黒い渦について

 「あたし、おかあさんだから」という歌の詞についてSNS上で非難の嵐となっていることは多くの人が知るところだろうから、ここであえて経緯について再び語ろうとは思わない。昨今では珍しくもないことだ。作品のイデオロギーが非難され、そのクリエイターの資質すら疑問視される。
 自分はあの作詞をみてどう思ったかも一応書いておく。ちょっと押し付けがましいし古い価値観をもっている詞だけど、もっと問題な作品が熱烈に支持を集めていたりもするし、まあ、とくに感想はないかな、という程度だった。ところが、ネットの熱が収まらない。ちょっと不思議だった。あの程度の目を細めたくなる押しつけがましさは、しょうじきそのへんにごろごろしているからだ。
 もちろんこれはタイミングの問題もあったかも知れない。女性の在り方がいま日本を含め世界中で転換期を迎えている。そのなかで、たしかにあの歌詞はかなり悪手を打ってしまったのだろう。あるいは、介護の悩みなどの社会問題もあり、親と子の人生を切り離して考える必要性がここ数年、この社会には課題としてあった。それまでがだいぶ遅れすぎていたのだ。そこへ親の恩を子に説き伏せるような歌詞がきて火に油を注いだというのもありそうだ。
 ただし、僕はいま四国の田舎町に引っ越して6年ほど経つが、地域単位でみると、SNS上の盛り上がりほど日本人の価値観は変わっていないというのが実情のような気がする。幼稚園の先生は僕が毎日のように迎えに行っていたのに子どもの様子は母親にしか伝えようとしなかったし、保護者の集まる行事に父親だけが顔を出したりすると居場所がなかったりもする。「子育ての主軸は依然として母親にある」という田舎の堅牢な考え方を、まざまざと見せつけられたことが何度となくある。
 そして、そうしたところで多くの親が無意識のうちに子に恩を着せ、将来はきっと世話をしてくれるはず、と内心で期待する構造も、30年前と変わらない。これでいいわけがない。けれど、いろんな人と接してみて感じるのは、とくに変わろうとも変わりたいとも思っていない人たちというのが、一定数この社会には存在するということだ。ではその人たちが悪人なのかというとそうではない。ただ、無思考に「こういうもの」と現実を疑っていないだけなのだ。
 社会は変わっていかねばならない。現状の社会の在り方では不幸になる人がいるからだ。だが、では現状に満足するでもなく、ただ無思考にすべてを受け入れている人たちは(たぶんこの層は想像を超えて多いと思う)、悪なのだろうか。その人たちは、SNS上の人たちのように「変わらなきゃ」という気持ちを持ちなおさねばならないのだろうか。
 くだんの歌詞を、こうした方々に聴かせたとする。たぶん、総じていい評価が返ってくるだろう。彼らにとっては、それが現実だから。
 結局、SNS上で非難の声を上げた人々にとってこの詞の一番の問題は何だったのか? イデオロギーも、社会的なタイミングも、じつは二次的なもので、単純に言えば、気に障ったのではないかと僕は思っている。そして、「叩きやすい」「叩いても誰も文句は言わない」と無意識のうちに誰もが思ったのではないだろうか。なぜならその非難にはある程度の正当性があると思うから。
 たとえば、これが老齢の作詞家の作品であったならどうだろうか? 「九十歳のおじいさんが書いたならまあ仕方ないか、許せないけど」程度で収まったかもしれない。それに九十の作詞家なら、援軍もそれなりにいる。へたに叩けば、援軍が黙っていないと思えば面倒な気持ちも増す。
 「置かれた場所で咲きなさい」という著書名にしたって、考えてみればツッコミどころは満載だ。でも、経験やキャリアが尊重されるものか、そうした場合には多くの人の舌は口の中に引っ込み大人しくなる。
 もちろん、あの歌詞をみて、自分のいやな、苦しい体験がよぎったという人にとってはより切実な非難だったかも知れないし、非難をすべきでなかったとも思わない。その非難はきっと妥当であっただろう。
 ただ、それを言うならば、不良に暴力を受けた人にとっては、ヤンキーが英雄視される映画は見るに堪えないであろうし、トールという車のコマーシャルに濱田岳が起用され、暗にその身長と「トール」という名称が笑いにされていることに過去のいやな記憶の扉が開いた方だっているはずだ。
 それに、今回の詞のなかではイデオロギー的におかしな賛美はあるにせよ、誰かを傷つける意図をもって書かれたものでないことは明らかだし、ある生き方を賛美することが、ほかの生き方を否定することにはならないはずだ。今回はそもそもスタート地点から若干の被害妄想から始まってはいるのだ。そしてこの被害妄想が「被害」のかたちをとることで糾弾しやすくなったかもしれない。
 作品に問題がある場合、その問題は指摘すべきであろうし、その批判が集中することは、ままあることではある。
 しかし、今回のような場合、ある段階からそのような「ありうべき非難」の領域から逸脱し始めている。その線引きはどこにあるのか。それは人権問題である。ある詞が問題になる。それが現代の社会と鑑みて非難される。そこまではまあ想定内なのだ。
 問題はその先。それをもとに、作詞家の生い立ちや思想団体との接触、そういったことを引き合いに出し、べつの作品では、少なくとも数字上は成功を収めていたものを、それすらも「ひどい代物」と改めてレッテルを貼るところまでいったら、これはもう人権侵害、いじめだ。
 この文章を書かねばならぬような気がしたのは、本を作るサイドの人間までもが、その作詞家の出しているほかの絵本を「よく売れるひどい本」呼ばわりし始めたからだ。「ひどい本」て、誰が決めるものですか?
 それは文壇が決めるのか、出版社が決めるのか。そうではない、大衆ひとりひとりが決めるのだ。「よく売れるひどい本」なんてものはない。それを「ひどい本」と感じる自分がいるだけだ。その感じ方が、その人の世界への存在の表明なのだ。そして、ごくわずかでも、それは誰かにとっては「すばらしい本」や「すばらしい歌」であるかもしれない。
 作者の人格否定にまで及んでいる、このある種の「祭り」に参加するとき、人は、それがたとえほんのひとにぎりの人であろうと、その作品に感動したかもしれない人々の体験をも汚していることには自覚的であらねばならないだろう。
 この人物に対しては何を言ってもいいだろう、というタガを緩めだしたとき、そこに黒い渦が発生する。黒い渦は何もかもを壊す。やがて、その発言者自体をも。想像力をもとう。とくに、自分が受け入れがたいものに出会ったときにこそ。それだけが、黒い渦に抗う唯一の方法ではないか。

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