推しを公言すること

 私自身は中途半端なヲタクで、ニコニコ動画(仮)の頃からのユーザーだけど、声優も歌い手もボカロもアニメも実はほとんど履修していない。ちなみに「陽キャ」と呼ばれるタイプでもない。その証拠に小学生以降海に行ったことがない。(陽キャの方々が夏にはとりあえず海で遊ぶ、というのは偏見だろうか)

 先日Twitterのフォロワーさんが、推しキャラを並べて披露していた。一貫性があって、どんなキャラクターが好きなのか一目瞭然の結果に、素直に羨ましいと思った。好きなキャラを複数挙げられるだけ熱中したコンテンツがあることは、素直にいいことだと思った。

 そういえば、最後に熱中したコンテンツはなんだっただろうか。中学生の頃はCLAMPには熱狂していて、「CLAMP  in wonderland2」というイベントのチケットを必死で取りに行ったり、夜中3時ごろのラジオ(私の住んでいる地域は電波の入らない地域だったが、アンテナ線を持って窓際で大きく手を広げて立つとかろうじて内容が聞き取れたのだ)を必死で聞いていた記憶がある。

 その後だとGARNET CROWだろうか。 バイト代をはたいて1stライブのチケットを片手に一人で飛行機に乗り、SHIBUYA-AXまで向かった。 GIZA系列のフリーペーパーを目当てにCDショップへ足を運び、露出の少ない情報をひたすら漁っていた。

おそらく私の人格形成には、CLAMPの大川七瀬氏とGARNET CROWのAZUKI七氏が大きく影響を与えていると思う。

 では、その後にハマったものはなんだろう。 perfumeは好きだが、熱狂したか、ハマったかと考えるとそうでもない。モーニング娘。は愛の種からずっと追っているけれど、どちらかというと分析対象といったイメージで一歩下がって見守っている気がする。AKBで推しと呼んでいたメンバーは知り合いの娘さんだからと言う理由だし、それ以外のほとんどのコンテンツは友人や恋人、元夫の影響だった気がする。最近の特撮ブームは息子の影響だし。

  CLAMPのcloverの装丁を抱きしめた時のような、GARNET CROW、Rhythmのイントロに震えた時のようなあの熱狂的な感覚はもう私にはできないことなのかと悲しくなる。熱中するだけの体力がないのだ。熱中して、周りに布教できるだけの自信がないのだ。もしくは人格に影響を与えさせるほどの余白が私に残っていないのかもしれない。これが老いなのだろうか。

 そんな心が衰えていく私だったが、 noteを休止していた期間に変化があった。とある配信者さんの推しであることを公言してみたのである。(Youtuber…?Vtuber…ではない。実写ではあるけれど、私を含む視聴者が知っているのはスキンヘッドの後ろ姿だけである。こういった場合なんと呼べばいいのだろうか。)この方の動画を見ていることは、特に公言する気はなかったのだが、なんとなくつぶやいてみたら同じ配信者さんのフォロワーが増えた。そしてその配信者さんの話題がTLに溢れるようになった。

 脳内で、どこが好きなのか、どこに惹かれたのか再検討する。例えが悪すぎるが、今朝TVで見た牛の反芻のようである。誰かのツイートに、私もこの配信者さんが好きです、とリプライしてみる。フォロワーさんと私の二者間での反芻もはじまる。ああ、例えがやっぱり良くない。反響とかリフレインとかにしておこうか。その反響を再度受け止めて、この配信者さんがやっぱり好きだな、推しだな、と再確認する。応援したいなと思う。応援してもらっているなと思う。札幌ドームツアーのために必死で仕事して休みをとっていた同僚たちの様子を思い出したり、その気持ちがわかるな、と思う。

 やっぱり10代の頃の推しへの熱狂とは少し違っている。もっと穏やかなものではあるけれど、「推しです」という言葉が新しい世界を広げてくれたようで、その効果をじっくりと噛み締めているところだ。


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