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黒猫による断篇「楽園で早めの昼食」

 

 朝十時。百貨店の開く時間は何らかの終わりを示唆している。その店先に並ぶとき、クラクラクは、開店と同時に笑顔を作る店員たちの口元に走る小皺を眺めながら必ずそんなことを考えてしまう。
 クラクラクは百貨店に用があるわけではない。だが、日曜の朝には必ずと言っていいほど百貨店に足を運び、閉店時間までぼんやりと人混みを眺めて過ごすことにしている。百貨店の人の流れは、ラクの身体のリズムに合っている。ラクは一人の人間として存在しているよりも、百貨店の人の流れの中にある路傍の石として佇んでいるほうが自分らしいと感じている。
 恋人は遠い土地にいる。週末に会う約束を果たせないまま三週間が過ぎているが、恋人のササキササが本当に会いたいと思っているのかはわからない。一週目に約束を反故にしたのはラクのほうだったが、二週目はササがすっぽかした。そして今週は今のところわからない。約束の場所はいつも中間地点にしているが、いまラクがいるのは自分の住む街の百貨店である。ラクが約束を反故にしたことは間違いないが、だからといってササが約束どおり中間地点へ向かっているかどうかは今のところわからない。
 何はともあれ、クラクラクは百貨店に足を踏み入れる。地下一階から最上階まで、百貨店は上質な欲望の展覧会だ。地下食品売場へ行けば、日頃手にする食材とは一味違った珍品名品を求めて右往左往する人々の群れが見られる。ここでは、欲は嗜好という装いでパッケージされている。
 この百貨店のどこかに恋人だけが並べられたフロアがあれば、ササキササがひたすら無限に並んでいるフロアがあれば、そこではさまざまなクラクラクが嗜好というパッケージに包まれた欲をむき出しにもするかも知れない。
 思い立ってクラクラクは電話をかける。
「もしもし、いま思いついたんだが」
「ただいま電話に出ることができません」
「百貨店に君ばかりが売られたフロアがあれば、僕はそこに一日中入り浸っているんじゃないだろうか。そして、つまりその売り場こそが、僕たちの根源的問題を解決するんじゃないかという気がする」
「ピーッという発信音の後に、お名前と、ご用件をお話し下さい。ピイイイイイイイイ」
「君は電話だとずいぶん変わった声を出すんだね。そんな君もまとめてショウウインドウに飾ってもらいたい。君の百貨店を作るんだ。その無限ササキササの中でなら、僕は一生を送ることができる」
 ササキササは黙ったままだ。対話は終了したようだ。クラクラクは電話を切ると、一階の化粧品売り場へ向かった。そこにはドガの絵画みたいに、あまたの女性客が行き交い、己と美の間に漂う小川を渡るための方法を模索している。この流れは絶えず、化粧品売り場全体に流れている。店員たちは小川を渡る手配を整え、よりスマートな方法を提案して喜ばせようと躍起になっている。己と美の間に漂う小川は、氾濫こそしないものの、穏やかなばかりではない。
だが、その小川を渡るための方法論を模索するという形態をとれば、ここでもやはり欲望はより気品のある顔つきをしていられる。
 この川を渡ろうとするすべてのものが美しいのだ、とクラクラクは考える。だが、同時にそのように考える己の思考自体に潜む惰性や欺瞞の空気にも敏感にならざるを得ない。
 ある女性は店員にマニキュアを塗られながら、まるで楊貴妃のようですとお世辞を言われている。またある女性は二種類のファンデーションを手の甲に塗られ、質感や色の違いを説明されながら、ヴェルレーヌの言葉の皮膚感はどちらのファンデーションでも出せず申し訳ありませんと謝罪を受けている。
 そして、あまりにも当たり前のことながら、あまりにもすべての女性が、ササキササではなかった。これほど圧倒的な数量の女性がいながら、そのすべてがササキササでないことについて、クラクラクは不思議に思った。なぜこの中の一人くらいササになってくれないのだ。だが、かくもササキササ不在の川の真ん中にいて、クラクラクは溺れるでもなく、ただ何とも言えぬ幸福感に満たされている。
 空腹に気付き、地下食品街で買った今川焼を取り出す。その今川焼の中身は餡子でもチョコレートでもない。オノレ・ド・バルザックの「サラジーヌ」が入っている。一口食べるごとに、クラクラクは頭がくらくらする。
「幸福とは、頽廃から切り取られた一瞬の無限を思わせる小川の前で、このように早めのランチをとることだ。僕は君とここで、この場所で永遠に一緒にいたいのだ。そして、その永遠は時間にしてほんの数秒で構わない」
 要約するならば、クラクラクがササキササに伝えたいのはそのようなことなのだが、もう一度電話をしても、こればかりはササキササには伝わりそうもない。また妙なピィイイイイなどという奇声を発して会話にならなくなるかもしれない。
愛する者と対話をすることはとても難しい。ときにコミュニケーションは一方通行になりやすい。それこそ、小川のように。クラクラクの言葉は一方向に流れており、二度と戻ってはこない。ササキササの言葉もまた彼女のもとを離れれば二度と戻ることはない。対話とは、儚い夢のようなものだ。
 電話が鳴る。
「君か、朝から妻の電話に奇妙なメッセージを残している奴は」
 初めて聞く男の声だが、見当はついた。
「君のことをよく知っている。ササキだろ?」
「妻が迷惑している」
「あるいは、迷惑しているように見える」
「迷惑だとはっきり言っているよ」
「あるいは、はっきりと言っているように聞こえる」
「君の電話番号はすでに削除された。メールも何かもだ。そして、今後はブロックすると彼女は断言している」
「あるいは、断言しているように聞こえる」
「もしもまた妻と接触しようとするなら、警察に通報する」
 電話は切れている。
 ほらね、とクラクラクは考える。対話はまたしても一方通行に終わった。ササキササが本当に自分に迷惑しているのか、二度とコンタクトをとってほしくないと思っているのかどうかはわからない。それはすべて断絶された可能性に過ぎない。もしかしたら、彼女は夫の前でそのように言わざるを得なかっただけなのかも知れない。
 たしかなことは、彼女はこのような会話を夫とした後で、鏡台へと向かったであろうということだ。そうして、しばらく疲れた顔で鏡の中の自分を覗き、その中にわずかに現れはじめているシミやそばかすの類を丁寧にファンデーションで隠し始めるであろうということだ。眉をひき、睫毛を立たせ、深紅のリップを塗り終える頃、言葉の裏側にあったはずのものはきれいにコーティングされる。その裏側などというものは、存在しない。陰影のないのっぺりとした印象派的な現実を、彼女は歩き始める。はじめから、何もなかったかのように。あるいは本当に何もなかったのかも知れない。
「我々の船はどこにも向かわなかった。だがここにある小川は、君の鏡台の前にも続いている」
 クラクラクは名も知らぬ高級化粧品店で深紅のリップを一つ買い求める。店員は怪訝な顔になるが、ラクは「猫に塗ってあげようと思って」と答える。大抵の者は猫にあげるためと言えば笑顔になるが、この店員は笑顔にはならず終始警戒心を抱いた様子のまま商品を包んで渡した。それから歩き出してちょうど化粧品売り場の中央辺りにあるエスカレーターの前まで来たところで、クラクラクはめまいを覚える。さっきより激しいめまいだ。どこを見渡しても、カラフルな女たちの眺め。そのどこにもササキササはいない。だがこの小川は、この小川は──。
思い出すのはいつかの光景である。二人はガラス張りのカフェのカウンターで並んで早めのランチをとっていた。たしかジョルジュ・サンドに挟まれたショパンを食べていた。すると、ササキササがふと言ったのだ。
「ここは危険よ。窓の向こうで誰かが銃口を構えていたら、そう遠くへは進めなくなってしまう」
「そうだね。でも、時の止まった楽園では、弾丸もまた止まったままだろう」
 クラクラクのその言葉に、ササキササは微笑んだ。それから笑いを消して言ったのだ。
「馬鹿ね、弾丸は楽園の外からくるのよ」
 ラクは思う。あの時、馬鹿は君だと言い返せばよかった、と。楽園の外からきた弾丸は窓ガラスを突き破り、そこで止まるじゃないか。
 クラクラクはエスカレータに足を乗せる。ここが一階なら、エスカレータはやがて自分を二階に運ぶのか。だが、もしもこれもまた何らかの川の流れの一部ならば──。
 電話をかける。ツー、ツー、ツー。ササキササは「2」と繰り返す。唇は上唇と下唇で「2」。なるほど。君はリップを塗っている最中か。クラクラクは、袋からリップを取り出すと、自分の唇にそれを当てがった。やがて、エスカレータが彼をべつのフロアへ流れ着かせた。漂着したフロアに、ラクは安堵の溜息をつく。やっとたどり着けたのだ。ササキササのフロアに。
いま、クラクラクの前では、幾百のササキササがショウウィンドウに飾られ、微笑みかけていた。

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