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ポスペのモモちゃんになりたい人生だった

 20代残りわずかという頃に、突然ピンク色ブームがやってきた。それも桜色とか桃色とか優しいものではなく、ポストペットのモモちゃんのような、どぎついショッキングピンク色にハマったのだ。職場で使う文房具も、かばんの中身も全部ピンク色になった。文具沼にも片足突っ込んでいた頃なので、LAMY2009年限定色のピンクを愛用していたのをよく覚えている。
 
 私がそれ以前にピンク色を抱きしめていたのは、1985年に放送された電撃戦隊チェンジマンの時代に遡る。チェンジマンは男性3人、女性2人の戦隊ヒーローだ。同じマンションに住んでいた子どもたちは年の差こそあったが、ちょうど男子3人、女子2人だったので、いつもチェンジマンごっこをしていたらしい。

 そこでなんと、一番年下の私は一つ年上のピンク大好きユカちゃんからピンク色の「チェンジフェニックス」役を譲ってもらったのだ!我々5人の悪ガキはチェンジマンになり切ってご近所の平和を守っていたらしい。(その後レッドとブラックが隣のお宅のヒマワリを引っこ抜いて、マンション敷地内を守るヒーローに再定義された)。私は年上のユカちゃんが年下の私に好きな色を譲ってなんて優しいんだと思っていたし、母親からもそのように聞かされていた。

 その後、弟と妹が生まれた。弟と妹とは少し年が離れていたため、新生児のころからよく記憶に残っている。私にとって大切な妹弟だった。そんなある日、母が子どもたち3人におそろいのマフラーを編んでくれたのだ。おそらく弟と妹が幼稚園児、私が小学生だったはずだ。弟には水色、妹にはピンク、そして私には赤いマフラーだった。

ユカちゃん同様、私もピンクをゆずる日が来てしまった。

 私は多分がっかりしたのだろう、30年たっても記憶に残っているのだから。母はマフラーを作ったことさえ忘れていた。その後私自身もピンクのことはすっかり忘れてしまい、私にとっての好きな色は紫、水色、緑と変遷していった。
 
 ところがある日突然、20年間我慢したピンクの世界の幕が開いた。三十路を目前に控えた女子(敢えて女子と書こう)に怖いものはない。むしろ開き直っている。職場の裏ボスのようなおばさまに「いい年してどうかと思う」と言われるレベルで持ち物がピンクに染まっていった。

 持ち物の色が統一されていると意外といいこともあって、まずペンをどこかに置きっぱなしにしても必ず誰かが持ってきてくれる。職場は私の帰宅後にアルバイトさんが私の席を使うこともあり、勝手に引き出しやペン立ての共用備品の文房具を使う(それは構わない)うちに、少しずつ備品が減っていくのが当たり前になってしまっていたのだが、ピンク色のどぎつい付箋をひと巻した共用文具がひと巻きしてあるだけで結界か護符かというレベルで共用備品の紛失がなくなった。鞄の内布が黒系でも、ピンクの中身は非常に目立つ。忘れ物も減った。探し物も減った。気持ちも若々しくなった。ピンクは可愛いのだ。可愛いは正義だ。
 
 パーソナルカラー診断を受けて、ピンクブームが去るまで全く気が付いていなかったのだが、ピンクブームが開幕したのは、妹が就職し自宅を出た年だった。

 私が集めていたピンクの文房具たちは、あのピンクのマフラーの代わりだったのだと思う。別に一人っ子だった時代にピンクが大好きだったエピソードは見当たらないのだが、ピンク色を譲ることが姉として我慢することの象徴になっていた気がする。小さい頃はちょっとだけ周りより賢くて、ちょっとだけ周りより体も大きかった分、我慢する必要もないし、我慢してほしいと言われていないところで変に気をまわしてしまい、勝手に辛い思いをする悪い癖があった。私にとってピンク色を身に着けることが、わがままを言える、自分が好きなように選択できる、人に文句を言わせないといった意味だったのだろう。
 
 いや、今でも要望や希望、HELPをなかなか言い出せずに破綻しかけるところは変わってないな。と,ここまで一気に文章を書いて自嘲気味に笑ってしまった。
 

 ーーー
 
 電撃戦隊チェンジマンに登場するピンクのヒーロー、チェンジフェニックスは末っ子ポジションで、敵に捕まったり、足手まといになるシーンが多々あったらしい。一つ年上のユカちゃんはそれを察して、活躍シーンの多い白いヒーロー、チェンジマーメイドを選び、私にはピンクを譲ってくれていたのが事の真相である。マンション敷地内の平和を守るチェンジマンたちの親御さんたちは「年齢が一つ違うだけでキャラクターの活躍度を判断できるほど賢くなるのか」と感心していたことを追記しておく。

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