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『無芸無能』(2024.6.1 - 6/2)

鄙(ひな)
都(みやこ)

【1】

座っている都。
戸の前に立つ鄙。

都   う、う、産まれるー!
鄙   (戸を叩く)
都   ひっひっふー。ひっひっふー。
鄙   (戸を叩く)
都   ぎゃーぎゃーうるさい! 静かに、静かにしてちょうだい!
鄙   (戸を叩く)
都   もうすでに二分の一、いや三分の二くらいは出てきてるんです、こんにちはー?
鄙   (戸を叩く)
都   あ、う、産まれるー!

ボトンッ。

都   ……私は産み落としました。出来損ないだった私が必死に、懸命になって集めたそれをたった今、自らの手で産み落としました。これからそれは荒波に揉まれ大海を知り、そして風の前の塵となって消えてゆくのでしょう。それはどんな姿で、どんな色で、どんな形だったのでしょうか。もう私はそれらを知る術を持ちません。しかしその産声だけは、確かに私の耳に残っています。今日この日から死ぬ日まで、私は未来永劫あなたのその産声を忘れません。いいえ、忘れてやるものですか。だって私は、あなたをこの世に産み落とした、たった一人の母親なのだから。
鄙   (戸を開け中に入ってくる)お早うございます!
都   ぎゃー! トイレの個室に入ってくるな、ド変態!
鄙   ぎゃー! だったら鍵を閉めておきなさい、お早うございます!
都   お早うございます!
鄙   お早うございます!
都   「お早うございます」だぁ?
鄙   社会人に朝、昼、晩という観念はありません。いつ何時でも元気な声でお早うございます! と挨拶する。そのように定められております。
都   時すでに酉の刻、どこがお早いと言うのかね。
鄙   ただいまから活動を開始すれば、結果として「お早い」ということになります。十分条件成立ですね。お早うございます!
都   我々人間は昼行性生物だ。誰が日の入りから活動なんかするか。
鄙   変えていきましょう生活様式、受け入れましょう新しい自分。変わることを恐れないで。
都   指図をするなドキチガイ、そもそも! ……そもそもどうしてもっと早く呼びにこなかった。
鄙   呼びましたよ何回も!
都   呼ばれてないぞ一回も!
鄙   私の声に気付かないほどの集中をして、うんこしてたのはそっちでしょ!
都   うんこって言うな! 芸能に生きるものとして、最低限の言葉は選べ!
鄙   排泄行為を「産み落とす」と呼んでる貴君にだけは言われたくないなぁ。(ジェスチャーをしながら)これが、産声ですか? ハハハ、気色の悪い。
都   何を言う、うんこだって生きてるんだ。
鄙   うんこはうんこだ、勘違いするなよ。
都   うんこうんこ連呼するんじゃないよ! お下劣不愉快極まりない!
鄙   いいえ、何人たりとも私がうんこと言うことを止めることはできないわ。
都   そいつぁどうして。
鄙   だって私は、可愛いから!
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは正義、可愛いは理。可愛いは絶対の権利。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは全てを許される。可愛いは全てに許される。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   そうでしょ?だから、ね? 許してーちょんまげっ。
都   はぅ、可愛いがすぎる!
鄙   チョロいな世界。……ほら、起きて。
都   お早うございます!
鄙   もうお早くねーよばーか。
都   今何時?
鄙   時すでに酉の刻。そろそろ日の入りの頃合いでありんす。
都   なんと。
鄙   遅ようございます!
都   遅ようございます?
鄙   私たちはたった今から夜行性生物。ともするならば適切な挨拶は、Say!
都   遅ようございます!
鄙   ざっつらい。

【2】

都   ただいまより、本日の業務を開始いたします!
鄙   ただいますでに、本日の業務完了しております!
都   素晴らしい。
鄙   そんな私は?
都   可愛らしい。
鄙   ざっつらい。
都   本日は、あなたの書いた小説を校閲、編集していきます。
鄙   本日は、私の書いた小説を校閲、編集していただきます。
都   拝見しましょう。
鄙   ご覧にいれます。
都   はいどーも。
鄙   はいどーぞ。

【3】

都   「熱海ですか? 」
鄙   驚きと羨望の入り混じるこの丸々とした瞳ほど私の欲求を充足させるものはない。斜向かいの家に住む(ノイズ音)は受け取った回覧板を傍にあるニトリのシューズラックに置きながら、私の欲求を満たすその瞳を未だに湛えている。
「えぇ、結婚記念日だからって。」
都   「へぇー、いいですねぇ。夫婦水入らずで。」
鄙   こういう手合は大抵の場合、負けじと自身の幸せエピソードを披露し、その内容の劣等ゆえに完膚なき敗北を味わう、というのが常である。がしかし、彼女に関してはその限りでない。至恭至順とはまったく彼女のために用意された言葉だ。私がつらつらと並べ立てる自慢話の一字一句を余すことなく拾い上げ、その全てに対して素直な
都   「凄い。」
鄙   を言えるのである。性善説、とはよく言ったものだ。これほど私の横に立つ人間として相応しい人物があろうか。私は一生涯彼女と友人関係でいることを固く心に決めている。私は彼女のことが好きだ。
都   「でも、大丈夫なんですか? 赤ちゃん。」
鄙   ふと彼女は私のぽっこりと肥えた腹に目をやる。正確にはその皮膚によって隠された小さな生命に目を向けている。こうして人の話にただ頷くだけでなく、ささやかな質問を投げることができるところこそが彼女の彼女たる所以である。がしかし、私以外の存在にその注目を寄せるなどまったく御法度、あってはならない。
「マタニティコース? っていうのがあるんですって。最近はどこも配慮が行き届いてるよね。」
都   「へー、そんなものが。だったら赤ちゃんに無理させることなく楽しめそうですねぇ。確か、もう六ヶ月でしたっけ。楽しみだねー。」
鄙   ……興が冷めてしまった。サンダルからちょびっと飛び出した私の爪先も少々の赤みを帯びてきたし、ここらが頃合いである。
「そろそろ。」
都   「あら、もうですか? 」
鄙   「実は、お料理途中だったの。」
都   「あら、でしたらもっと早く言ってくださればよかったのに。」
鄙   「いいのよ……、じゃね。」
都   「また。回覧板、ありがとうございましたー。」
鄙   重く、ゆったりと扉の閉まる音を聞いて私は心底実感する。
私は愛されている。
容姿端麗、才色兼備、愛されるとはまったく私のために用意された言葉だ。刹那のサラリーマン時代を経て今の夫と結婚、若くして専業主婦に転身し、あまつさえ子供にまで恵まれた。世間は常々私に
都   「人一倍努力されてきたんでしょう? そうでしょうねぇ。何を言わずとも分かりますとも、今のあなたのその地位が今までの苦労を物語るわ。あーあ、羨ましー。」
鄙   などと宣うが、見当違いも甚だしい。私が幸せを掴むことができた理由など明々白々、そう、私はとても美しい。この生まれ持った容姿、顔面こそが幸福の秘訣、泥臭い努力などしてきたつもりは微塵もない。不条理かな、しかしそれが社会の仕組みというもの、下々は潔く諦めてくれるとありがたい。ひどい言い草? 悪い冗談。私はあらゆる行いにおいてその全てを許される。理由だなんて、もうお分かりなんでしょう? そう、私はとても美しい!
都   ……「熱海旅行、ちょっと見送ろうか。」
鄙   それは、彼の日から三日経った日のことだった。

【4】

都   ……チープ! なんてチープ、驚くほどチープ、挙句陳腐! 芸能に生きる者としての自覚、才覚、五稜郭、その他諸々ナッシング! 絶望的なほどナンセンス! 面白いとか思っちゃった? 安心して、面白くないよ。ただ至恭至順に生きる人間の、どこに面白みがあるというのかしら。文化人として恥ずべき感性、前へ倣えを美徳とする日本の悪徳教育の賜物ね。出る杭は打たれる、身の程を知れ、雉も鳴かずば撃たれまい。優秀に産まれ遊就に育ち有終の美を飾ることこそ天より賜りし使命、略して天命! なんて思想に染まっちゃったあなたが一番チープ! なんてチープ、驚くほどチープ、挙句陳腐! 説教臭くて、まるでお母さんに怒られているみたい。利他的であれ、だなんて、今をときめくティーンネイジャーに刺さるものですか。読者像とか、求められてる時代のニーズとか、想像したこともないんでしょう? ないでしょうねぇ、そりゃ当然。でないとこんな作品書いてくるはずがないもの。あらゆる側面において一切の才能を感じられない。ボツ、廃棄、駄作、校閲の価値なし、振り出しに戻る。バイバーイ。

原稿をビリビリに破り捨てる都。

鄙   はーい。
都   わざとらしい空返事、これだからゆとりは。社会に出てその荒波に揉まれ世間という大海について知見を深めろ。電車通勤の苦しみの前に押し潰されて、ちっぽけな塵となり消えてから出直してこい。
鄙   はーい。
都   返事だけはいい、とてもいい。でもそれだけ、たったそれだけ。元気にお返事できる余裕があるのなら、それよりさっさと書いてごらんよ、稀代の名作。レ・ミゼラブル、ダヴィンチ・コード、武器よさらば。遍く名作も軽く超えちゃう傑作長編、書いてみなさいよ。Fラン大学のバカどもですら汚ねえ涙ちょちょぎらせる、そんなお話求めてんのよ。そうしてさっさと売れなさい。さっさと取りなさい芥川。さすればあなたは時の人。絶対いけるよ、だってあなたはとっても可愛いから。そんなあなたの栄光の影で、ついでに私もボロ儲け、うっはうは。黄金の方程式、証明完了、Q.E.D.
鄙   はーい。
都   はーい、ということで本日の業務はこれにてお終い。とっととお家にお帰りおあそばせ。
鄙   はーい。
都   さよなら三角、またきて四角。
鄙   四角は豆腐、豆腐は白い、白いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光る、光る、光るは……

鄙、足元に一枚の便箋を置く。
都、それを拾い、読む。

鄙   上司ぴへ
なんかバイブス上げてくの最近ムリムリのムリでぴえんこえてぱおん
もうまじ退職しか勝たんから明日からはおうちカフェで働くことにしました
いままで397
また会おーね
(去る)

【5】

都   ……なんだ今のは、幻か? 夢の胡蝶か胡蝶の夢か、はたまたただの現実か? 現代日本のうら若き少女、Z世代の成れの果て、逃げ足ばかりに磨きをかけて、もはや己の研鑽からすら尻尾を巻いて逃げ出す始末。ガチで危機感持った方がいいと思う、現内閣。なんですか? はぁ? 泣いてませんけど。泣いてないですけど? 日本女史にあるまじき不遜、不真面目、不健康。そんな可愛い彼女のために、いったい誰が泣いてやるものですか。だから泣いてないです。ゴーストが一生ゲンガーに進化しなくても、蟲神器でソリティアしてても、プロフィール帳が最初のページ以外真っ新でも、独りでも、暗くても、狭くても、私大丈夫ですから! なぁんて強がってないとやってらんねー!きちー、一人きちー。誰でもいいから構ってほしー、ついでに愛してほしー、欲を言えば一生側にいてほしー。……のに、気づけば少女は独りぼっちでした。体はびしょびしょに濡れて、汚らしいことこの上なく、頭のてっぺんから爪先まで、彼女の体はうんこ色。ありったけの力を込めて、ただすらに泣いていました。かつて貧困に陥ったとある少女はマッチを売ってその幻に夢を見たと言いますが、彼女の手元には何もありません。お金がなければ人は何もできないということを、私はよぉく知っています。だから、お先真っ暗なのは嫌なんです。視野狭窄になることが怖いんです。一人は嫌です、だから、ごめんなさい、私を捨てないでください、どうか独りにしないでください、どうかお金を稼がせてください。あなたがいないと、私、ごめんなさい、許して、ほしいだけなの。暗い、狭い、寒い、ごめんなさい。

鄙が現れる。

鄙   可愛い私が再び登場! きゅぴーん。いいのよ、身の程知らずの恋をしても。
都   ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん! なんだあの見窄らしい生き物は。数日前まで私の作品にケチをつけるしか能のない凡才の端くれそのものだったのに、今はどうだい見てみろあの御姿。罵詈雑言を吐き散らすありし日の姿はどこへやら、濡れた瞳によだつ肩。ロートレックの描く娼婦の如く、下卑たエロスを身に纏い、丸くうなだれる背面が愛らしく私の下心を誘っている。決してがっつくなかれ、私は可愛い。そう、私はとても可愛い。性に身を委ねた魔物になどなってはならない。いいや、なってたまるか。ここはそぉっと、そぉっと近づくのだ。……ゴホン。どしたん、話聞こか。
都   ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん! 紫電一閃、体中を駆け抜ける電流、イナズマ。駄目だこいつは辛抱たまらん、こいつは一体なんなんだ? 初めて抱くこの感情、その正体を解明せずにはいられない。もう一度、もう一度頂戴ワンモアタイムプリーズ!
都   ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん! ……恋。明らか。それ以外の何ものでもない、So clearly. とても可愛いこの私が恋の炎に身を焦がすなど、あってはならない分かってる、理解している、がしかし。私はすでに彼女の見窄らしさにぞっこんだ。なんとしてでも、なんとしてでも彼女を我が手中に収めなければ、とても可愛い女としての名が廃る。お早うございます!
都   ごめんなさい。
鄙   お早うございます!
都   ……。
鄙   私を見ろ、お早うございます!
都   ……可愛い。
鄙   そんなことは周知の事実、わざわざ言うまでもないリアル、それよりなにより返事を返せ、お早うございます!
都   お早うございます!
鄙   よろしい。さてはて、本日私が参上したのは至極明快な理由ゆえ。早速あなたに私から、素敵な提案ご提供、いかが?
都   委細承知。分かったわ、あなたの言うとおりにする。
鄙   まだ何も言ってないのだけれど。
都   なんでもいいから、どんと来い!
鄙   私と付き合って。
都   ……ん?
鄙   私と付き合って。
都   前言撤回、少し考える時間をくださる?
鄙   いいえそんなものあげない、これは決定事項、提案という皮を被った強制よ。あなたの持つ選択肢ははいかイエスか喜んで、以上三点のみとなっております。いかが?
都   でもだってそんな…。
鄙   判断が遅い! まったく現金なやつめ、とても可愛い私に免じて、今回だけは特別よ? 私と付き合ってくれるというなら、前回のことはきれいさっぱり水に流したげる。仕事辞めるなんて二度と言わないし、あなたの元から急に去ったりしない。生涯あなたの隣にいてあげる。特大サービス、閉店売り切りセール、年末総決算。いかが?
都   買った!
鄙   違う、返事は?
都   喜んで!
鄙   ざっつらい。
都   でも私、女だけれど。
鄙   見りゃ分かるわ、そんなもん。分かってないのはあなたのほうよ。多様性の時代はとうに過ぎ去り、今や男も女もオカマもない、人を「個性を持った生物」という大きな枠組みで括る、逆画一化社会の時代へと遷移した。女だなんだと未だに狭窄な視点でしかものを見れてないあなた、時代の波、乗り遅れてんじゃない?
都   ……ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん! 謝るなんてとんでもない。いいのよ、いくらあなたが前時代的思考を持ち合わせていても、TikTokのことチックタックなんて呼んじゃうネット老人だとしても構わないわ。だって私はとても可愛いから! 全てに許される権利を持つ私は、全てを許す義務を負う。いいのよ、だってあなたのことが好きなんだもの。
都   ずっきゅーん……。
鄙   だから、私と付き合って。
都   こちらこそ。
鄙   違う、返事は?
都   喜んで!
鄙   ざっつらい。

【6】

都   初めて繋いだ手は互いに湿って、ベトベトだった。ベトベト過ぎて、互いの手がくっついて、もう離れられなくなっていた。そもそも、離そうだなんて発想が頭になかった。人はなぜ恋人繋ぎなるものを発明したのか、その心理を二人は深く理解した。私たちは幸せだった。
鄙   「私たち、幸せだね?」
都   ほぅら、私たちは繋がっているのだ。運命の赤い糸で私たちは結ばれているのだ。なるべくして出会い、なるべくして引き合わされた二人なのだ。この疑いようのない事実に私たちの恋は更に燃え盛っていった。私たちは幸せだった。
「えぇ、幸せだね。」

ややあって鄙、都にキスを迫る。

【7】

都   ぎゃー!
鄙   ぎゃー! なにー?
都   見えた。
鄙   見えた?
都   見えたぞ、直木賞。
鄙   なわけねーだろ、舐めんなよ。こんなもんで取れたら世話ねぇわ直美賞。人生最大の汚点、生涯湯船に浸かる度ふと思い出し悶絶する予感、世に出すことすら憚られる問題作。こんなもんが直美賞だと? あんた、正気か?
都   私はいつだって正気さ。むしろこの作品の素晴らしさを讃えられないあなたの脳みそに些か懐疑の念を抱かざるを得ないわ。飽くなき幸福からしか摂取できない栄養素があると太古から実しやかに囁かれていることをご存知ない? そもそも直木賞、名前すら覚えられていない? 初等教育からやり直してきなさい。
鄙   ただ幸せな物語なぞに人の心を動かすことが能うものか。飽くなき苦悩、絶望のみにこそ真に心震わす震源たる素養を持つ、you know?
都   ハッピーエンド万歳!
鄙   死ね。
都   死ねって言うな! 芸能に生きる者として、最低限言葉に責任は持て!
鄙   責任を持って作る作品がどうして面白いものになれる。
都   責任もなく作った作品にいったい何の意義があるのだ。
鄙   大義の下の作品など芸術においてはそれこそ無価値! そんなくだらない、従順な作家になど私はならない!
都   編集たる私の指示に従え一作家がぁ!
鄙   あー、言っちゃった、言っちゃったねぇ。言ったらいけない一線超えちゃいましたね、文春で干しますよー? 大丈夫ですかー?
都   たかだか無名作家一匹如きの声で地に堕ちるほどの信用ならもう捨てた!
鄙   そもそも! ……そもそもこれは私の書いた、私の書くべき私の作品、my son。他人の意見ばかりに左右されてたまるか! 私は私の道を征く!
都   実際にはあなたが文章を書いていようとて、作品を作っているのは私も同じ、我ら運命共同体。生半なものにさせてたまるか!
鄙   人の妄想とは誰しも冒す権利を持たない、人間とはまこと無力なり!

【8】

都   「待って!  」
鄙   唇に柔らかい感触を感知し、開眼する。しかしその唇に押し当てられたものは私の期待とはまったくの逆を行く、制止の手掌であった。とても美しい私は生まれてこのかた断られる、という体験をしたことがない。これは、非常に気分の悪いものだ。行き場をなくした想いが吐瀉物となって喉元に逆流しようとするのを無理やり飲み込む。苦い。
「どうしたの? 」
私はまるで何事もないかのように、毅然と言葉を放った。ここで平静を失っては負けである。負けとはすなわち、私という存在の死を意味するものだとすっかり理解している。
都   「そこに愛は、あるの……? 」
鄙   「…え?」
都   「そこに本当の愛は、あるのかい? 私、嫌だよ。愛のない、ただ性欲のみで構成された、爛れた関係性なんて。私、嫌だよ。そんなものを本当の愛とは言わない。」
鄙   この期に及んで真実の愛だなんだと小綺麗なことを宣おうとは、馬鹿も極まれば天才たるとはよく言ったもので、まさしく愚か、愚の骨頂である。殊私を、とても美しい私を目の当たりにして、あまつさえこちらから寵愛を授けんとしたのに、求むる愛それ以外を受け入れることができないとは、むしろこの人間にこそ人としての問題があるように感じるのだが。一般的感性を持ち合わせていれば何の弊害を感じることもなく私を受け入れ、乱れ身垂れ、ゴートゥー愛の巣窟、別称ラブホテルに直行の流れであるというのに。どうしてあなたは私のものにならない。どうしてあなたは私だけを見ない。どうして、どうして私は美しいながら幸せになることができないのだ。
だなんて思考を巡らせている私を見兼ねて、その私の期待に沿わぬ唇が再び運動を始める。
都   「……ごめんね、空気壊しちゃって。続きは、また今度にしよっか。」
鄙   そう言って向けられた背に私はどうしようもない苛立ちを感じた。誰が悪いとか誰が正しいとかそういう話ではなく、ただ苛立つのだ。どうしようもなく、どうにもならない現実にはらわたが煮え繰り返るのだ。
我に帰った私の手には赤く濡れた灰皿、床には伏す一体の傀儡があった。

【9】

都   チープ! なんてチープ、驚くほどチープ、挙句陳腐、アゲイン! 今時の芸者という輩はどうしてそうすぐに暴力的な展開を繰り広げようとするのかしら。死だとか、永遠だとか漠然とした恐怖を美化して、それらを芸術に昇華しようとするのかしら。暴力とは絶対の悪、何人にも許されない、許されてはならない極悪の権化。それをフィクションとはいえ簡単に行われては非常に困る。万が一無垢な子供らに真似されたりでもしたら、苦情を受け付けるのは我々編集の人間なのだぞ。そもそも! ……そもそも、やはりキャラクターに問題があるのだ。なぜ試練に試練を重ねる? どうして救いを施さない? ただまっすぐに、果てしなく続く絶望に読者は何を感じればいいのだ? 現実に救いなどないとやはり説教を垂れているのか? いい加減にしてくれよ。誰が説教を求めて本を買うのだ。誰が自戒のために本を読むのだ。あなたは何のためにモノを書くの? 誰のために、誰を想ってモノを書くの? 今のままじゃあただの自慰行為。あなた自身を慰むるためだけに存在する一冊のキモキモしい本が出来上がるだけだよ。やはりボツ、廃棄、駄作、校閲の価値なし、またもや振り出しに戻る。シーユー。

原稿をビリビリに破り捨てる都。

鄙   はーい。
都   やっぱりあなたの返事はいつもと変わらぬ空返事。本当に分かっているのかだなんて、分かったもんじゃない。いつまで経っても「お利口さん」。
鄙   では私から、一言もの申しても良いかな。
都   うむ、申してみい。
鄙   私はとても可愛い。
都   どうした急に。
鄙   私はとても可愛い。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは正義、可愛いは理。可愛いは絶対の権利。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは全てを許される。可愛いは全てに許される。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   そう。私はとても可愛い。そんな私の書く作品は。
都   否定の余地なく素晴らしい。
鄙   その通り。それが真偽に左右されぬ正義。私の描く作品の持つ、絶対の正義。
都   はーい。
鄙   心のこもった空返事、どうもありがとう。その声が、また私を生き永らえらせる。
都   はーい。
鄙   ということで、今回の原稿、校閲は?
都   一切ありません、このまま出版です。はーい。
鄙   はーい、ということで本日の業務はこれにてお終い。はーい。
都   はーい。

【10】

鄙   よし、じゃあ始めましょうか。
都   始めるって、何を?
鄙   決まってるでしょ、恋人らしいこと。
都   恋人らしいこと。
鄙   そう。
都   それって、どんなこと?
鄙   そうね、たとえば。
都   たとえば。
鄙   (都の目を隠す)こうして、相手の視界から自分の姿を消す、とか。
都   ……なんで?
鄙   なんでも。
都   ……あれ? どこ行った?
鄙   ここにいるよ!
都   どこに行ったの?
鄙   (都の目を開放して)ここにいるよ!
都   わー! びっくりしたー!
鄙   (再び都の目を隠す)
都   あれ、あはは! またいなくなった!
鄙   (再び都の目を開放して)ここにいるよ!
都   わー! びっくりしたー!
鄙   びっくりした?
都   これ楽しい! 相手の姿がが出たり消えたりして楽しい!
鄙   楽しい?
都   楽しい!
鄙   やったぁ!
都   でも違うと思う。
鄙   あらそう?
都   なんていうかその、全体的に違うと思う。
鄙   恋人らしくない?
都   恋人らしくない。
鄙   そっか。
都   じゃあ、どんなこと? 恋人らしいこと。
鄙   そうね、たとえば。
都   たとえば。
鄙   こう、お互いの指先をちょんちょんってするの。
都   互いの指先を。
鄙   ちょんちょんって。
都   なんで?
鄙   なんでも。
都   ……あ、あはは! この、お互いの指先ちょんちょんってするやつ楽しい!
鄙   そうでしょ? このちょんちょんってするやつ、楽しいでしょ?
都   うん、このちょんちょんって指先するのが、すっごい楽しい! あはは。
鄙   楽しいね。指先ちょんちょんってするの楽しいね。
都   多分これも違うと思う。
鄙   多分これも違うね。
都   じゃあ、どんなこと? 恋人らしいことって、どんなこと?
鄙   そうね、たとえば。
都   たとえば。
鄙   一緒に跳ねよう、Let’s jumping, hopping!
都   いよいよ分からなくなってきたな。
鄙   こうだよ、こう。(マサイ族ばりのハイジャンプを披露する)
都   ……なんで?
鄙   なんでも!
都   (渋々マサイ族ばりのハイジャンプをする)……わ、わぁ! 高い!
鄙   高い、高いよ! すごいでしょ!
都   すごい、あはは! こんなに高いの、生まれて初めて!
鄙   もっと、もっと高く跳んでごらん!
都   もっと?
鄙   そう、もっと!
都   もっと!
鄙   もっと!
都   もっと!
鄙   もっと!
都   ほんとに合ってる?
鄙   分からない。
都   そもそも恋人って何だろう。
鄙   やってみれば分かるよきっと。
都   でも何をすればいいか分からないんでしょう?
鄙   うん、分からない。
都   じゃあ何のために付き合ってるの?
鄙   分からない。
都   分からない?
鄙   でも、好きだから。あなたのことが好きだから、付き合いたいって思うの。あなたのことを手に入れたいって思うの。
都   何それ。
鄙   分からない?
都   分からない。
鄙   じゃあ、分からせてあげるよ。
都   ねぇ!
鄙   何?
都   その前に、お手洗い、行ってもいい?
鄙   どうして?
都   そりゃ、出すもん出すためでしょ。
鄙   ふぅん。
都   行っていい?
鄙   どうぞ。
都   じゃ。

都、勢いよく扉を開け、閉める。

【11】

都   めんどくせえ! めちゃくちゃめんどくせえ! 何だよ、恋人らしいことって、知るわけねえだろ!そういうのはあんたの方が詳しいはずだろ! なんで知らねえんだよ! いやー、しんどいっすね。私のことを好きだと言ってくれたから、その顔がとても可愛かったから即決してしまったけれど、いざ付き合うとなるとさすがにきちー。あー、疲れる。なんだろう。なんかこう、精神的にというより、普通に肉体的に疲れる。運動してないのに筋肉痛とかすごいもん。あ、それはさっきのジャンプのせいか。ほーら、やっぱりあいつのせいじゃないか。彼女と付き合い始めてから、私の生活は狂っている。私の人生は私だけのものであるはずなのに、その全てを彼女と共有しなければならないだなんて、なんて窮屈。彼女がとても可愛くなければもしかしたら一発くらい殴ってたかもしんない。うん、さすがにそれはないか。暴力、ダメ絶対。なぁんてさんざ愚痴漏らしてたらスッキリしてきちゃった。

ボトンッ。

【12】

鄙   はー、幸せっ。私今、とっても幸せ。分かる? やっぱり、最近肌ツヤがいいもの。恋人がいると女は綺麗になるって、本当だったのね。だって、恋人のために綺麗になろうって思えるもの。元よりとても可愛い私がさらに磨きをかけてしまうだなんて、え、どうなっちゃうの? なんか、私のこと直視しちゃった人間全員目潰れちゃったりするんじゃないの? メドゥーサ的な。やだっ、罪な女。はー、幸せっ。私今、とっても幸せ。ほら、よく言うじゃない? 二人いれば悲しみ半分、幸せ二倍ってさ。あれ、本当なのよ。彼女と付き合い始めてから、私の人生は華やいでいる。人の人生とは自分という主役と他人というモブらによって構成されている。私たちは私たちという存在を共有することで真に幸福たり得る。なぁんて言っていたらなんだか人肌恋しくなってきちゃった。早く続きしてもーらおっと。ねぇ! もう出てきてもいいんじゃない!

【13】

鄙   (戸を叩く)
都   悪魔だ、悪魔が帰ってきた。
鄙   (戸を叩く)
都   まずは落ち着け深呼吸、大きく吸って、それを吐く。も一度吸って、も一度吐く。
鄙   (戸を叩く)
都   作り笑顔に、耳障りのいい文句、とても可愛い。……準備万端、行ける。
鄙   (戸を開け中に入ってくる)お早うございます!
都   ぎゃー! トイレの個室に入ってくるな、ド変態!
鄙   ぎゃー! だったら鍵を閉めておきなさい、お早うございます!
都   お早うございます!
鄙   お早うございます!
都   早速。
鄙   早速ね。
都   ただいまより、本日の業務を開始いたします!
鄙   ちゅー……、え、そっち?
都   え?
鄙   え、いや、うん。
都   そっちって、どっちだったの?
鄙   いや、なんでも。
都   うん。
鄙   うん。
都   …ただいまより、本日の業務を開始いたします!
鄙   ただいますでに、本日の業務完了しております!
都   素晴らしい。
鄙   そんな私は?
都   可愛らしい。
鄙   ざっつらい。
都   本日も、あなたの書いた小説を校閲、編集していきます。
鄙   本日も、私の書いた小説を校閲、編集していただきます。
都   拝見しましょう。
鄙   ご覧にいれます。
都   はいどーも。
鄙   はいどーぞ。

鄙   「どうして急に。」
トーストを口に運ぶ手を止める。突然の彼女の提案に空いた口が塞がらず、行儀悪くもそのトーストを皿上に落としてしまう。飛び散ったベリーソースが鮮血の如く卓上を彩る。
「何、入院早まった? 」
都   「そうじゃないんです。ただ、あ、ありがとうございます。」
鄙   慌てて駆けつけた若い男性ウエイトレスがベリーソースを丹念に拭き上げる。新品同様の輝きを放つその机からは甘いベリーの香りが漂っている。
「ただ?」
都   「その、多分、都合が合わなくなる、というか、なんというか……。」
鄙   彼女がここまで言葉に詰まることは非常に珍しい。開こうとすれば閉じ、閉じるかと思えばまた開くそのまごまごとした唇に私は、些かの苛立ちを覚える。
この頃夫の態度が急変した。どれだけ疲れていようが機嫌を損ねていようが私の要望には最大限応える努力を怠らなかった彼はどこへやら、最近では仕事から帰ると真っ直ぐソファへ体を埋めてしまう。少し帰りが遅くなったかと思えばその片手には大きなトイザらスの買い物袋を下げて帰ってくる。休日も家事をするか読書に耽るかで、私のことなどさっぱり目もくれない。最近のその私への態度について一度問い詰めようかとも思ったが、こちらから求めてしまえばそれは義務的な行為になってしまうような気がして、やはり止めてしまった。どうやら今彼の中の一番を占めているのは私ではないらしい。その事実は私の喉をきつく絞めた。それもあろうことか我が身に宿るこの小さな生命にその覇権を握られているのである。愛らしいながらに憎たらしい、存在こそすれど手の届かない、この矛盾に私は辟易し、困憊し、また憤怒の念に駆られていた。またその怒りの落とし所を見つけられずにいた。
そんな矢先、彼女は言い放った。私を、ある意味突き放す一言を、言ってしまった。その苛立ちの加速を止める術を若い私はまだ知らなかった。
「ねぇ、どうして? はっきり言ってくれないと私、分からない。読心術なんて心得てないもの。」
都   「お金が、ありません。」
鄙   決死ながらにその素っ頓狂な告白は私を再度唖然とさせるに十分すぎるものだった。
「なんだ、そんなこと。いいのに、お金出すよ。」
都   「そういうことじゃ、ないんです。」
鄙   「何が? 」
やはり要領を得ない。どこか答えを避けている節があるように感じる。彼女は元来本心をひた隠すような性分でないし、そもそもひた隠せるほどの能もない。おそらく、その不安は杞憂であろう。
「いいのいいの、気にしないで。お金なら私が出したげる。だから、そうね。次のお店探すのは任せるわ。これでおあいこってことにしましょ。うん。」
都   「でも。」
鄙   「確かに出産前ってお金なくなるよねー。動くのはしんどいけどご飯は食べなきゃだし、とはいえ適当なもの食べられないしさ。それに聞いてよ。最近ウチの夫ったら、まだ子供が産まれたわけでもないのにおもちゃやらなんやら色々買ってくるのよ。本当、どんだけ気が早いの、って話。私だってお腹重くて、しんどいんだからさ。私を労ってほしいものよねー。」
都   「そう、です、よね。ハハハ。」

【14】

都   チープ! なんてチープ、驚くほどチープ、挙句陳腐、サード! 何度言ったら理解するのかしら。芸術のことを芸術だと思ってる輩は一度死なないと分からないのかしらね。芸術とは、商業よ。作品には必ず作り手がいて、そして受け手がいる。それは購入であったり、あるいはただ鑑賞するのみであったり、差異はあれどそこに業者と顧客という関係性が成り立つ。だのにあなたは、あなたという人はいつまで経っても自分一人の世界に、殻に閉じこもったきりで、世間から目を背け続けている。芸能に生きる、だけなら結構。がしかし、芸能で生きるのならば話は別だよ。その目をかっ開いて世間を見渡し、需要と供給のグラフを理解なさい。さもないと……。
鄙   私はとても可愛い!
都   え? な、何? まだ講評の途中なのだけれど。
鄙   私はとても可愛い。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは正義、可愛いは理。可愛いは絶対の権利。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは全てを許される。可愛いは全てに許される。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   そう。私はとても可愛い。そんな私の書く作品は。
都   否定の余地なく素晴らしい。
鄙   その通り。それが真偽に左右されぬ正義。私の描く作品の持つ、絶対の正義。
都   はーい。
鄙   心のこもった空返事、ありがとう。初めからそう言っていればいいものを。
都   今日なんか機嫌悪い?
鄙   そんなことないでしょ。
都   そう?
鄙   そう。
都   そっか。
鄙   そんなことよりも。
都   そんなことよりも?
鄙   この前の続き。
都   続き?
鄙   そう、続き。……忘れちゃったの?
都   ……あぁ、あぁ。
鄙   そう、それ。
都   恋人らしいこと。
鄙   そう、恋人らしいこと。何かある?
都   私?
鄙   そう、あなた。
都   そうね、たとえば。
鄙   たとえば。
都   (鄙をおんぶする)……どう?
鄙   どう、と言われましても。
都   いまいち?
鄙   いまいちかも。
都   そっか。(鄙を下ろす)
鄙   恋人らしくは、ないかな。
都   恋人らしくは、ないね。
鄙   じゃあどんなこと?恋人らしいこと。
都   そうね、たとえば。
鄙   たとえば?
都   ……やっぱり分からないよ、私には。
鄙   分からない?
都   だって、初めてだもん。知らないよ。
鄙   じゃあ編み出して。とても可愛い私のために、考えてよ。恋人らしいこと。
都   ……。
鄙   頑張って。
都   ……そうね、たとえば。
鄙   たとえば。
都   (鄙にハグをする)
鄙   ……それがあなたの答え?
都   うん。精一杯の、答え。
鄙   そっか。
都   (鄙を開放しながら)ごめんね。
鄙   いいのよ。それより。
都   うん?
鄙   私が思うに、こういうことじゃないかしらと思うの。

鄙、都を押し倒す。

【15】

二人、並んで寝ている。
都が起き上がり、戸を開ける。そして閉める。

都   分からなくなってきた、分からなくなってしまった。私は、彼女のことをどう思っているのだろう。嫌いでは、ない。しかし好きかと問われれば、素直に頷くことのできない自分がいる。分からなくなってきた、分からなくなってしまった。私は彼女のことを好いているのかもしれない。ただ、彼女は私のものにならないのだろうという予感があるのだ。趣味は合うし、相性もいい。だのに、毎度衝突してしまうのはどうしてだろうか。考えが合わないのは何故なのだろうか。やっぱり、そこだけは受け入れられないのだ。譲れないのだ。木の根は決して動かぬように、私を形成する根幹の部分も変えることができない。寄り添いたくとも、能わない。そのジレンマに私はざわざわ揺れている。分からなくなってきた、分からなくなってしまった。

ボトンッ。

【16】

鄙、起き上がる。

鄙   分からなくなってきた、分からなくなってしまった。私は、彼女のことをどう思っているのだろう。私は彼女のことが好きだ。がしかし、そこはかとない嫌悪の念が渦巻き始めているのを感じる。分からなくなってきた、分からなくなってしまった。正直、うざいことはうざい。講評は長いし、否定ばかりで誉めやしないし、鬱陶しいこと極まりない。がしかし、その愛らしさは認めねばなるまい。彼女は確かに愛らしい。その見窄らしさゆえ、とてもじゃないほど愛らしい。のに…、どうしてこんなにも苛立つのでしょう。なぜ彼女の声に耳を傾けられないのでしょう。思想が、考えが、信念が合致しないことなど周知の事実、分かりきっているのに、分からない。いいや、分からないフリをしているだけなのかもしれない。でも、やっぱり今の私にそれを理解するだけの教養はないから、やっぱりそうなんだろうって、思う。分からなくなってきた、分からなくなってしまった。

【17】

鄙   (戸を叩く)
都   この音にも、もう慣れてしまいました。それが良いことなのか、悪いことなのか、真偽は定かではありませんが……。
鄙   (戸を叩く)
都   (深呼吸をする)
鄙   (戸を叩く)
都   (人差し指で笑顔を作り)とても可愛い。よし、行ける。
鄙   (戸を開け中に入ってくる)お早うございます!
都   お早うございます!
鄙   お、おぉ? おぉ。
都   ただいまより、本日の業務を開始いたします!
鄙   どうしたの? 今日、なんだかやる気満々だね。
都   私はいつだってやる気マックスORIXですよ。
鄙   ……は、はは。
都   いつものは、いかないの?
鄙   いつもの?
都   (手を鄙に向ける)
鄙   ……あ、あぁ。……ただいますでに、本日の業務完了しております。
都   素晴らしい。
鄙   では早速。
都   あれ?
鄙   ん?
都   聞かなくていいの?
鄙   もう、いいかなって。
都   いいや大事でしょ! ああいう日々の小さなコミュニケーションが信頼関係をより強固なものにしていくのでしょう?
鄙   あぁ、まぁ、そうね。
都   どうぞ?
鄙   ……そんな私は?
都   可愛らしい。
鄙   ざっつらい。
都   本日も、あなたの書いた小説を校閲、編集していきます。
鄙   本日も、私の書いた小説を校閲、編集していただきます。
都   拝見しましょう。
鄙   ご覧にいれます。
都   はいどーも。
鄙   はいどーぞ。

鄙   何度目の知らない天井だろうか。白い下地に黒い粒々の集合体が、おかしな頭痛を引き起こす。朝起きるとまず枕元に設置されてある袋に嘔吐することが、最近の日課だ。
「……疲れたなぁ……。」

都   チープ! なんてチープ、驚くほどチープ、挙句陳腐、インフィニティ! だから何度も言っているように…。
鄙   私はとても可愛い!
都   ……え? どうしたの急に。
鄙   私はとても可愛い。
都   いや、ちょっと待ってよ。私、まだ…。
鄙   私はとても可愛い。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは正義、可愛いは理。可愛いは絶対の権利。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   可愛いは全てを許される。可愛いは全てに許される。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   そう。私はとても可愛い。そんな私の書く作品は。
都   否定の余地なく素晴らしい。
鄙   その通り。それが真偽に左右されぬ正義。私の描く作品の持つ、絶対の正義。
都   はーい。
鄙   心のこもった空返事、ありがとう。もういい?
都   はーい……。
鄙   はい。
都   ……ねぇ。
鄙   何?
都   しないの?
鄙   何を。
都   決まってるでしょ、恋人らしいこと。
鄙   しない。
都   しないの? どうして。
鄙   したいの?
都   ……そりゃしたいよ。だって、付き合ってるんだもの。
鄙   (ため息をつきながら都をハグする。すぐに解く)
都   ……うん。
鄙   いってらっしゃい。
都   ……いってきます。

都、扉を開け、そして閉める。

【18】

都   どうして、どうしてどうして、どうして。どうして彼女は私を見なくなってしまったのだろう。どうして彼女は私に働く余地を与えてくれなくなったのだろう。私は、変わったよ。私は、努力をしたよ。なのにどうして、どうしてなの? 何も分からない、だから私はあなたに問うことしかできない。あなたに沿いたいのに、どうして。どうして私から離れるの? 独りにしないでよ、私を捨てないでよ。暗いのはいや、狭いのも嫌なの。寒いのはもうこりごり、だから、捨てないで、ねぇ。私、あなたのことが好きだよ。

ドボンッ。

【19】

鄙   飽きちゃった。つまんなくなっちゃった。彼女と一緒にいても、面白くないんだもの。言葉ではとても可愛い、だなんて嘯くけれど、本当に思ってるのかどうかなんて分かったもんじゃない。恋人っぽいことも、恋人事も下手だしさ。以前の愛らしさも気づけば、大分薄れてしまった気がするの。同じことしか言わないし、こっちが少しでも引いたら鬱陶しいほどに詰めてくるし、すごいストレス。あれだけ世間がどうだ読者がどうだ講釈垂れておいて、一番自分勝手なのは誰なのよ、って話。一番利己的なのは自分自身でしょうが。自己分析の十分でない人、あるいは正確に行えない人、私苦手なのよね。うん、そうだよ。……ねぇ、私、あなたのこと嫌いになっちゃったみたい。

都、いつまで経っても開かない戸に痺れを切らし、自ら戸を開ける。
鄙と目が合う。

【20】

都   その時、お腹の底がぐるぐると痛むのを感じました。生まれて初めて感じるそれの正体が「殺意」であると知るのはそう遠くない話です。とにかく、気がついた時には私の両の手のひらには彼女の喉がありました。私はひどく焦りました。と同時に、私は自分がひどく笑顔でいることを分かっておきながら、それを抑える術を持ちませんでした。
鄙   (喉を絞められたような声で、原稿を差し出しながら)私を殺す前に、これを読んで。この物語を、読んでほしいの。
都   彼女は何かを言っていたらしいけれど、私の耳には何も入ってはきませんでした。私は自分のことで精一杯でした。
鄙   これは私の物語。私の、母の物語。

【21】

鄙   母はとても美しかった。容姿端麗、才色兼備、愛されるとはまったく母のために用意された言葉であった。刹那のサラリーマン時代を経てある男と結婚、若くして専業主婦に転身し、あまつさえ子供にまで恵まれた。世間は常々母に
「人一倍努力されてきたんでしょう? そうでしょうねぇ。何を言わずとも分かりますとも、今のあなたのその地位が今までの苦労を物語るわ。あーあ、羨ましー。」
などと宣ったが、見当違いも甚だしい。母が幸せを掴むことができた理由など明々白々、そう、母
はとても美しかった。その生まれ持った容姿、顔面こそが幸福の秘訣、泥臭い努力など微塵もしてこなかった。不条理かな、しかしそれが社会の仕組みというものである。ひどい言い草? まったくその通り。しかし、母はあらゆる行いにおいてその全てを許された。理由だなんて、もうお分かりなんでしょう? そう、母はとても美しかった!
都   諸行無常、その美しさはついぞ永遠のものにはならなかった。彼女は子を身籠った。途端、夫の愛は子へ向くようになり、母はその存在を蔑ろにされるようになった。母は子を恨んだ。と同時に、こよなく子を愛していた。たとえ自らの愛を奪った存在とはいえ、この世にたった一人の我が子。心の底から恨むことなどできようはずもなかった。出産予定日が近づくたびその胎動は次第に大きくなり、対して母は目に見えて衰弱していった。それでも母は、子を愛そうとした。子を愛そうと努力した。努力ゆえの愛が果たして真に愛たり得るのかどうかという話は一旦別として…。

産声。

都   子が誕生した。彼女は名を鄙という。張り裂けんばかりの産声と共に誕生した彼女の容姿とは誰の目に見ても可愛かった。
鄙   そう、あなたはとても可愛い。
都   可愛いは正義、可愛いは理。可愛いは絶対の権利。
鄙   そう、あなたはとても可愛い。
都   可愛いは全てを許される。可愛いは全てに許される。
鄙   そう、あなたはとても可愛い。
都   そう、あなたはとても可愛い。
鄙   我が股ぐらより出でしあなたは、誰の目に見ても可愛かった。そして、私は彼女に全てを奪われたその理由を知った。彼女はとても可愛かった。可愛いは正義、可愛いは理。可愛いは絶対の権利。美しさが可愛さに敵おうはずもなかったのだ。そして今の私は、とてもじゃないほど見窄らしかった。私は彼女を愛したかった。私は彼女を愛そうとした。けれど……、私には無理だった。

都の両手が鄙の喉元にさしかかり、その力を強くする。

鄙   私は彼女を恨んでいた。それはもう恨んでいた。腹の底にぐるぐると居座るそれの正体を「殺意」であると自覚した上で、私は彼女の喉元に手をかけた。彼女の声はだんだんと大きくなった。耳障りだった。だから一層力を込めた。

産声が止む。

鄙   彼女は泣くことをやめた。しんとした病室に独り、私は佇んだ。物言わぬ傀儡を床に捨て、私はその場を去った。私は再びその美しさを取り戻した。私は再び一番になった。前にも、後ろにも人はいない。世界に一つだけの花、オンリーワンに私はなったのだ。

グチャッ。

【22】

三角座りをする鄙。
都が現れる。

都   お早うございます! ……あれ、返事が聞こえないなぁ、もう一度。……お早うございます! ……ふん、いないのかしらね。ならいいか、ここで待とうか……、ぎゃー! びっくりした。いるんじゃない。いるんなら返事をしてよ、先に言ったのはそっちでしょ、お早うございます! ……ちぇ、まぁいいか。原稿さえできていればいいわ、どれどれ……、あれ。これ、白紙じゃない。何、ただいま未だに業務完了していないの? まったく、物言わぬ傀儡になったとて働きなさい! それはもう馬車馬の如く働きなさい! 人間は生まれながらにして義務を背負う、教育、納税、それから勤労。働かざる者食うべからずとはよく言ったものだ。あんたに言ってるんだぞー。……はぁ、まぁ気長に待つよ、あなたの原稿を読んで。

床に落ちている鄙の書いた原稿を読む。

都   ……何も書いていない。これも、これも、これも。何も書かれていない、白紙の原稿ばかりが床に散らばっている。どういうこと? 原稿はどこにやったの? 今までの原稿は、あなたの書いた素晴らしい原稿たちをいったいどこへやったと言うの? 出しなさいよ、ねぇ。それともなに、盗られた? 誰がしかに盗られたのかしら? なるほどそういうことね、あなたたち、さっさと盗った原稿出しなさいよ!

静寂でいる。

都   ねぇ、原稿はどこ? あなたの原稿はどこにあるの? ねぇ、書いてなかったの? 今まであなたはなにも書いていなかったの? 原稿なんてもの存在してなかったと言うの? だったら、あなたは今まで働いていなかったってこと? 私も、なんの業務も開始されておらず、なんの業務も完了されていなかったってこと? どういうこと? 分からないよ、何も分かりやしないよ。分かってたまるか、分かってたまるかよ、何も!
鄙   この世の誰も真に物語なんて書いてやしない。全てはその人という存在の集まり、集合。その人の生きてきた道程を遠巻きに遠回りに描いているだけ。だから、あなたが今まで読んできた小説は私が書いたものでも、もちろんあなたが書いたものでも、誰が書いたものでもない。あなたと、私のその人生。そのフラッシュバック、バックボーン。

【23】

都   母は貧しかった。貧乏金無し、艱難辛苦、哀れとはまったく彼女のために用意された言葉であった。平凡な大学に平凡な成績で入学し平凡な四年間を終えたのち、地元の中小企業に就職、鳴かず飛ばずの営業成績を奮い、齢三二の時に冴えない男と結婚をした。中の下という生活の末、ようやっと子供をこさえた。母は満足のいかぬ暮らしの中でも決して音を上げす懸命に生きた。いつか幸せに生きるため、ただそのためだけに必死に生きた。人は常々彼女に
鄙   あなた、大変努力してるもの。いつかきっと全てが上手くいくわ。大丈夫、きっとよ。
都   などと吹聴した。母はその嘘言を遮二無二に信じた。母にとってはそんな嘘言も信じるしかなかったし、それだけ幸せというものに必死だった。母は私を愛していた。貧しい中に生きながらもたった一つの奇跡である私をこよなく愛した。だから私は、当然祝福の中この世に産まれ落ちるはずだった。産まれ落ちるべきだったのだ。しかし不幸なことに、彼女は哀れだった。それはとても哀れだった。

【24】

鄙   会社、辞めることにしたから。
都   ……は?
鄙   聞こえなかった? 会社、辞めることにしたから。
都   待って、待って待って待って。どういうこと?
鄙   ん? 分からない? 会社を、辞めることに、したの。
都   分かるよ、それは分かってる、何度も言わないで。急にどうして。
鄙   小説でも書こうかと思って。
都   小説……?
鄙   知ってるか? 昨今活字離れだなんだと騒がれちゃいるが、何も小説という文化自体が完全に衰退したわけじゃない。もちろん全盛と比べれば少々の衰えはあるかもしれないが、小説業界がその流れを黙って見過ごすわけがないだろう。最近じゃ小規模の賞レースを幾らか行っているところが結構あるらしいんだ。ほら、ここなんか優秀賞でも五十万、最優秀なんて三百万だ。当たるぜこりゃ。
都   当たるぜ、って……、ちょっと待ってよ、その前に話さなきゃならないことがあるでしょう?
鄙   何?
都   会社、辞めるって。
鄙   うん? だから、辞めるって。
都   辞表はいつ出す予定なの?
鄙   今日もう出してきた。
都   今日!
鄙   びっくりした、急に大きな声出さないでよ。
都   そりゃ大きな声も出すよ。そんな急に、何? もしかして会社で何かあったの?
鄙   いや、なんも。
都   なんもって?
鄙   だから、なんも。なんもなかったから、辞めた。それだけ。
都   ちょっと、あまりに説明不足すぎるよ、もうちょっと詳しく話して。ゆっくりでいいから。
鄙   ゆっくりだなんて、そんな。話すこともないんだけれど。そうさなぁ……、幸せになるため?
都   幸せになるためだなんてそんな、今でも十分すぎるくらい幸せだよ。
鄙   嘘つき。
都   嘘?
鄙   なぁ、昔っから二人で話しただろう? 二人で頑張って、幸せになろうって。貧しい人生送ってきた俺たちだからこそ、将来は大成しようってさ。その時が今なんだよ、なぁ。最近じゃウチも株は右肩下がり、以前に増してリストラもやられてる。それが今度は俺かもしれない。ここらが潮時なんだよ。な?
都   分からないじゃん。
鄙   分かるよ。俺だってただ呆けて社会人やってたわけじゃないんだ。お前より多少の知識はある。それに、実質退職になるのは再来月末で、それまでは有休消化に充てるつもりさ。退職金も入るだろう。あぁ、社宅には住めなくなるから、新しい家探しもだな。
都   この子は?
鄙   ん?
都   この子はどうするの? 出産から入院にかかる費用、それに産まれてからの養育費だって、これから何百万ってお金が要るんだよ?
鄙   それまでには職にするさ。大変になるぞー。
都   職にならなかったら?
鄙   大丈夫だって。最近じゃそういう物書きへの奨励とかあるみたいだぞ。
都   今の職の傍らで、とかじゃだめなの? 今からでもきっと間に合うよ。
鄙   働きながらだなんて、そんな甘い世界じゃないだろう。
都   あなたが小説の世界の何を知ってるって言うのよ!
鄙   そりゃ、何も知らないけど、これから嫌でも知る羽目になるんだ。いいだろうよそんなこと。
都   そんなことって、そんな。
鄙   何を心配することがある。
都   心配もするよ、だって人一人の生命がかかってるんだから!
鄙   ……辛いことを言うようだけどさ、俺は、俺たち二人で幸せになりたいんだ。俺たち二人で歩んで行きたいんだ。正直に言っちゃうとね。
都   ……何言ってんの?
鄙   君が大切だって言ってるんだよ。積極的にそうしようって言うんじゃないけれど、選択肢としてはあるよっていう。
都   何考えてるの、信じられない。
鄙   俺たちは俺たちの人生を生きているんだ。別の人間なんかにそれを邪魔される筋合いはないだろう。それがたとえ、自分の子供だったとしても。

都、鄙を殴る。

都   ……最っ低。……とは言えこの後この問題はすんなり解決、されるはずもなく、むしろ夫の行動は過激に、私の境遇は過酷なものとなっていった。時は二月下旬、付近にあるのはすでに締結済みの家ばかり、そんな中から辛うじて発見した訳アリ優良物件。壁は薄いわ線路は近いわ、ステータスとしては下の下の下、家賃が安いこと以外取り柄のない家に住むことになったのだが、そんなことはどうだっていい。夫は新居に引っ越すや否や小説家デビューに向けて本格始動、パソコンやら何やら無駄に高そうなものを買い揃えたりした。挙句書斎を要塞化し朝から晩まで篭りっきり、食事の時にすら顔を出さない始末である。さすがの私も身重ゆえ、活動には限界がある。一度倒れてしまってからは家事に私のお世話と様々、手伝ってくれるようになった。のだが、夫が家事に精を出し始めたということは、小説家業が疎かになり始めたということ。そもそも収入は雀の涙であるに関わらず、それすらなくなってしまったとあっては、とうとう切り崩されていく我が家の貯金。いつの日か港区に家を建てよう、だなんて夢見て貯めてたウン百万、湯水の如く切り崩されていく。私は選択を強いられることになった。それは非常に単純明快で、正解など死んでも出ないであろう難題。それでも私は決めなければならなかった。そして私は、選択した。貧乏金無し、艱難辛苦、哀れという言葉のために生まれた私は、一人で生きる術を持たなかった。一人では、生きていけなかった。

都、戸を開け、そして閉める。

【25】

産声。

都   う、う、産まれるー! ……ひっひっふー。ひっひっふー。……ぎゃーぎゃーうるさい! 静かに、静かにしてちょうだい! ……もうすでに二分の一、いや三分の二くらいは出てきてるんです、さようならー? ……あ、う、産まれるー!

ボトンッ。

都   ……私は産み落としました。出来損ないだった私が必死に、懸命になって集めたそれをたった今、自らの手で産み落としました。これからそれは荒波に揉まれ大海を知り、そして風の前の塵となって消えてゆくのでしょう。それはどんな姿で、どんな色で、どんな形だったのでしょうか。もう私はそれらを知る術を持ちません。しかしその産声だけは、確かに私の耳に残っています。今日この日から死ぬ日まで、私は未来永劫あなたのその産声を忘れません。いいえ、忘れてやるものですか。だって私は、あなたをこの世に産み落とした、たった一人の母親なのだから。

都   ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい……。私の愛しい、都。

トイレを流す音。
産声が遠くなる。

【26】

三角座りをする都。
鄙が現れる。

鄙   可愛い私が三度登場! きゅぴーん。いいのよ、撫でくり回して愛してくれても。
都   ……。
鄙   ずっきゅーん! なんだあの見窄らしい生き物は。濡れた瞳によだつ肩。ロートレックの描く娼婦の如く、下卑たエロスを身に纏い、丸くうなだれる背面が私の心を掻き乱す、彼女はなんだ。どうしてこうまで私の興味を惹きつける、どうしてこうまで私の瞳を離さないのだ。その愛らしさの源はなんだ? 解明させてちょうだい、あなたという存在を!
都   ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん! ……可愛いがすぎる……。そうか、そうなのね、委細承知。たった今全てを理解したわ。私は、謝って欲しかったのね。ただ謝って欲しかっただけなのね。この世の誰より見窄らしい存在となったお母さんに、ちゃんと頭を下げて謝って欲しかったんだわ。そうなのよ、そうなんでしょう?
都   ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん! ……分かった、ようやっと私は自分自身を理解できた気がする。私は、恋人が欲しかったわけじゃない。私は、私の、私にとっての母親が欲しかったんだわ。ねぇ、お母さん……。
都   ごめんなさい。
鄙   ずっきゅーん!

鄙、都を抱きしめる。

鄙   いいのよ、もう謝らなくたっていいの。いいのよ、私は、私だけはあなたの側にいてあげる。もう片時もあなたから離れたりなんかしない。私たちはニコイチ、一心同体、運命共同体。可哀想な子、可哀想な子なの……。

【27】

朝、都が起床する。「お早うございます! 」と声を上げる。それに続いて鄙が起床する。鄙もまた「お早うございます! 」と声を上げる。
都は外出をし、鄙はじっとあなたを見つめている。その瞳は微動だにしない。
都が帰ってくる。二人は抱擁し、そして眠りにつく。
また朝が来て、都が起床する。続いて鄙が起床する。
そして同じ日常が繰り返される。何も変わらない、全く同じ日々。
ある日の夜、救急車のサイレン。

【28】

朝、都が起床する。鄙はいない。
都はそこに誰もいないことに対し些かの違和感を抱くも、その正体に気づけない。
都は立ち上がり、顔を洗う。
うがいをし顔を拭き、そして戸を開け、そして閉める。
都、嘔吐する。

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