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自死について。あるいはラストモールまでだらだらと

スティーリー・ダンというバンドがかつてあった。アメリカのロックバンドで、ジャズとかソウルとか、いろんな要素の入った唯一無二のサウンドとドナルド・フェイゲンの渋い声が特徴だ。日本で言うならばサザンオールスターズみたいな存在だろうか。と言うか桑田佳祐はたぶんスティーリー・ダンをかなり意識していたんじゃないかと思う。

その最後のアルバム『エヴリシング・マスト・ゴー』の最初の一曲目に「ラストモール」という曲がある。

まだ二十代の頃に、背伸びをしていい音楽の趣味をまといたくて買ったアルバムだ。まあ背伸びもしてみるもので、最初のうちはそれほど肌に合わなくても、だんだん音の深みとか歌詞の奥行きみたいなもの、演奏の遊びみたいなものがみえてきて、気が付けば耳の好みを拡張するきっかけにもなった一枚のような気がする。

歌詞の意味は忘れてしまったが、今日はなんとなく朝から「ラスト・モール」を口ずさんでいる。たぶん、例のニュースを聴いたせいだろう。

そういうことを知ったのはいつぐらいからだろうか。

「そういうこと」。

人は死ぬということ。人はときどき自死を選ぶということ。

忘れてしまったが、親の知人とかまで含めてしまえば、たぶん遥か昔から自死に関する記憶はあるし、その中の何人かとは直接にやり取りだってしている。

そして、そうした経験をするたびに、何とも言えない重たい感触を受け取ることになる。一言でいえば「据わりのわるい感じ」だろうか。「あの人が」「自分で」「死を選び」「この世界から去った」「つまりここにもういない」この各フレーズに、細かく我々は引っかかる。

いま白けた顔で日常を送ってみえる世代の人たちも、これまでの人生で数えきれないくらいさまざまな死を目撃してきているはずだ。

私は、自死を選ぶ者にはそれなりの敬意もある。自分にはできない種類の潔さだから。自分はたとえぎりぎりの際まで行ったとしても死の淵を覗き込んだら満足して引き返してくる自信がある。

この世に未練があるわけでもないが、たぶん「えい!」とひとっ飛びというわけにはいかない。だから、それをした人に対して、すごいですね、という単純な敬意がわく。

畏怖の念もある。瞬間瞬間への真剣さや、物事との距離感が尋常ではなかったのではないか、という気がするのだ。だから振り返ってその人の生の時間を想像すると、みょうに凝縮された、濃い生を感じる。比べて、自分はなんて薄っぺらな生を生きているんだろう、と何となく自己嫌悪にさえ襲われたりする。

それから、ほんのちょっとボタンをかけ違えただけなのかもしれない、とか思ったりする。大きな決意をした直後に、おならの一つも出たり、あるいは友人から「面白いジョークを思いついた」とかしょうもないメールがきたり。そういう誰に言うにもくだらなすぎるような理由で思いやめたり、またはそれがないがために、決心をそのまま行動に移したりといった分かれ目があるのかもしれない。

何にせよ、我々はこうした突然の自死というものに出会うと、心が揺れる。とくに若いときだと、「自分だってそうなる可能性はある」と思うものだし、また少しばかり不謹慎な言い方をするなら、誰だって少しは「そっち側に自分を含めたい」という気持ちがあるのだ。「自分だっていつ死ぬかわからない人間だよ」と。

昨年、地元に帰ったときにO先輩と話していて、寮にいた頃のとある先輩の自殺の話題になった。その先輩は、就職活動のさなかに亡くなった。寮の屋上で、洗濯ものの物干し竿のところで首を吊ったのだった。やさしくて笑顔が絶えない先輩だったが、傷つきやすそうな人でもあった。

久々にその先輩の話題が出たのは、それこそ誰かの自死の話題がきっかけだったと思うが、そのときO先輩は「今でもあのときのことは覚えている」と言った。その先輩は夕食の時間も元気に食堂に現れ、みんなと談笑をかわした。そして就寝前にそっと自室を抜け出し、誰もいない屋上へ向かった。誰も、その決意に気づくことはできなかった。「あんなに何気なく自分たちと話してたのに、すぐその後に死のうと思ってたんだよ」とO先輩は呆然とした顔で語った。

そのイメージは、残された者たちに、二十年が過ぎてもなお亡霊のごとく付きまとう。最終的に、自死の一番厄介なところは、本来人間が「避けようがない(けど避けたい)未来」に「能動的に向かっていく」というまるで生の象徴のような「意志」が、奇妙に共存しているからなのかもしれない。

虚無と意志の共存。そして、ひるがえって、死をできるだけ忌避しようと漫然と今を生きる自分との「乖離」によって、心が乱れる。知らぬ間に、その知人や友人、あるいは芸能人が、自分の一部にもなっていたのだ。そして、「われわれ」に含めていた。

だから、そのたびにちょっとした混乱が起きる。精神にシステムエラーが起きるのだ。

個人的には、フィックス、という言葉が、自死にはいちばんしっくりくる。その人の生をフィックスする。残された者はその意志に従い、あとはフィックスされたデータから何かを受け取っていくしかない。しかしこの切り替えがなかなかうまくいかないのが人間というものだ。

その人の意思を否定したくはない。懸命に生きた結果だと思うし、きっとそのフィックスにも価値があるのだ。しかしやはりだからと言って「自死はいいものだ」と言う気分には、少なくとも私はなれない。

たしかに人生というものに対する一つの手段ではあるし、それを選んだ人には敬意を表する。ただ、「自死はいいものだ」とは言えないのは、「いいものだ」と言ったその人物が幽霊でなければ言葉自体が嘘になってしまうからだろう。

プラダを愛用しない者が「プラダはいいぞお」と言っても信ぴょう性がないように、自死を選んでいない者の口から「自死はいいぞぉ」とまでの肯定的台詞は、残念ながら出すことはできない。嘘になってしまう気がする。

この世がもしもショッピングモールなら、たとえプラダがいいものでも、とりあえずユニクロを試したっていいし、オンワード程度で我慢したって、グッチにしてみたって、何だっていいのだ。

プラダでキメた人は潔いし、その方のかっこよさからは受け取れるメッセージがたっぷりある。けれども、その生きざまに心を乱されたり、「やっぱりプラダなのかしら……」なんて軸足なく考える必要もないのだ。だって今げんにプラダを着てないんだから。

苦しみから逃れたい。暗い柔らかな海の底のようなものに、どこまでも沈んでいきたい。そういうイメージは共有可能だし、それを実際に選んだ人がいて、選んでいない自分がいて、そこの分岐点に混乱が生じるのは自然なことだ。

でもいいじゃないか。我々はみんなべつべつの人間で、だからやっぱりどれだけその人の孤独がふいに自分の孤独とつながったようにみえても、やっぱりそれは幻想で、べつべつの人間なんだから。ここでのびきったラーメンを食べながらぐずぐず生きていたってさ。

けれど、それは「しょせん他人は他人」と切り離すのとは少しちがう。べつべつの、尊厳ある、意志ある人間だから。とりあえずその人の意思を認め、その人がフィックスした生を受け取ること。これは誠心誠意やっていいんじゃないだろうか。その人の生に、しっかり耳を澄ましてみるのもいい。

そして、目覚めたらまた、目ぼしいものがあまり見当たらないショッピングモールで、ああだこうだといいながらまたショッピングを続けてみるのもいいかもしれない。個人的には、閉店の音楽が鳴り始めてから慌てて買い物するあの感覚、あれはあれで悪くない経験だと思ったりするのだ。

 




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