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幸せの尺度くらい自分で決めさせてよ

『あなたは本当に恵まれているんだよ。何不自由なく育って、たくさんの習い事をさせてもらって、お父さんの仕事のおかげで海外にも行けた。帰国子女だから一般の高校生よりも遥かに有利に良い大学にも入れたし、高い学費だって出してもらえた。』

『なにが不服なの?』

確かに、これは全部本当のことだ。きっと誰かからしたら喉から手が出るほど欲しいものを持ってると思う。

でも、自分でも不思議なくらい、全然幸せじゃなかった。

それにも、ものすごく悩んだ。私は何が不満なんだろう?と。

そういう気持ちはいつもどこかしらにあって、知人に

『何をしているときが1番幸せ?』

と言われてうーん、と考え込んでしまい、

『そういうときは、どんなときでも幸せって答えられなきゃダメだよ』

なんて諭された。そういうものなのか、と思った。

でも、側から見てすごく幸せそうに見える人でも、やっぱり心のうちではものすごく悩んでいる人はいたりして、そういう人を見るたびに私は思った。

しあわせの形は、人によって全然ちがう。

一般的に幸せの定義とされている、裕福な家庭で愛されて育ち、良い大学を出て良い企業に就職する、というのはあくまで理想であって、それが全ての人にとって幸せとはいえないのだ。

そして、大体そういうときに引き合いに出されるのはアフリカの恵まれない子供たちだ。

現状に不満を言うと、必ず母にこう言われた。

『アフリカの恵まれない子供たちのことを考えてごらんよ』


でも、もうこの時点でそれはものすごくステレオタイプだ。アフリカの子どもたちをすごく下に見ていますよ、最も不幸せな生き方ですよ、と言っちゃっているようなものだ。

それってすごく失礼じゃないか?

その、いわゆるアフリカの子どもたちは、自分たちのことを不幸せだと思っていないかもしれない。比べる対象もないから、それが普通だと思っているかもしれない。

つまり、そういうことなのだ。

どんなにお金があろうが、恵まれていようが、それは自分にとって『当たり前』のことであり、『普通』のことだ。

だから、どんなに『恵まれてるから幸せと思え』なんて言われても無茶な話。

私の幸せの基準を、あなたが決めるなよ。

人は、自分よりも不幸せな人と自分の現状を比べることで、自分がその人たちよりも幸せであることを確認しないと幸せだと思うことができないのかもしれない。

でも、そんなふうに確かめる幸せって本質的な幸せじゃないと思う。

いずれにせよ、きっと人の『生きたい』という思いの根元には『幸せになりたい』という気持ちがある。

ただ、幸せを追い求めることには終わりもない。

だから、『現状に満足しなよ』なんて無責任で野暮なことは絶対に言わないでほしいし、自分にとっての幸せを探し続けてほしいと思う。

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