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陥穽(カンセ・ヰ)…第五回阿波しらさぎ文学賞応募作

 戸田雅之は、ふとい指で焦茶色の合皮の手帳をめくる。

 四/一九 胃の調子悪くガスターテンを飲む。
 詩吟十四~十六時。電気代 7,401円。
 四/二〇 出井会長より半田素麺と伊吹島のイリコ出汁届く。
 十八時定例会。
 四/二一 トラとゴルフ(寿司辰要予約↓トラ)


井蛙不可以語於海者拘於虚也《井の中の蛙以て海を語るべからざるは、虚にこだわればなり》(莊子/秋水)
無論〈井〉は〈渭〉に通じ即ち〈ヰ《渭・猪・伊・祖》の國〉と古来より呼慣らされし阿波國也。ゐろはの「ゐ」/天地開闢の地と密に語継がれながらも、神代の面影皆目霧消し、もはや人は知を愛さず《哲学=知恵(sophia)を愛する(philein)》、見上げた空を極楽と見紛うのみ。
現今民草は災厄《アレ》の軛《ケガレ》から身を祓《まも》らんと足掻いておる。而《しかれども》、模造子宮《シュミラークル》の如き自室に籠り罐詰の生《セヰ》を謳歌せし輩の却って増殖せしし事は、人が或種の穴に重ねて落ちたと云う証左である。井の穴↓穽《セ・ヰ》は二重の穴/虚《まぼろし》也。そこに本質的《エセンシアル》な愉悦など無い。
この数日余は遠近《おちこち》で嬉々として端末に耽溺する大量の狐を目撃せり。かつて弘法大師の予言せし鉄《くろがね》の橋とは、渦潮を跨いだ橋の謂《ヰヰ》ではなく、無限接続されし瑠璃《ガラス》の端末であったのか。いずれにせよ狐の跳梁遂に始まれり。聖狸の眷属たる渭國の民に告ぐ。もし除災厄《アレ》したくば、一心にその穽《セ・ヰ》を穿て。


 一昨日の十四時三二分頃、Y川沿いのゴルフ場の池に落ち、あっさり逝ってしまった父・克己の手帳はそこで途切れていた。雅之は同じ部分を数度読み直してからそれをYシャツの胸ポケに挿れると運転席から身を捩り、充血した大きい蛙のような目を見開いて、倒した後部座席の上に横たわる白い特殊防厄袋を眺めつつ、スマホを取りだして電話をかけた。

「あ、かあさん?俺やけど、うん。今うけとってきたわ」「はぁ御苦労様でした~お父さん、どんな顔やった?」と母・安恵の声が微かに車内に漏れる。「いやそれがな、どないしても袋はあけんといてくれって保悦所からキツうにいわれとるけん、見れんのよ」「ほうか…」「…今から孝志と焼き場にいってくるけん、帰る前にまた電話いれるわ」「ありがとな、まー君。お願いしますぅ」

 彼は電話を切ってエンジンをかけると、助手席の孝志に「行くか」と言った。弟は一瞬兄を見て頷き、すぐ視線をスマホに移して画面上を指でくるくるしだす。雅之はサングラスをかけ、悪足掻きのように陽気な音楽をかけて車を走らせた。すぐ信号に引っかかり、なす術なく目の前を疎らに過ぎゆく人を見る。隣車線に白い箱バンを停止させた(おそらく介護職の)男はモラエスの三回目の生まれ変わり。細い煙草を蒸して歩いてくるあの女はおヨネの二回目の生まれ変わりだ。あの坂東英二似の遍路は十郎兵衛で、バスを待つ子供はきっとおツル。自分は狸の総大将・金長の生まれ変わりだと母から何度も言われてきた。その前を遡れば結局伊弉諾《ヰザナギ》。言っちゃえば、男はみんなそれだ。わかる者にはわかる。わからん奴ほどやたらに気にする。
「まー兄」「ん?」「キュウビって知ってる?」「…妖怪ウオッチの?」「そ。ニュー速読んでんだけど、すげえ昔にキュウビが~陰陽師にとじこめられたんやけど、岩にな。いっきなりそれ割れたんやって、おとつい」「おとつい?」「そ」「リアルにおるんかあれ」「な。」「狐の首領か!」父ならそう言っただろう。父の死が何かの岩戸をあけたのか。

 孝志が腹がへったというのでマレナカの立駐の目立たぬ場所に車を止め、携帯用厄除塩スプレーを振ってから雅之は一階正面玄関近くのタコ焼き屋に歩み寄った。
「イケるで?」「はいはい」噎せるような匂いとともにパートの女が出てきて「ポン酢ぅ?ソースぅ?」と真っ直ぐにサングラスの中を覗きこんでくる。その瞳にはなにか抗いようのないものがあった。彼我の間に赤い糸が伸びている。幸いそれほどブスではない。プレートの穴の上で牙のようなピックに刺された球状の物質が回る。
 「ポン酢、ネギ抜きでちょうだい」「は~~い」彼は代金に「またくるね」と付け加えその女に渡した。
 
 チンっ。係員が黒塊を取り出し眼前に置く。災厄《アレ》禍とはいえ、I町の名物町長だったあの戸田克己が息子二人だけに見送られるとは実に世も末感がある。箸で一塊の骨をつまむ。
「ほれぇお前も端っこつまめ」「あ」馬鹿ゝしいという顔を浮かべていた孝志が誤って骨を落とした。骨は妙な音をだして割れ、その罅は「L」と読めた。まさに原初の文字の生成の現場に立ち会ってしまったと雅之は思った。「L」とはLUCKY《幸運》か、LIDIQULOUS《諧謔》か、LIBIDO《欲動》か。
 空に父の煙が登っていく。「あれがお婆ちゃんの煙よ、ずっと忘れんでなぁ」と母が幼い彼を撫でながら言うと「まー君アイス食べようか」と父がすかさず言って彼を抱き上げ、売店で棒アイスを買ってくれたのを彼は思いだした。孝志をコンビニに連れて行き、それが家訓であるかのように二人でソフトクリームを食べた。

 I町の実家に戻ると、老犬のププと共に跛を引いて玄関にやってきた母は涙ぐむこともなく二人の息子に深々と頭を下げた。それが政治家の妻たる者の務めなのですと旋毛が言っている。 
「やめろって」「お腹減ったやろ、中華でもとろか?」「あかんやろ。イケたとしても悪いわ。自粛せな。災厄《アレ》でおとんが死んだってみんなもう知ってるでよ」「あ、半田素麺があるわ」「母さん、コレどこおいたらいい?」「孝志、コレ言うな」「ひとまずピアノの上でええんちゃうん?明日保悦所の人が来るって電話があったわ。全員おってって」「学校行けんの?」「当分無理やろ」「マジ卍」「ワイも職場にはもう伝えとるけん。最低でも四九日は養悦しとかなあかんな」「マジでしんだいんですけど」「それと午後に後藤さんがくるらしいわ」「トラさん?」「あんたおれるで?」「おるようにするわ」「いかんワサビ切らしとるわ」

 かつて渭山《ヰノヤマ》と呼ばれていたT公園近くの小川に面したマンションに戻ると、彼は塩スプレーを吹きかけ部屋に入った。キッチンテーブルにサングラスを置き、胸ポケの手帳を取りだして眺める。これからの養悦期間を考えると「罐詰の生」とは中々刺さる。要約するならば父のメッセージとは「井/渭の中の蛙と成り果てた狸らよ、狐の支配に負けず二重の穴/穽《セ・ヰ》を穿て」という事か。…一体穴とはなんなんだ?本質的愉悦??狐???知恵の実を齧ったマークのスマホでも破壊すればいいのか。あやふやや。雅之は喪服のままソファに埋もれ、爪を噛みだした。

 陽光に目が眩む。そこは埃の乱舞する木造小屋で、光の束が破れた壁から小屋に流れこんでいる。背後で物々しい音がするので振り返ると、上下白のスーツにサングラスをかけた大杉漣が机上に広げた銃器のメンテを高速でしていた。
「おい、新入」「…はい」「お前いくの?」「え?」「え?じゃなくて現場だよ」「…はい」「じゃこれ」と大杉は重たい何かを投げてきた。それは「生き死神」と恐れられた名うての暗殺者《アサシン》・大杉の代名詞といえる旧ソ連製弾道ナイフであった。白いダブルのジャケットをはためかせながら大杉は小屋を出て大きな馬に跨ると、颯爽と朝靄の荒野を駆けだしていく。雅之は離されまいと懸命に走ったが馬の姿はすぐに消え、道は誰かを追悼する花束でどんどん埋もれだし、悪態…饒舌…怒号…歓声…に巻き込まれる。彼は無数の怨霊に取り押さえられて口に猿轡《マスク》をはめられた。怒った。途方もなく怒った。猿轡《マスク》を噛み砕き怨霊等を一斉に薙ぎ倒すと彼は野太く吼えた。気がつくと毛むくじゃらの全身が引っ掻き傷咬み傷切傷などに覆われて膿み、彼は川を歩いていた。痛みで意識が遠のく。大狸は大仰な飛沫をあげて水中に没し、巨大な蛸のような渦にのみ込まれていった。

 ぐっしょりと汗がYシャツを重くしている。それが夢であることは途中から分かっていた。だが人生で最も啓示的な夢であった。亡きT県出身の有名俳優と彼に渡された武器とが、不在の父《ファルス》の行方を表象し、王権の付与と宣戦布告とを暗示する事。王《ファルス》の代理者たる狸《オイディプス》と巨大な母なるもの《mater(母)/mare(海)》とが連結して止揚される事…。実に安易で露骨な筋書《プロット》である。裸になりユニットバスでシャワーにうたれる。なぜだか涙が溢れてきた。…災厄《アレ》の症状だろうか?いや…むしろこれはうれしなき。急に腹がへった。湯を沸かし、パスタと半分のキャベツとを丸ごと鍋に挿れて塩をふり、湯切りして皿に盛るとイリコ出汁をかけ、顔を紅潮させながらはふはふと食べた。…災厄《アレ》は否定性の集積で起こるという。父は幸福ではなかったのか。おそらくそれを掴みかけてはいたのだ。
穽《せ・ヰ》か死か。生きるためには父の仕事を継がねばならぬ。なんとしても「究極の愉悦《Ultimate Rejoicefulness》」を探すのだ。「ピリリリリィ」スマホのアラームが鳴った。雅之は比較的綺麗な服に着がえ近くの月極に停めた車に乗って走りだす。車はやがて長閑なI町の風景に溶けこんだ。

 二人の保悦所所員は戸田家全員の受厄レベルを一通り検査した後、「現在養悦中です」というスダチ君の絵の入ったステッカーを数枚渡し、気が抜けるほどあっさりと帰っていった。午後、人目を憚ったのか裏の勝手口からI町町議・後藤泰我(通称トラ)が、育毛ローションの臭いと共に家に上がり込んできて吠えるププの頭を撫でた。
「この度はご愁傷様で。まー君えっとぶりやの。ご活躍で。…まさか克ちゃんがわいの目の前でコロっと逝ってまうとは夢にも思わんでの。アレから自分を責めとんよ。ほんまに堪えてよ、ほんまに」「トラちゃんなにゴジャいうんで、あんたおらんかったらとっくに戸田はお釈迦になっとったわ」「いやいやいやいや姐さんほれはないわ」そう涙声で言うと後藤は線香をあげて座布団から立ち上がった。「トラさんありがとう。さっき保悦所が来とってね、トラさんのスマホがどうこう言いよったんやけど」「ほうよ、ほれを見てもらおう思って…ちょいぃと待ってよ」後藤はウェストポーチからスマホをとりだし、老眼鏡をかけて写真アプリを開くと、一番左下のファイルをタップした。
「撮っとん?」黄色い鳥打帽に黄色いニット姿の克己がマスクを外しながら笑っていう。トラの大きな笑い声がする。「動画じゃ」「勘弁してくれ」「ええでぇ、わいは何でも残しよるけんな」克己はにやけるのをやめ、キャディに渡された中空アイアンをゴルフボールの上でじっと構えた。急に呼吸が乱れ、克己は胸を押さえる。「克ちゃんイケるで?」「…エウレカ《イケるか》…」そう言うと克己は口から虹色の愉悦を放出させて仰け反り、後ろの池の中にドボンと落ちて見えなくなった。
「克ちゃん‼‼」画面が無茶苦茶に揺れ、芝生の上に転がったのか白飛びした空だけが長閑に映り、やがてトラの叫び声が途絶えると、もうすぐ雨が降るのか蛙たちが鳴き出した。

 それから半月近く、雅之は規則通りに養悦期間を過ごした。むしろそれはあっという間に感じられた。父の書斎で見つけた阿波古事記に関する一連の研究書を読み漁っていたからである。九州や畿内が古事記の舞台だとする定説に反し、このT県こそが聖地《マホロバ》なのだと信じる人々が意外なほど多数おり、その説を立証するような真実味のある手がかりも枚挙に遑《ヰとま》がない。仇を血眼で探す孤児《みなしご》のように雅之はそれに熱中《どハマり》した。幾日経ったろう。気がつくと夕方だった。背伸びをした拍子にアイスコーヒーの入ったグラスが倒れ机上を浸した。チ!重たい古書の裏表紙が焦茶に染まってヘナヘナする。中を確認するため彼は裏表紙をめくった。

「渭津《ヰツ》=稜威《ヰツ》。命=渭ノ地/血。それが大拙の説く日本的霊性の正体か…この僻地が聖地《マホロバ》だと信じれたら余はどれほど楽であろう」

 その赤鉛筆の文字は確かに父の字だった。雅之は頭を鈍器で殴られたような気がして、外気が吸いたくなった。サンダルをはく。逢魔時《マジックアワー》というが、濃厚接厄者の僕こそ魔だ。薄笑いを浮かべながら彼は部屋を出て、自信なさげに微笑む美木ひろひこ―毎回出馬するも一度も選挙で勝った試しのない男―の複数枚のポスター脇を抜け、揺れる水道橋を渡って公園に入った。

「ギャッグゲェグギャッグゲ…」鷺の群れが仏僧の読経の如く気味悪く鳴く。何割かの歩行者が「散歩中ぐらいご容赦ください」という具合にマスクを外している。狭い街だ。誰と何時《ヰツ》合うか分からない。僕は暗くなるまで待とう。そういえばあっちに奇妙なオブジェがあったなと歩み寄る。それは二つの巨大なタイヤに巨大な黄色い筒が支えられている玩具の戦車のようなもので、登るための梯子や階段はおろか手摺すらなく、筒のスロープのなかを鰻のように登っていかねばならない。上にデッキもなく、ただちょこんと空いた穴から顔をだすしかないのである。九州の伝統玩具雉車にも似ているが、まさしくこれは一つのイコン《聖像》であった。永久に大地に空砲を向けた渭根《オブジェ》。それが「父の像」という名の軍人像《ファルス》の脇に雑然と、無意味を装って置かれているのだ。なぜこのオブジェはここにあるのか、来る度に考えるものの未だにさっぱりわからない。彼は狭いスロープをよじ登ると、装填された実弾のようにちょこんと穴から顔を出した。他にやることもないので人々を睥睨する。日はいつしか沈み、濃藍色の闇が広場《マイダン》を浸す。マスクをつけた人々が各々覗きこんだ端末に顔を青白く照らされながら指をくるくると回している。視力の落ちた彼の目にはそれが狐面の行列《パレード》のように映った。知ってる。彼らは災厄《アレ》から人類を祓《まも》るために産学官が連携して作りあげた「幻☆REJOヰCE《マボリジョ》」という名の拡張現実《AR》ゲームをしてるのだ。それは指で狐の尻尾を回し、掘った穴から宝を探すという単純なゲームだが、宝を掘り当てると可愛らしい狐がクネクネと乱舞し、えげつない多幸感に包まれるのだという。だがそれは父の言う「模造愉悦」であり本質ではない。
「REJOヰCE《悦びなさい》!」誰かのスマホから狐が愛らしく叫んだ。急に尿意がする。今夜は特別なイベントでもあるのだろうか。数十人…数百人…目を疑うほど大勢の群衆が広場を独占しつつある。もうここから出られない。
REJOヰCE《悦んでー》!REJOヰCE!《悦んでーなー》」
またあちこちで狐が鳴く。狐による穴掘画面を携えた狐面の群衆が黄色いオブジェに近づいてきた。
或いは父もこの光景を見たのかもしれない。
雅之は蛙のような目を閉じた。
マスクを取り、鼻腔に立ち昇ってくる新緑の草いきれの残滓のような艶かしい匂いを堪能した。もう尿意は抑えきれない。筒の中をサラサラと脱走兵のような尿が滑っていく。黄色い筒…水…黄泉《ヨミ》…まさかここが黄泉《あな》/穽《セ・ヰ》の出入口なのか。
「REJOヰCE《うれしいね》!REJOヰCE《たのしいね》!」
不意にあの噎せるような匂いが微かにした。
…そうだ。タコ焼きを買いにいこう。わかる者にはわかる。あの女は永劫の果てに漸く邂逅《であ》えたあなにやし伊奘冉《ヰザナミ》なのだ。もし彼女がまた根の國に堕ちたならピックでこの目《あな》を刺せばいい。それが穿《穴+牙》たれる穽《セ・ヰ》。
何も見えない、何も見ない。振り返ることもない。
災厄《アレ》も戦争《ソレ》も狐も狸ももう狐狸狐狸《こりごり》だ。
ただ鰻の如く登攀せよ。
きっとそこが極楽浄土《スカーヴァテヰー》で、究極の愉悦《Ultimate Rejoicefulness》の在処なんだ。

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