張する。

あほか!

多様性という被害者ビジネスが、次のステージを迎えましたね。

北米でもありましたね。白人男性が不当に扱われて仕事も失って政府のせいにする。プラウドボーイズとか、文句ばっか言ってないで仕事を選ばず働けば?としか思えません。

誰だって楽して高収入を得たいですよ。だけどみんなそれぞれの場所で自分に出来ることを頑張ってなんとか生きてる訳ですよ。

高学歴だけど低収入でもきつくてもやりたくなくても自分には合わないって思ってても文句も言わずに地道に生きてる人だって沢山いる。そして多分そういう人達の方が圧倒的に多い。

こんな、もしかすると全高学歴者の1%にも満たない人の不平不満を大事に取り扱う、こういう風潮、ばっかじゃないのって思います。

出来ない理由なんて、いくらでも見つけられるし周りに責任を見て何もしないのが一番楽だよね。甘えるんじゃありません。って思います。



(2024年1月22日)

これこれ。分かりやすい例です。ポジティブを装うネガティブ。典型的なPassive-aggressive behaviorです。

本音と建前の乖離。
これねー、場所によってよくあります。若い人に多いかな。そしてこういうのはあんまり好感は持たれません。

この辺りは結構こういうタイプがいます。表向きはものすごく“いい人”だけど本音が違う、みたいな。対面ではめちゃくちゃ同意共感してるように見えるけど後ろからナイフで刺す(比喩です)、みたいな。嫌われたくないんでしょうね。

うちの夫は割と直球で話す人が多い東海岸で生まれ育ったので、こういう裏の意味を含めた話し方をする人達はすごく嫌みたいです。

この記事に、京都の例が出ていますが、あれもそうですね。私は苦手。

いくら美しい言葉や表現を使っても、そこに毒のある裏の意味を含むものは品位が無いし知性とは言えないんじゃないかな。単なる意地悪ですよね。

直球でも傷つけない言い方、優しさを感じさせる表現を選べる人はいます。わざと誤解されるような表現を選ぶ人って、めんどくさいよねって思う。

(補足説明です)
直球、というのは、ぶっきらぼうってことじゃないです。

どの言語でも同じで、言い方をきちんと選んで話すのは当たり前のことですよね。婉曲に言ったり丁寧な表現を使ったり。

多分、多くの人が「はっきり言う」ことと勘違いしているのは、たとえば「◯◯して下さいますか?」と自国の言葉では丁寧に失礼の無い表現が出来るのに、英語になるといきなり「◯◯しろ」とか「◯◯しないと」とかに聞こえる幼稚で乱暴な言い方しちゃってる。母語では絶対にしないような失礼な表現も、外国語では悪気無くやってしまいがち。単語だけで文章にしないってのも多いです。

多分、本人はもの凄く失礼な物言いしているとは気付かずに、それがはっきり物を言ってるつもりなのだろうと思います。アジア人、特に英語が母語ではない中韓の人に多い印象です。

大昔、NYで、非常に気の強い日本人女性と会ったことがあって、夫はあまりの押しの強さに「アメリカ人にもあんなにアグレッシブな人はあんまりいない」と驚いていました。

私から見ると「日本人が持つニューヨーカーのイメージ通りの人」で、多分自分でも意識してそうふるまっていたんだと思います。ちょっとやり過ぎちゃった。

夫や夫の家族も、直球ですが、表現は婉曲で丁寧です。「結構まどろっこしい言い方するなあ」と思うこともしばしばですが、それはこの記事に書かれていることとは全く別です。大きな違いは、礼節、思いやりがあるか無いか。

「はっきり物を言ってる」つもりで、無神経な物言いだったり言葉足らずだったり幼稚だったり乱暴だったりと不適切な言い方になってるかもしれないので、外国語は気を付けないとって思います。



(2024年9月5日)
昔の話。
雑誌は隅々まで活字を読むタイプでした。特に読者のお便りページは好きで、その昔そんなお便りコーナー好きのニーズを満たすポンプという読者からのお便りだけで構成される雑誌があって、愛読しておりまして。

その後出てきた宝島のVOWとも似てるんだけど、ポンプの方がウケ狙いのようなわざとらしさがなくて断然面白かった。

今、ネットの時代になって、そういう一般読者からの文章だけで構成される電子雑誌みたいなのがひとつの分野になっていますよね。

ネットの性質から、より人間の本音部分が曝け出されやすいというのもあると思うのですが、そういうのって恨み節系が多くないですか?

そんな中でも群を抜いた恨み節系のものに、「かがみよかがみ」というのがあります。紹介文に

「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです

と、共産主義国みたいなことをうたっているように、社会が悪い、あの人が悪いと、愚痴のオンパレードでネガティブキャンペーンの目白押し。

これって、ネガティブを後押しして希望を持ちにくくする効果があるんじゃないかな。これがカタルシスになって、さあ次へ進もうってなる人いるのかな。

どこがやってるんだろうと見てみると、朝日新聞でした。さもありなん。Z世代がターゲットらしいです。

朝日と聞いただけでつい悪意の目で見てしまいがちなので、色眼鏡かけてるかもしれないけど、あの手この手で日本を破壊する方向へ持って行きたいのかな?

あれは、味方のフリして寄り添いながら人間を弱くする手法だと思います。

朝日に限らず、メディアはZ世代をターゲットにして、若さゆえの短慮や未熟を諫めるのではなくもてはやして助長し、それをあたかも社会の正義であるかのように思わせる論調が多すぎます。社会を、国を精神的に衰退させたいのかな?としか思えません。



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