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スピンオフ#01-04「分岐点」

往復書簡が好き。
ひとりで書く文章の間とは違った、ふたりの空気感や行き交う愛情や思いやりが伝わってきて、ひとりで書く文章にはない暖かさを感じる。

10年ほど前、私もブログで往復書簡をやったことがあったが、相手から往復書簡だけでなく友だちもやめたいと言われた。
「あなたのことは嫌いじゃないのに、あなたといると自分のことが嫌いになる。自分では自覚していないと思うけど、あなたばかり得しているように見える。みんながあなたばかりちやほやして、一緒にいるとみじめになる」と。

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のびたまごさんとそうあゆみさんの往復書簡「あゆむ・のびる・めぐる」でスピンオフ企画が行われているので、参加させていただこうと思う。
お二方とも文章が深くて言葉のセンスもステキで、自分の思慮とボキャブラリーのなさが恥ずかしくなるが、ここはもう勢いで。

#01-04「分岐点」

私にとっての分岐点は、2016年の10月、そして2020年の10月。

2016年、当時一歳になったばかりの娘をひとりで育てていくことを決めた。
毎日毎日わけがわからない理由で怒鳴られ続け、子育て中の寝不足や妊娠中から続く頭痛も相まり、当時住んでいた13階のマンションから飛び降りることしか考えられなくなっていた。
娘を一緒に連れて逝くことはできず、でも私がいなかったらこの子は生きられない。子どもが18歳になって、自分のことができるようになって母親がいらなくなるまでがんばろう。それまで生きようと思っていたはずなのに、その目標が15歳になり、12歳になり、最後は当時話題になっていた本の影響で「はなちゃんもお味噌汁作ってた」からと娘の5歳の誕生日まで目標が下がった。

当時上司だった弁護士が連日心配して連絡をくれた。最初は証拠がとれたらとか、必要なものをまとめておいてというアドバイスだったが、最後は「お金も書類も後からどうにでもなるから。とにかく自分が動けなくなる前に子どもだけ連れて逃げろ」と言われた。
初めて自分から相談した相手は妹で、「正常な判断ができなくなってからじゃ娘がかわいそうだから、正常な判断ができるうちに今すぐ逃げて」と言って、親への説明等を全部代わってくれた。
実家に帰った私に、父は「うちはいつまでいても、ずっといてくれてもいい」とだけ言って、娘の大学卒業までの学費を準備してくれた。

そして2020年10月、両親との安泰な同居をやめ、娘と二人暮らしを始めた。
自分で家賃を負担して一人暮らしをしたこともなく、身体も弱く、それなのに人に頼るのが苦手な私が、アレルギー児の娘の食事を全部手作りしながら生活できるのかとても不安だったが、二人暮らしを機に娘はびっくりするほどよくしゃべるようになり、今まで出してこなかったやんちゃな側面も顔を出すようになり、私も少なからず人に頼ることができるようになった。生活に余裕がないなりに花をかざったり、自分には必要ないと手放してきた本をまた集めるようになったり、自分の好きなもの、自分の好きな自分を取り戻す機会になった。

どちらも、透きとおるような青空の日だった。

今6歳の娘を育てていて思うこと。
私は娘が5歳になれば母親がいなくても生きていけると無理やり思いこもうとしていたが、私自身が38歳の今、母親がいなくなって大丈夫だなんて微塵も思えない。
その気持ちは、いくつになっても、自分がおばあちゃんになっても、きっと変わらない。母親がいなくて大丈夫な年齢は、きっと私にはこない。

娘の5歳の誕生日までを目標に生きていた頃の自分にとって、今の私はモラトリアムの世界にいる。

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