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『コロナ禍の入院と剥奪』

『コロナ禍に入院するということ』を伯母の入院環境と変化を記述しながら、分析してみることとしたい。
#刑務所 #コロナ禍の入院 #家族との断絶 #アイデンティティの剥奪 #役割の喪失 #文化からの剥奪 #私物の剥奪 #ハンセン氏病隔離政策を顧みる #引きこもる意味

<脳梗塞で入院した伯母>
家族が声をかけても、反応なく、ソファーに座って、天井を仰ぐように首を後ろに倒していた伯母。家族である私の従妹(=看護師資格と保健師資格を持っている=A)は、異常を感じ救急要請をした。

即、救急搬送と急性期の治療が行われ、麻痺なく急性期の治療を終え、慢性期の受け入れ病院を探すこととなった。

この、急性期病院から慢性期回復期リハビリ病院への転院まで、家族の面会はままならず、ただ祈ることしかできなかった。


<転院時の家族の落胆>
昨日、2021年11月8日の月曜日。伯母に入院日から23日ぶりに会えた家族の落胆は大きかった。

「目も開かず、とろみ食(食事をミキサーにかけ、とろみをつけた食事)となって、反応もなくなってしまった。」
従妹は、私に悲しみを文字にして送ってきた。

私は、従妹に
「毎日面白くもない、天井しか目に入らなかったら、目を見開く意味がなくなっていく。」「興味関心も持てなくなって、目を閉じて一人でいる。一人の世界に入りたくなる。」
と、メッセージを返した。

次にリハビリ病院で、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、看護師との関わる時間がこれまでより増え、人間の尊厳を取り戻すことが伯母の回復には決定的に重要であろう。

<コロナ禍の入院とアイデンティティの剥奪>
コロナ感染症の拡大によって、人間から何が奪われているのかを考えてみたい。
私は、憎むべき対象がコロナウイルスにとどまっていていいのだろうかと疑問を投げかけたい。

医療現場が、
「ゴフマンの言う全制的施設(似たような境遇にある人々が、ともに一般の生活世界から隔離され、閉鎖的で管理された生活を送る場)に類似している医療施設の現実にの警鐘を鳴らすのは医療従事者ではないのだろうか。」

全制的施設と、コロナ禍の入院生活は非常に近い状況を作り上げ締まっていると思われてならない。
伯母は、コロナ禍の入院によって、家族と会うことも許されないことから、家族と共に過ごす生活時間や過ごし方も一変した。
「お母さん」、「おばあちゃん」と、いつものように自分に問いかける人はおらず、「ねえ、味見して」と声をかけられることはない。
伯母は、身体を拭いてくれる人が来て、食事を口に運ぶ人が来て、おしりを観察する人が来るという、受け入れることを期待される存在でしかなくなった。
伯母がなにか一日の成果を生み出すために続けていた、「刺し子」の手ぬぐいを一日一枚仕上げることもできなくなった。危険(医療現場における考え安全管理による)な針を持つことは許されず、仕上げることであられた家族の賞賛や、自分自身の達成感も得られなくなった。
コロナ禍の入院は、私物の持ち込みも制限し、すべてリース材料により管理されることになった。そうすれば、家族が洗濯物の交換に病棟に出入りすることを防げるからであるが、入院患者の楽しみは時に家族が持ってくる、自分の好きな食べ物、着物、読み物、写真や趣味の音楽などにも触れることが許されなくなった。

〇文化
〇役割
〇私物の剥奪
が行われているのは、全制的施設と変わりないといえる。

<映画監督の中にある批判的精神>
宮崎駿監督が『千と千尋の神隠』の中で、千尋のアイデンティティーが失われていく姿を描いたのを思い出してほしい。
湯婆に、名前を「千」と呼ばれることで、本当の名前の「千尋」を忘れてしまうのは、支配的な環境に投じ、自分の小学生としての自由が奪われ、湯屋の労働という役割が与えられ、両親と隔離され、生活スタイルが一変し、服従して生きながらえることが、強いられていた。

白からもらった、おにぎりを食べながら、涙をぽろぽろ流し、泣いている千尋の描写は、この湯屋という名の全制的施設の中にいる「千尋」のアイデンティティを思い出す場面ととらえると、また違って見えてくるだろう。

<医療の過ち>

余談だが、2021年10月の下旬に私は、宮古島の「国立療養所宮古南静園」を概観し、「ハンセン病資料館」を見学した。
人間が人間の尊厳を奪い、長期的に隔離政策を行った場所をこの目で見るためだった。資料館な中に、施設の規則を破った人間が投獄される模型を確認しつつ、人の命を奪うことが医療施設内で起きていたことを思い返し、同じ過ちが繰り返されないことを見守らなければと思った。
出来事を観察し、その内容を意味解釈しつつ、このままでいいのかと反省的にとらえなければ、同じことが繰り返されてしまうこととなる。

目を開けようともせず、食べ物が口に入れられる時間に、
医療従事者の発する「口を開けて」
に従い飲み込む、機械と化している。
人間が人間として生き、自らのアイデンティティを奪われ、伯母は誰にも自分の領域を犯されないように、ひたすら自らの世界に引きこもり耐え忍んでいたのであろう。

<批判的視座の必要性>
社会学では、このように全制的施設に入ることにより人間から奪われていくものがあり、極限状態を保つ理論的枠組みについて学ぶ機会がある。ところが、看護教育の中で、私は学ぶ機会はなかった。
今回の登場人物、私の従妹も看護教育を学び保健師の資格を有し、学校保健の仕事を担ってきたのであるが、母親の置かれている状況を分析し、意味づけする言葉を有してはいなかった。
つまりは映画、『カッコウの巣の上で』で描いている医療現場が、精神科のみの反省として捉えられ、いまだに一般的な病院施設においても全制的施設の批判をはらんではいまいかと内省することが出来でいない。
ここは、医療従事者の組織内の変革を期待したいと思うし、発信を続けていきたい。

2021.11.9(火)
                           MILK

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