見出し画像

ギリシア神話を作ったギリシア人

新石器時代はギリシア北部、マケドニア地方の平原で農業がおこなわれていた。青銅器時代に、アカイア人がギリシア南部へ移動。ヘレディック文化を形成。イオニア人、アイオリス人などに分化し、エーゲ海の対岸へひろがった。アカイア人の一部のミケーネ人は、南エーゲ海に進出し、ミノア文明を吸収しながら、ミケーネ文明を発展させた。紀元前1300年ころから、海の民の襲来で衰退をみせはじめたが、紀元前1260年から紀元前1250年ころ総力をあげて小アジアに遠征しトロイアを滅ぼした。
その後、アテネなどを例外として王宮は炎上し、諸王国は次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅した。
海の民は、侵入地に定着し、そこで新天地を切りくという地道な生き方を選ばず彗星のごとく去っていった。
 荒廃した地に、西北系方言を使うドーリア人が、南下してきた。彼らはギリシア本土のペロポネソス半島に広がり(スパルタを形成)、さらにクレタ島やロードス島、小アジアの一部にも定着した。ドーリア人は、アジアのミタンニやヒッタイト人が使用を開始した鉄器を携えてきたので、彼らの定着によってギリシアも青銅器時代から鉄器時代に移行した。 しかし、アッティカ地方ではドーリア人は定住せず、それ以前からこの地に定住していたイオニア人が文化伝統を継承していた。
 そのころ、東からギリシアにブドウがもたらされ、オリーブの栽培も始まり、同時に文字ももたらされ暗黒時代は終焉を迎える。ぶどう酒とオリーブオイルを交易品としてギリシアは徐々に発展した。
 ドーリア人が定住しなかった、オリンポス、テルフィ、テーベ、アテネに、信仰の拠点が残り、デルフォイの神託やオリンピアの祭典はギリシア人共通の文化として一つの世界=古代ギリシア文明が作り上げられた。

このことから、ギリシア神話は、アカイア人が作り出したもので、特にミケーネ文明を中心に海の民に滅ぼされる直前のトロイア戦争までの話が基礎となり、ドーリア人が通過した地域で受け継がれて、ギリシア古典期を迎えたものと考えられる。

古代ギリシア人を構成していた主要な民族集団としては、アカイア人、イオニア人、アイオリス人、ドーリア人といった種族の名前が挙げられることになりますが、 こうしたアカイア人、イオニア人、アイオリス人、ドーリア人と呼ばれる古代ギリシア人を構成する四つの民族集団

前7000年(新石器時代)
初期農耕文化の広がる北バルカン半島北方の内陸部と密接な関係を持ち、豊富な水と肥沃な土壌が存在する地域であるギリシア北方が先進地域で、テッサリアやマケドニアの平野で初期農耕が行われた。

前3200年から3000年頃;青銅器時代
新石器時代に中心を成してきたギリシア北部からギリシア南部へと文化の中心が移動している。

ギリシア人の第一次移動
 古代ギリシア人は、もともとインド=ヨーロッパ語族に属し、中央アジアから南ロシアにかけての一帯を祖地としていたが、インド=ヨーロッパ語族の多くが西に移動を開始したとき、その一派がバルカン半島を南下して、紀元前2000年紀初頭、ギリシア本土に定住するようになった。この時の民族移動をギリシア人の第一次民族移動といい、ギリシア本土に定住した人々がアカイア人であった。(ただし、現在ではギリシア人のバルカン半島への南下は紀元前3000年紀(前3000年~前2000年)までさかのぼると考えられている。その後、ギリシア本土からエーゲ海域に拡がるうち、方言の違いによって、イオニア人、アイオリス人などに分化した。

初期青銅器時代はギリシア本土、クレタ島、キクラデス諸島の各地域での三時期区分による編年が確立している。
 ギリシア本土の青銅器文化はヘラディック文化、クレタのものはミノア文化、キクラデス諸島のものはキクラデス文化と呼ばれる。
 この時代にギリシア本土とエーゲ海の島々では文化交流がが、クレタ島はこれらとの文化交流はなく、初期青銅器時代の後期にギリシア本土とエーゲ海に発生した破壊の波をクレタ島は逃れている。

中期青銅器時代;初期青銅器時代に発生した破壊の波を受けたギリシア本土及びエーゲ海の島々とクレタ島とでははっきりと違いが現れる。すなわち、ギリシア本土では文化的後退を示した。
 エーゲ海の島々はクレタ島の文化圏に呑み込まれてゆく。 クレタ島のクノッソス宮殿 一方でクレタ島ではミノア文明が栄え始めた。

後期青銅器時代に入った前1650年ごろ、ペロポネソス半島のミケーネに新たな文化が生まれる。これがいわゆるミケーネ文明で、その文化はペロポネソス半島にとどまらずギリシア中部にまで広がりを見せて行く。

それに対してクレタ島におけるミノア文明は独自の発展を続けて、繁栄を極めていたが突如としてそれは終焉を迎える。

アカイア人の一部であったミケーネ人は、紀元前15世紀にクレタ文明(ミノア文明)が栄えていたクレタ島に侵入してその文明を破壊し、クレタ文明の影響を受けながらミケーネ文明をギリシア本土に形成していった。

これにはミケーネ文明の侵略が想定されており、ミケーネ文明はその後、エーゲ海、シチリア島、キプロス島へと広がりを見せて行く。

ミケーネ諸王国は紀元前1300年ころから衰退の兆しをみせはじめ、また城壁を強化するなど、外部からの攻撃におびえるようになったらしい。しかし彼らは、紀元前1260年から紀元前1250年ころ総力をあげて小アジアに遠征しトロイアを滅ぼした。 この戦争はエーゲ海と黒海を結ぶ交易路をめぐる争いであったと推定されている。その後まもない紀元前1200年から紀元前1100年にかけて、アテネなどを例外として王宮は炎上し、諸王国は次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅した。

前1200年のカタストロフに襲われ、突如終焉を迎える。が、ミケーネ文明はすぐに死に絶えたわけではなく、その後の200年ほどその文化要素が残ったと考えられている。

「海の民」は北方からを襲い、重要な拠点をつぎつぎに攻め落としていく。しかし彼らは、略奪し、火を放って破壊のかぎりをつくしたものの、侵入地に定着し、そこで新しい天地を切り拓いていくという地道な生き方を選ばなかった。彗星のごとくきたり、去っていく。

紀元前13世紀末から紀元前12世紀初頭にかけて、東地中海沿岸地域に侵攻し、破壊・略奪を行ったとされる彼らは、バルカン半島からエーゲ海を経由して、アナトリア、そして最終的には、北アフリカに位置するエジプトのナイルデルタ地域にまで到達したことが知られている。単一の民族ではなく、複数の異民族によって構成された混成集団であったと考えられている彼ら「海の民」は・・・ヒッタイトやギリシアのエーゲ諸王国を滅ぼすなどなど強い力を保持していたとされているのである。・・・しかしながら、東地中海地域の名だたる国家を滅亡・崩壊へと導いた彼ら「海の民」ではあったが、エジプトでは敗北した。
「海の民」の活動がその要因として挙げられるようになっている。最近では、ティリンスの発掘で大規模な地震の痕跡が見つかったことから、ギリシアにおいては文字どおり大地震が「激震」の引き金になったのではないか、という見解も出されている。

ギリシア人の第2次移動 ここまでのギリシア人はギリシア語の東方方言を使う人々であった、これに対して、西北系方言を使うドーリア人が、紀元前1200年頃頃、ギリシアに南下してきた。これをギリシア人の第2次移動といっているが、彼らはギリシア本土のペロポネソス半島に広がり、さらにクレタ島やロードス島、小アジアの一部にも定着した。ドーリア人は南下の際、アジアのミタンニやヒッタイト人が使用を開始した鉄器を携えてきたので、彼らの定着によってギリシアも青銅器時代から鉄器時代に移行した。 しかし、アッティカ地方ではドーリア人は定住せず、それ以前からこの地に定住していたイオニア人が文化伝統を継承していた。


ドーリア人の一派のスパルタ人はペロポネソス半島のエウロタス河畔に居を定め、周辺を征服しながら、服従した人々をヘイロータイという奴隷身分か、ペリオイコイとよばれる半自由民(重い貢納の義務を負わされた小作農)としていった。

またそれぞれのポリスは利害が対立すれば戦い、隣保同盟を作ったが、デルフォイの神託やオリンピアの祭典はギリシア人共通の文化として一つの世界=古代ギリシア文明を作り上げた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?