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「うつ」と「自死」について②

自ら命を絶つということ。

私の心の中では、肯定はできません。

でも、

否定もできません。

否めることができません。

だから、あえて、

私は、自ら命を絶つことを「自殺」とは言わず、

「自死」と表現しています。

**********

私は、

人一倍、「死」に対しての恐怖があります。

「死」を見つめること、

それ自体、避けて通ってきました。

「タナトフォビアという現実」という日記を以前書いたように、

小学3年生の頃に、初めて、無常ということに恐れを抱きました。

それ以来、「死」の恐怖は常に呪縛のように付きまとい、
人間は、夜眠っているときに、「悪夢を見ることがある」ということを、
感情を持って知りました。

「死」について考えてばかりいて、

一方、「死」について、考えるのを避けてばかりいました。

でも、高校1年生のとき、プラトンの「魂不滅論」に出会い、
私の中に光が見えました。

それ以来、逆に「死」に対して追求するようになりました。

恐れていたものに向かい合うきっかけをプラトンはくれました。

しかし、20代前半に
再び「死」に恐れを抱き、

「死」について考えるのを避けるようになりました。

しかし、再び、私には恐れに向き合うときが来ました。

それが現在です。

介護福祉士として、看取りを経験し、命を見つめることで、
再び、「命」とは何か、「死」とはどういうものなのか、

「死」に対して追求するようになったのです。

「死」に対する恐怖は変わりません。

「死」イコール、最大の恐怖なのです。

施設ならではの人間らしい死。
人間の尊厳を保ったままの死。
延命を一切施さない死。

今は、それを自分の目で見つめ、心で命を感じています。

自然の流れに従った死。

それが私には理想です。
延命を施さない自然な死が。

しかし、

私は、まだそれに、自分の全身全霊をかたむけられてはいません。

寿命に従った、自然な死。
延命治療を一切行わない死。

それが心の中では理想なのは確かですが、

自分の中では、まだ「生」への執着が強すぎるのです。

苦しまない自然な死は、とても美しいです。

でも、医療にての延命治療に、否定は出来ない。

医療の技術で生きられるのなら、生きたい。
でも尊厳を保った、人間らしい姿を望む。

自分にしても、家族にしてもそうです。

まだ私には決められない。

「尊厳死」
「伸ばせる命」
「自死」

続く・・・。

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