引っ込み思案でも、言葉を紡げる者が、発信者となる
年はじめ。バタバタしていて端的に言って少し死にそうになっている。
あれ、今日って何日なんだったっけ…とカレンダーを見たら、4/11で、で、あー中学のときに好きだった人の誕生日だぁ、とエモくなったときにふと、去年の今頃って何をしていたっけ?と思った。
ツイッターを見てみると、そもそもアカウントを開設したのが3月で、なにも呟いていないころだった。
発信を、していなかったのだ。
とにかく毎日、仕事をこなすのに必死だった。
デザインを1ミリも知らないまま未経験でクリエイティブディレクターをやっていた私は、ひと通り仕事のやり方を覚えたのちに、大きな案件を任せてもらい、夜遅くまで作業をしていた。
ふと思い出したように昔から続けているブログを更新してみる。
やっぱり文章が好きだな、と思いながらも、誰が見ているのかよくわからないなか、積極的に発信をしようという気持ちにもならなかった。
肩書きなんて別に何もなかった。その頃から17歳ではあったけど、なんで17歳なのかなんて説明したところで、誰が読むんだろうと思った。
何者でもない。
何かひとつ、秀でているわけでもない。売りになるものもない。
Twitterで精力的に発信する人を眺めながら、インフルエンサーの講座になんとなく申し込んで、なんとなく違う世界に生きている人をぼんやりと眺めた。
その私が今、TwitterとnoteとYouTubeで発信をしている。
1年で、こんなに変わるんだ、と思う。
わたしは、そんなにアグレシッブな性格じゃない。2、3人が同じ意見に賛同しようものならそれに従うし、積極的にアクションを起こしたこともあまりない。
ただ、テキストなら。言葉の世界なら、とても饒舌だった。
そうやって、ちまちまと発信し続けて今に至る。
発信ってなんだろう、と思うけど、要は自分の思いを言語化したもん勝ちなのだ。
そこには、アグレシッブだとかそういった性格の優劣はない。
言葉の世界のなかでは、誰しもがフラットになれる。
教室の隅でくすぶっている人が、クラスの中心的人物と対等に話せる。
一昔前じゃ、きっと考えられないこと。それが、当たり前になった。
言葉を操るものが、賛同を得る。
言葉を紡げるものが、発信者となる。
人見知りとか、引っ込み思案とか、消極的とか、そんなのもう考えない。
思いをテキストにして打ち込んでみよう。
発信をはじめたその日から、もしかしたら何かが変わるかもしれない。
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