見出し画像

彼女と私の7年間⑥命の水2

「おばあちゃんは心臓を患っているから
死ぬ時をみるのが怖いのよ。
父の時もそうだった。
心臓を患うと、死ぬ時に酷い苦しみをする」

そう彼女の娘さんは言った。

慢性心不全でペースメーカー使用。
彼女は97歳。
認知症はない。
年相応の物忘れもない。

だから彼女は、
迫り来る死を沸々と感じている。

亡くなる一週間くらいから、
彼女はもう冷水しか飲まなくなった。

まずは、取っ手のついたコップに3分の1量注がれた冷水を両手に持ちゴクッと飲む。

やがてコップが重く感じ持てなくなった。

しかし、彼女は何が何でも介助ではなく、
自分で飲むことを求めた。

だから、今度は冷水を紙コップに注いで彼女に提供した。

彼女は再び自分で飲むことが出来た。

翌日には、彼女はコップを持てるものの、口まで運び口の中に注ぎ入れることが困難になった。

そのため今度は紙コップにストローを挿して提供した。

彼女は再び自分で飲むことが出来た。

しばらくして、彼女は紙コップを持てなくなった。でも彼女は介助を拒否した。

そのため、7センチほどの高さの小さな小さな紙コップにストローを挿して提供した。

やがてストローから冷水を吸えなくなり、
まだまだ介助を拒否する彼女のために、
今度はストローを短くした。

そうして彼女は再び自分で飲むことが出来た。

彼女が冷水を飲む時、
本当に本当にかなりの体力が必要になる。

飲みたい、から飲んだ、まで、
彼女は自分の力を振り絞っている。

ベッドの頭をギャッジアップする。

しかし、その角度も彼女にとっての最適な角度がある。

それを身体で感じながら、
もうほとんど開かなくなってしまった目に力を入れて痛みに耐えながら、上がっていくベッドのギャッジの位置を自分の感覚で決めながら、
「そこでいい」と教えてくれる。

ギャッジが上がったら、
今度は彼女が冷水を飲みやすいように、
上半身を起こすのだ。

起こす力が弱すぎても、強すぎてもダメだ。
そして起こすペースが遅すぎても、早すぎてもダメだ。

彼女の心臓にかかる負担を軽減するスピードがある。それを介護士は身を持ち身につけている。

この一連の動作が上手くいかなかったら彼女の疲労と倦怠感がマックスになり、
「冷水を飲む」とう目標が崩れてしまい、
結果「冷水を飲めなく」なってしまう。

命の水が身体を満たせなくなってしまうのだ。

介護士が介助で彼女に水分を提供することはいくらでもできる。

しかし、彼女がそれを望まない。
なんとしても、たとえ一口でも、
自分で飲みたい。

なかなか紙コップに手が定まらず、
ストローも口の中に入らない。
しかし私たちは介助をしない。
彼女の意思を尊重して。

彼女が紙コップを持てるように位置を調整し、
持てたら今度はストローを口に入る位置まで少し伸ばし、咥えられたら今度は彼女が持った紙コップが落ちないように紙コップから少し離れた位置に自分の手をガードとして用意しておくのだ。

これが私たちの、
彼女の水分摂取への支援だ。

彼女の震える手、
険しい表情、
冷水が食道を流れ、胃腸が動く音。

冷水を一口飲み、おいしい、
あーよかった、と彼女は言う。

そしてすぐに身体を倒して、
つかの間の眠りにつく。

私たちは願う。
どうかこのつかの間の眠りのなかに、
彼女の苦痛が少しでも存在しませんように、と。

彼女が冷水を一口飲んで、そして眠ると、
しばらくして訪室する。
静かに。彼女が安楽に寝ているのを確認する。
安楽に寝ていたら、そのまま退室し、
彼女が苦しさに表情を歪めていると、
何かできることはないかと彼女に聞く。

「胸が苦しい…」

spo2はまだ正常値。
きっと心理的不安からの呼吸苦だ。

私は彼女の身体を起こし、
耳元でゆっくりと言う。

「Tさん、大丈夫だよ。ゆっくりね、深呼吸できる?ゆっくり。」

すると彼女は途絶え途絶えの声で、

「待ってて、やってみる」

と弱く言う。

スーッと息を吸い、吐く。

「そうそう、上手だよ、あと一回してみて。楽になるよ」

彼女は私が言う通りにしてくれる。

突如として訪れる眠気で、
安楽は彼女の元にやってきて、
私は彼女の起こした身体をゆっくりと寝かせる。

そう、これは私がおばあちゃんが亡くなる間際までやっていたこと。

苦しむおばあちゃんを見ていられずに、
看護師さんを呼ぶと、
看護師はこんな風に深呼吸をおばあちゃんに促していたのだ。

優しく、優しく。

おばあちゃんには深呼吸の効果が現れていた。

だから私は看護師さんの真似をして、
おばあちゃんに深呼吸を促したのだ。

Tさんに深呼吸が効果があるかわからない。
しかし、だから、
不安を煽らないように、
自信を持って深呼吸を彼女に促すのだ。


絶対に、これをすれば、楽になる、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?