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しんりてきあんぜんせい 2024/03/29

徒歩日記㉁

何もかも休んでいるため文章をたくさん書ける。

今回は春休みスペシャルだ。



お腹が空いたときは何かを食べればいい。
眠くて体が動かないときは目を閉じて寝ればいい。
それがそういうときはアレすればいい。
人間の三大欲求を満たすのは簡単だ。でも、それ以外にも満たされないなにかがある。
心に穴があってそれを埋めようと必死に、必死になっていることすら気づかずに反射的にやってしまうことあるよね。私は寝る前になんとなくインターネットやSNSを見てしまう。やめたい。

寝る前にツイッターやYouTubeインスタ等を無限にスクロールしてフォローしている人の情報を頭に刷り込む。それが必要なことでも、そうじゃなくても。
なんとなく不安が解消されて、それで満足した気になって、てきとうにYoutubeをひらいてラジオとして聞き流しながら眠る。好きな音楽のときもあるが、最近はなぜか好きな人の喋りでないとダメになってしまった。
そういうとき、何を求めているのか。自分でもよくわからなかった。



久しぶりに実家に帰って過ごすなかで、気づいたことがある。
私は育ってきた家庭で「心理的安全性」を家族というコミュニティの中で得ることができなかったんじゃないか。

「心理的安全性(psychological safety)」とは、組織の中で自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態のことです。

https://www.recruit-ms.co.jp/glossary/dtl/0000000230/

急に知らん単語出してすまん。「心理的安全性」とは、上記の通りビジネス用語で使われることが多い単語だ。でも、私はこれを超絶プライベートな家族関係の話に持ち込もうとしている。無茶なことをしてすまん。何回も謝るんじゃないよっ
この概念をググって知ったとき、目から鱗だった。
いつも不安な私に必要だったのはこれではないか。

これは私の想像だけど、心理的安全性が上手くいってる家庭で育って学ぶことで、それを組織でも生かせるもんだと思うのね。私はそれが最初の段階でつまずいてる。
つまずいてるって書くとき、ずかづか迷うよね。
話は逸れたが、要するに私が育った不安定すぎる家庭環境では心理的安全性を学ぶことができなかった。実家にいるのが苦痛で仕方がない。私はそれが普通だった。いろんな普通があるね。



じゃあ今までどうやって安心感を得ていたのか。私の場合は、自分の想像の世界に閉じこもったり、インターネットに頭をつなげることだった。無限にインターネットやSNSを見てスクロールを繰り返して、見ず知らずの他人の書き込みに私の本心を見出そうとしていた。ピンと来なかったら失敗で、そのときの心にジャストフィットしたら成功。仕組みはギャンブルと一緒だ。

だったらSNSをもっと能動的に利用して交流の場として活用できればいいのに、私はどうしてもそれが苦手だ。SNSのほうが現実の100倍引っ込み思案になってしまう。
かといって現実でも、必要以上のやり取りをLINEなどでできないし、電話するのもプレッシャーになってしまう。やっぱり、人と深く関わるのが苦手。意味や理由を求めてる時点で、なんかダメな気がする。となるとやはりインターネットに救いを求めるほかないのだ。

ずっとモヤモヤしていたのは、それがとても流動的で、満たされたはずの心は朝になると消えて、また当て所なく探さなければならないこと。それの繰り返すうちに、楽しいけど、これはよくないと思うようになった。
だったら妄想や想像の世界に浸ってるほうが随分マシだが、ときどき冷静になって虚しくなってしまう。そういうときほんとにダメになる。
私はひとりになりたいのか、誰かが恋しいのか、自分が嫌いなのか、はたまた全部なのか。この底のない穴はなんなのか。気付くのが怖かった。

どうせなら(どうしようもないネ)



大きな成果を上げなくても何もメリットがなくても、そこに居ていい。必要以上に他人に気を張り巡らせなくてもいい。自分の気持ちを素直に表しても誰にも攻撃されないし、無視しないで話を聞いてくれる。これが心理学安全性なのか。というか、親から子へ向けられる無償の愛とも似ているな。

そんなことが現実にあるだなんて、考えもしなかった。
自分から頑張って文章書いて発信しなくても、なにもできなくてもいいのか。無償の愛を他人に求めることが、恋人や友人が欲しいと思う欲求の根源なのか。そんなこと、あっていいのか。マジ?
これを書いてる私は今、ここに居ていいんだろうか。これを読んでる誰かが居るって思っていいのかな。読んでくれたらありがとうの後ろには(どうせ誰にも無視されるんだろうな)が付きまとってしまう。

私がラジオで誰かの喋りを聞いているときにほっとして安心できるのは、この人の喋りを聞いていると「ここに居てもいいんだ」って思えるからだ。
好きなYoutuber、ラジオ、アルバム、動画、映画、小説、なんだってそうだ。間接的に感じる”人っぽい感じ”が私にとっては丁度良い。
寝る前に衝動的にスマホを見てしまう理由は、心理的安全性を求めて安心したかったからだ。
もしかしたらこれに、生身の人間がカテゴライズされる未来があるのかもしれない。そっちのほうが、私には向いてる気がするなあ。

でも、今すぐにこれを他人に求めるのは難しい。だから、少なくとも私の文章や絵を読んだり見たりしている間は、ここに居てもいいんだなあと思ってほしい。
私もなるべく心を開いて、自分で完結しすぎないようにするね。
ときには厳しすぎて読んでる人を突き放すようなことも書くかもしれない。でも、書いている自分以外の人も自由になれるような場所になりたい。忘れた頃に思い出して、見に来たら変わらず毎日更新されていて、いっつも同じ話ばかりしていてこいつばかだなあなんて笑ってもらえるような、そんな場所になりたい。

最後に自由の象徴、みたいな曲を貼っておきます。おやしみ。


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