わたしが「魔王」にハマった本当の理由

 年明けくらいから、シューベルトの歌曲「魔王」を聴き続けていた。その当時、世界で「魔王」にハマってた人間がどれくらいいたのかわからないけれど、全人口の中でわたしの中毒度はかなり上位に入っていた気がする。動画なんて見始めたら、私の中毒度を理解したAIが、次々とわたしの知らないバージョンの魔王を勧めてきていたから、余計だ。
 某SNSに、「生演奏の『魔王』を聴きにいき、それで改めてこの曲の素晴らしさに気づき、以来ハマりました。」と書いたのだが、これは2割くらいしか本当ではない。
 じつは年明けから、同居する母が体調を崩して入院、よくなるかに見えて悪くなったり、、の繰り返しで、だんだんと、いよいよのときが近づいてきているのではないか、という思いとともにあった。子どものころ、「母が死ぬ。」なんて、あまりにも恐ろしくて考えたくない事柄だったが、すでに成長しきって、親を必要としないはずのアラフィフになっていてすら、やはりそれが1番考えたくないことであることには変わりなかった。
 自分にとって、大切な存在のいのちがおびやかされつづける状況、、、それは、自分が通勤したり、家事洗濯したり、食事したり、の日常を送っているのに、通奏低音で、サイレンのような切迫した警告音が、ずっと鳴り続けているような感じだった。
 そんな日々を送る中、中学時代に習った、「魔王」の切迫したピアノのイントロ部分が、ふとよみがえっては、以来頭の中に繰り返し流れてくるようになったのだった。

 面会に行くたびに、目に見えて弱っていく母親、、でも、まだ、わずかながらかつての活気が残されているようにもみえて、そのわずかな活力で、この状況を押し戻せるようなことが起きるのではないか、、目の前の状況を受け入れたくない自分が、「魔王」のなかの父親とも重なって感じられた。
 そんなふうだったから、「登場人物のいのちが奪われる展開の曲」なんて、縁起でもないような選曲だったのだけど、ほんとうに目の前に身近な人間の死が迫ってきているわたしには、これほどリアルに危機と恐怖を表現してくれている曲はなかったのだ、と思う。
 あまりに魔王にハマっていたので、、俄然生演奏を聴きにいきたくなり、関東近郊で演奏してくれる機会がないか、探していたら、ちょうど、2月の18日に、トッパンホールで、アマチュアの楽団の方々ではあったけれども、「魔王」の演奏会があるのを知り、チケットを購入した。

 年明けからだんだんと弱ってきてはいたものの、それでも落ち着いてきていた母の病状は、2月の3日くらいには、施設への退院の話しも医師から出るくらいにはなっていた。医師の穏やかな口調、話しぶりから、もしかしたら、以前と同じレベルではなくても、「よくなるかもしれない。」という希望をわたしも抱き始めた。しかし、16日に、腎機能が悪化、集中治療室へ入ることになった。面会は1日15分、医師からは、「腎臓が動いてないので透析します、それで復活する場合もあるけど、もしかしたらダメな場合もある」という説明を受けた。
 母は、そんな時でも、会いに行くと笑顔を見せてくれた。看護師さんによると、「娘さん面会に来ますよ。」と伝えると「わーい、やったー」と酸素マスクをしたまま答えていたらしい。
 18日に面会したときは、「ここにいなさい」とマスクしながらモゴモゴした発音で繰り返していた。しかし、面会制限時間15分だからずっといるわけにもいかない。
 わたしは、その日聴きに行く予定だった「魔王」の演奏会に行くべきか悩んだ。母がこんな状況で縁起でもない歌だし、でもせっかく買ったチケットを無駄にするのも、、とも思った。

 かなり悩んだ末に聴きに行くことにしたが、病院から1時間くらいの距離なのが気になった。
 その日の演目は、シューベルトの交響曲と歌曲を交互に演奏、「魔王」は、その日の目玉みたいな位置付けだったからか、休憩を挟んだ後半にプログラムされていた。
 他の曲もいい演奏だったような気もするのだけど、母の容体が気になって、あまり集中して聴けなかった。休憩時間に携帯が鳴ったときは、驚いて外に飛び出た。電話は、主治医ではない、当番の医師からだった。母がかなり苦しそうなので、モルヒネを使わせてほしい、はっきり言ってもう助からないと思う、とかなり率直に言われた。わたしが、「兄と相談してからでいいですか?」、と尋ねると、「お兄さんは、まだ治療にこだわる方なんですか?」と、ややイラついたようにいうので、「いえ、そういう意味ではなく、何か決めるときは、わたしの独断でなく、2人で合意しておきたいのです。」と伝えたら、急に丁寧になって「それはそうですよね。」と納得していた。なんか、医師としてまだまだ経験が足りてない人、という印象を受けた。兄もモルヒネの使用に合意、その旨を病院に連絡した。医師は、「すぐに流し始めますから」と。。。モルヒネを流し始めたら、もう、会話もできなくなるかもしれない、、と悲しくなった。
 すぐにまた病院に戻るか、『魔王』を聴いてから戻るか、、また悩んだが、ここまで「魔王」が始まるのを待っていたのだから、と腹を括って聴いてから帰ることにした。
 歌っていたのは、松原友さん。
 明らかに、わたしの好きな、若い頃のフィッシャー=ディースカウの影響を受けた歌い方、と感じた。「魔王」の歌い方として、魔王が歌に登場する最初の段階から、怪しい、いかにも悪そうな、「イッシッシ…」的な存在のように歌う人と、最初はかなり善良な存在であるかのように歌って、最後の最後に本性をあらわして牙をむくような歌い方とあるように思うのだが、わたしが好きなのは後者で、フィッシャー=ディースカウは、若い頃は後者の歌い方をしていて、歳を重ねるごとに、最初から悪どい、怪しい存在のように歌っていくようになってるように感じていた。松原さんも、最後の最後に牙をむくタイプの魔王を歌っていて、母危篤の状況下で、かなり待つことになったけれども、やっぱり聴いてよかった、と思った。あの会場に来ていた中で、わたしほど、この歌を切迫した気持ちで聴いた人間は他にいなかったと思う。歌に出てくるのは、父と息子、わたしのほうは、母と娘、しかも脅かされているのは母の命のほう、という、歌とはある種、真逆の状況だったけれど、、素晴らしい歌や表現というのは突き抜けていて、、違う状況の人間にとっても、普遍的で真実味を帯びて迫ってくるものだ、と痛感した。
 『魔王』を聴き終えたわたしは、すぐに立ち上がり、プログラムを残して、再び母に会うために会場を後にした。着くまでの1時間が異様に長く、母とわたしをへだてる障壁のようにかんじられたが、無事に母にまた、あいまみえることができた。モルヒネを打たれていたけれども、手を握ると握り返し、「調子は」と話しかけると、「いいよ。」と答えてくれた。最期とわかっているからか、病院はそのとき以降、何回でも、何分でも母に会わせてくれた。感謝しかない。

 それから2日後、母は旅立った。最期は、わたしも覚悟を決めていたからか、切迫感よりも、悲しみばかりが込み上げてきた。母の容体も、だんだん、「魔王」のような曲は似合わない、穏やかな息遣いになっていった。悲しいけれども、見送る側のわたしが、見ていてそこまで辛くならない最期だった。最後の息を引き取ったとき、母の左の目尻から、涙が一粒こぼれていた。わたしは親指でそれをそっとぬぐった。

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