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サービス付き高齢者住宅 ~終末期の迎え方と延命・計画出産を考える~

#終末期
#延命による死期の選択
#計画出産もあり
#今や生も死も 、技術と薬物で調整可能
#死は障りであり穢れとする文化

Aさんの点滴


ここ数日、サービス付き高齢者住宅に入居するAさんの食事摂取量が必要カロリーに満たず、水分すら摂取できなくなっていることに、直面していた。
昨日はAさんのお子さんにその旨を説明するとともに、往診医の診察を予定し、往診医と今後の治療計画について話し合っていただきたい旨をお伝えした。
上記の医師と家族の話し合いの結果、本日からAさんは延命処置としての点滴療法を開始することになった。だが、食事摂取が進まず、飲水もできていないAさんの血管には、容易に点滴の針を刺すことはできず、本日の点滴注入は中止となった。

手や足の表面にある静脈で血管確保することが難しいAさんに点滴をするのであれば、中心静脈栄養しかないだろうと、医師から説明を受けた家族。
家族は、今夜それを選択するか、家族会議を開き、明日には医師に結果報告をすることとなっている。

死期も選択する時代


医師と家族の話は双方で、電話を介して行なわれたそうだ。
今夜、施設にAさんの見舞いに訪れた家族の口からは、
『2週間は死なないで生きていて欲しい』
『(Aさんにとっての)孫の受験があるので、死が訪れる動揺を与えたくない』
と言うものだった。

Aさんの孫の受験が、2週間後には終わっている。
つまり受験期間には、孫に動揺を与えたくないが故に、Aさんが死ぬ事を、孫の受験中は回避したい。これが、延命を選択する最大の理由だった。

これまで病院で死に直面している人を看護している中で、延命を求めるその理由に、孫の受験に対する精神的影響を理由に挙げた例を知らない。

本日の家族の選択からは、死と言うものを意味嫌い、障りとしてとらえていることを直感で気に感じ取った。わが子に、親の死を体験させて、受験に影響を与えまいとする、危険回避に考え方に、納得しがたい自分がいた。
もちろん、家族の数だけ家族のありようがある以上、私が家族に対して何も言うことはない。

この一件から、ふと思い浮かんだフレーズが、
『計画出産』
だった。

出産日を選べる計画出産


 子供が生まれる日を親が選び、その日にちに生まれるように医学的な技術が使われると言うことである。
今や、生きるも死ぬも、ある意味、医学的な技術に金品を払い、技術と薬物の提供を受けることによって、生も死も日程が管理できる世の中になっていることを表している。
これは、もしかすると、一般的な考え方になってきているであろうか?
私の頭は少々混乱した。

これも医学の発展、薬物の開発とともに、人々のその技術革新を何に使っていくのかと言う選択な問題なのだと思うと同時に、死については、災い的な意味とそれを嫌う感情を抱いている人々が、自分の親の死を目前にして、いると言うことに驚いた夜である。

多種多様な終末期のすごしかた


 私自身の親の看取り体験から、親の死期が迫ってきたときに、我が娘と息子に精神的な打撃と言うことを一切考えることもなかった。何よりも、娘と息子に深い愛情をもって常に優しく接してくれ、慈しみ育ててくれた死期迫る父。この私の父と、私の娘と息子。
お互いが、命ある時間を、限りあるものとして、大切に過ごすことしか考えていなかった。娘も力尽きていく私の父(祖父)の姿を目にして、何か自分ができる事はないかと考えて、食べ物を作ったり、傍で話をしたり、時間を見つけては足しげく通った記憶がある。

孫と祖父の関係性をとっても、家族の数だけ関係性の維持の仕方や、関わり方があるのだろうと、私の経験だけで家族のあるべき姿を語ってはならないのだと思った。

家族のことは家族に任せよう。
お手本などないのだから。

2023.2.6(月)
MILK


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