優しい彼女と優しくない私の不均衡な均衡

私には死にたくなると連絡してくるひとが何人かいる。
わたしが死にたくなったら電話するひとはいない。

これは不均衡で、私は都合よく扱われておるんやろかということをぼんやり考える

私は自分をメンヘラだと思うけれど、メンヘラムーブをされないからピンと来ないと周りのひとはみんな言う。
死にたくなっても誰にも言わない、調子を聞かれれば嘘はつかないけれどやー調子悪いわぁ季節柄かなぁそっちはどう?と相手に返してしまうから、多分そういうところ、他人を巻き込まないところなんだろうと思う。

私の問題は私の問題で、誰かの問題ではないから
押し付けるのは違うと思う
でも
誰かしらが連絡してくることを押し付けられているとは思わない。
何でだろう。これは何だろうか。

私は喋るのがクソ下手だ。
人と関わること自体も下手くそだ。
私が彼女たちみたいに、死にたいときに他者と関わりを持とうとすれば、多分なんかすごく上手くいかない。相手を尊重できなくなってしまうと思う。沈黙や負担や敬遠や、そういうものを呼ぶような話し方になってしまう。

彼女は、踏まない。
どんなに絶望と悲しみの中にあっても、どれだけ心身が削られていても、私を踏んだりはしない。
いつも気遣いの一線を決して踏み抜かないし、八つ当たりもしない。
なんならユーモアさえ交えて話をする。
それに感動すらする。
とても優しいと思う。
それは心根の善さであると思う、心掛けなど、あまりに切羽詰まった状況であれば飛んでしまうものなのだから。

彼女の状況は端的にあんまりにあんまりな辛いもので、頻繁と話を聞き続けていると周りからは「あなたが引っ張られて鬱にならないか」と心配されることもある。
だけどそうはならなくて
心配はしてもだいたい何か癒すようなことも言えなければ手を差し伸べるわけでもない、ああ、とか、それは…そうかあ、とか、要領の得ないことばかり言っている。
ただどこかその心根の善さに触れてきれいなものを知るようにおもう
私には持ち得なかった優しさに触れて。

「都合良く扱われる」ことに甘んじるほど、「感情に巻き込まれて落ちてしまう」ほど、私はやさしくもなければ、我慢を重ねるような関係の持ち方も出来ないのだった。
人間と関係を持つのは難しい、私には。
だから結局、彼女の人柄や優しさによって保たれた関係なんだと思う。

不均衡な関係だとは、思う。
話を聞いて欲しい彼女たちと聞き役の私の?
いや、優しい彼女と、優しくない私の、だ。


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