富雄丸山古墳の殉葬者とは。須佐之男と櫛名田比売の子とは、蘇我氏だったのか。
今回は、八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話と富雄丸山古墳について考えていきたいと思います。
上記でまず注目すべき点は、須佐之男命(スサノオ)が出雲国に降り立ち、「箸」が流れてきた川を上ると、櫛名田比売(くしなだひめ)という名の娘を間に老夫婦が泣いていた、という点です。
櫛名田比売(くしなだひめ)とは、「箸(はし)」で表される「ペルシャ」に出自を持つことが示されているのではないか、ということに気が付きました。
次に、夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八岐大蛇がやって来て娘を食べてしまうため、最後に残った8番目の娘である櫛名田比売も、今年には食べられてしまうと泣いていた、という点です。
八岐大蛇が高志(こし)からやって来ると書かれていますが、その高志とは奈良県明日香村にある、越(こし)という地名のことなのではないかと考えました。
櫛名田比売は、日本書紀では奇稲田姫(くしいなだひめ)と書かれており、稲田の女神と解釈されるということです。
そして明日香村には、日本の棚田百選に選ばれている稲渕(いなぶち)の棚田や、阪田・上(かむら)・細川などいくつもの棚田があり、稲田姫の名に相応しい土地であるように見えます。
櫛名田比売は老夫婦の8人の娘の末娘で、八岐大蛇に捧げられる8人目の生贄であったとされています。
大阪府東大阪市にある、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)の上之社には石切登美霊社(いしきりとみれいしゃ)があり、御炊屋姫(みかしきやひめ)が祀られています。
御炊屋姫とは登美夜毘売(とみやびめ)とも言われ、長髄彦(ながすねひこ)の妹で饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻となった、とされています。
ここで注目すべき点は、日本書紀では長髄彦は饒速日命に殺された、と書かれていることです。
以前の記事で富雄丸山古墳の被葬者とは、八岐大蛇とされた長髄彦というロスチャイルド(秦氏)の王だったのではないか、と考察しました。
八岐大蛇を退治したのは須佐之男命(すさのおのみこと)とされていますから、饒速日命とは須佐之男命であるとも言えることになります。
饒速日命の妻となった御炊屋姫は、櫛玉比女命(くしたまひめのみこと)という名も持っています。
須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八岐大蛇を退治したので、櫛名田比売は須佐之男命の妻です。
その櫛名田比売とよく似た、櫛玉比女命とい名を持つ御炊屋姫は、長髄彦の妹で饒速日命の妻となりました。
したがって饒速日命の妻である御炊屋姫とは、須佐之男命の妻である櫛名田比売のことでなのではないか、と考えられます。
これらのことから、須佐之男命による八岐大蛇退治神話とは、饒速日命による長髄彦殺害の説話を英雄譚として語られているように思えます。
この御炊屋姫が祀られている、石切劔箭神社の上之社には八代龍王社 があり、八大龍王が祭神とされています。
「八代」という表記の中に、八岐大蛇の8人目の生贄となった櫛名田比売が祀られていることが暗示されているのではないか、とも考えられます。
石切劔箭神社の祭神は、饒速日命と可美真手命(うましまでのみこと)であるとされていますが、長髄彦が祀られているという口伝があるそうです。
神社の名称に剣(つるぎ)という文字があることから分かるように、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)では、石切丸という日本刀(太刀)が神宝とされています。
石切という言葉が長髄彦を表すのであれば、石切丸とは長髄彦の剣を表していることになります。
そして富雄丸山古墳の被葬者が長髄彦であるとすると、あの長大な蛇行剣とは八岐大蛇と表現されるに相応しい剣であると感じます。
このように石切劔箭神社に長髄彦が祀られているのであれば、富雄丸山古墳で出土した長大な蛇行剣と石切劔箭神社が「剣(つるぎ)」で繋がります。
さらに富雄丸山古墳では、竹製と見られる堅櫛が9点も出土しています。
日本神話の中でも、櫛名田比売は竹製の櫛に変身したとされています。
ここで「櫛」という出土品から、櫛名田比売と富雄丸山古墳が繋がります。
饒速日命の妻とされる御炊屋姫とは、櫛名田比売のことであると考えられ、御炊屋姫とは長髄彦の妹でした。
これらのことにより、八岐大蛇の生贄とされることになっていた櫛名田比売とは、長髄彦の妹のことであった可能性があります。
長髄彦の死に伴って殉葬された妹のことを、八岐大蛇の生贄という表現で書き記されたのではないでしょうか。
このように日本神話と考古資料の符合によって、富雄丸山古墳の被葬者とは、長髄彦とその妹である櫛名田比売のモデルとなった人物である可能性が導き出されました。
そしてこの櫛名田比売と須佐之男命の子とされているのが、八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)または、大己貴命です。
八島士奴美神とは、聞きなれない神の名です。
八島士奴美神の別名として「蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなさむるひこやしましぬ)」という名があるということです。
これは、櫛名田比売と須佐之男命の子が、蘇我氏であったことを表しているのではないでしょうか。
八岐大蛇を退治した後に、櫛名田比売と須佐之男命が宮殿を建てて住んだのは、須賀(すが)の地とされています。
この須賀(すが)とは、奈良県明日香村(あすかむら)ではないかと考えました。
奈良県明日香村には島庄遺跡(しまのしょういせき)があり、蘇我馬子の広大な邸宅があったとされ、7世紀頃の方形池や建物群等が検出されており、近くには蘇我馬子の墓とされている石舞台古墳があります。
さらに明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の南東には、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の邸宅だったと考えられる建物跡も見つかっています。
これらのことから、櫛名田比売と須佐之男命の子が明日香(あすか)という地で生まれ、蘇我氏・大国主命の系譜となったということを、日本神話の執筆者は暗示しているのではないかと推察できます。
そして「箸」という言葉から、櫛名田比売とはペルシャに出自を持つと考えられ、須佐之男命とはスサの王であるとすると、エラムに出自を持つ可能性が考えられます。
以前の記事で、古代エラムのジッグラトと出雲大社や三輪山との繋がりにより、エラム人とは出雲族なのではないかと考察しました。
古代ペルシャ人が日本に渡来した経緯を考えると、櫛名田比売のモデルとなった人物とは、ペルシャにルーツを持つ秦氏であると思われます。
以上のことにより、櫛名田比売と須佐之男命の子とは、明日香(あすか)という地で生まれ、ペルシャ(秦氏)とエラム(出雲族)の血脈を併せ持つ蘇我氏と大国主命の系譜となった、という仮説を立てることが出来そうです。
サタンは私たち人間が何もかも分からなくなるようにし、神様は私たち人間が何もかも分かるように導かれる。だから、分からないことは全て分かるまで研究し、祈り求める者となりなさい。
我々人間はただ主を愛するという一事さえ究めれば、この世でも栄え、あの世でも永遠の救いを受けられる。
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