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百合とスガシカオ

 百合とスガシカオ──というテーマで何が書けるか考えていたのだが、やはりあまり関係ないんじゃないか、という気がして一瞬手が止まった。
 だが、すぐにいやいやそんなはずはないぞ、と思い返す。スガシカオといったら禁断の関係を歌うこともよくあるのだ。たとえば「秘密」という歌はオフィスラブを歌っているし、「はじめての気持ち」は友達の弟に恋をしている男の子の歌だからBLである。ここまできたら百合も……と探してみるが、やはり見当たらない。
 GRAPEVINEと同じく、やはりスガシカオにも女性一人称の歌詞というのがいくつかあることはある。田中ほど頻繁ではないものの、やはりスガも女性一人称をよくやる。いちばん有名なのは「サナギ」だろうが「THANK YOU」もそうだ。とりわけ「THANK YOU」は視線の意図的な曖昧さがあって「ねえ明日死んでしまおうかしら もどかしいことすべてのあてつけに」という女言葉から始まりつつ「そばにいて そばにいて そして僕の話を聞いて」と「僕」という一人称に返り咲く。こういった「視点の痙攣」はスガシカオが計算的にやっているところがある。そのような例は「nobody knows」でも登場する。「ぼく」や「おれ」といった一人称が混在する一方で「さわらないでよ 関係ないじゃない」と女性一人称を思わせる台詞も登場する。この「視点の痙攣」は結果として聴者ひとりひとりの「今」に走る亀裂へとつながってゆく。
 スガシカオが視点の意図的な切り替えをランダムに行なうことによって、感情の性差が超克される瞬間が多々見られる。「君」はいる。だが、一人称はシュレディンガーの猫のごとく「痙攣する」のだ。
 そのような「痙攣」の結果として、スガシカオはあらゆる対象への感情を射程に入れある種のスガシカオ的なカタルシスをもたらすことに成功する。このカタルシスは「愛だの恋だの」の遥か向こうにある、もっと切実でもあり生々しくもある「君」と「?」の二者の関係が音楽と歌詞とでぴったりと捉えられたことから生じるものでもある。
 このようなスガシカオの音楽世界は、21世紀のアニメに見られた「中二臭さ」を中和したり反対にデフォルメしたりするのにうまく合っていたように思う。彼の楽曲が主題歌としていくつか採用されていることも、それを証明してもいるだろう。
 さて、時代は変わり、「百合」を語れる空気が全体に醸成されてきた。百合とは何なのか、というのは個人個人に定義もあろうし、ここではあえて問わない。が、いま語ってきたことからわかるとおり、スガシカオの「痙攣的眼差し」は百合を描く意志はないのだが、一方では百合だろうと何だろうと、すんなりと適合できるものでもあるのだ。
 先日発売となった拙著『キキ・ホリック』は、GRAPEVINEの楽曲をテーマにしつつ書き進めていたのだが、一方で物語のメリハリのエッジの立った感じというのはデビューから一貫してスガシカオ楽曲に頼っていた部分でもあり、随所随所でスガシカオを聴きながら書いていたりするので、今回もそうしていた。
 するとゲラ作業を進め始めた頃にスガシカオのニューアルバムが出た。この中の「労働なんかしないで光合成だけで生きたい」が無人称の楽曲で、しかもそこでは「恋愛なんかしないで光合成だけで生きたい」というフレーズに出会い「これだよねえ」と思った。共時性というのだろうか。
 現代ははっきり言えば恋愛さえ面倒くさいし求める実像から離れていく興ざめなものだとわかり切ってしまった時代なのだ。そういう時代では、反対に恋愛でも労働でもなくて植物的であることを求めたくなる。仕事や恋の成功が果たして幸福につながるかというとそうでもないからだ。「幸福の意味」はそんなわかりやすいものではないのだ。
 以前の記事に書いたが、「たとえば、植物があなたより幸福だと断言したら、あなたはハ?と思うかも知れない。でもそれくらい「幸福」はそこかしこにあるものでもある。」ということだ。これが「キキ・ホリック」を書いている最中に感じていたことであり、そのゲラ作業のタイミングでまさにこのようなシンクロが起こったことはたいへん嬉しいことでもあった。まあそんなわけなので、百合とスガシカオは関係ないのかもしれないしあるのかもしれないのだが、百合の読者にもスガシカオの楽曲は絶対おすすめできるし、スガシカオファンの方々はまあとりあえず「え、百合ってちょっと手にとるの躊躇しちゃう」なんて思わず、まずはスガシカオマニアの小説家、森晶麿の書いた百合ミステリ『キキ・ホリック』を手に取ってもらいたい。



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