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日本の歩き方 《関西編》         <第1回> 和歌山県 串本

オーストラリアのダーウィンとブリスベンへの旅行記を投稿しましたが、次の旅行までしばらく間が空きますので、「日本の歩き方」をまず関西地域から、ガイドブックとの重複をできるだけ避けながら投稿していきたいと思います。

和歌山県串本町。人口1万4千人の、漁業が盛んな本州最南端の町です。JR紀勢線を串本駅で降りると、「トルコ友好の町」と書かれたゲートが待っています。丘の上にあるロイヤルホテル(現メルキュールホテル)の客室から左前方に見える朝焼け、夕焼け時の橋杭岩がすばらしく、ホテルの中庭に出ると、トルコ軍艦エルトゥールル号の模型の向こうにクロマグロ完全養殖に成功した近畿大学水産研究所のある大島の眺望が広がります。この大島は橋で本土と連結されており、駅前から出るコミュニティバスで突端部の樫野にある町立トルコ記念館まで行くことができます。

JR串本駅を出たところ
橋杭岩の日の出

明治23年、オスマントルコの軍艦エルトゥールル号明治天皇に謁見した後の帰国航海中に樫野灯台沖で座礁、587人の犠牲者が出ましたが、このとき大島村の村民がトルコ船員の救助に当たりました。日本の草の根におけるトルコとのファースト・コンタクトであったと思われ、村民の民度の高さを世界に誇れるものでした。この事件は映画「海難」でも紹介されています。ここから日本とトルコの間で友好の歴史が始まりました。記念館内の展示はこれにとどまりません。この事件から100年の時が流れて1985年、イラン・イラク戦争が続く中で、216人の日本人がテヘラン空港に取り残されており、イラクのサダム・フセイン大統領からは、イラン上空を飛行する航空機は撃墜するとの警告が出ていました。日本政府は民間機を派遣するには危険すぎる、自衛隊機の派遣には憲法の制約ということで、手をこまねいていました。このとき、トルコ政府がトルコ航空機を急遽テヘラン空港に向かわせ、日本人を救出してくれたのでした。

トルコ記念館
日本人救出に関する展示(トルコ記念館)

ここで話はエルトゥールル号事件からさらに100年さかのぼり、江戸期の1791年となります。ペリー提督率いる黒船来航から62年前、2隻のアメリカ商船が毛皮貿易を目的として大島に寄航しました。彼らの目的が達せられることはありませんでしたが、この事件はジョン万次郎以前におけるアメリカとの最初の出会いであったと思われます。トルコ記念館のすぐ近くに日米修交記念館があり、当時の資料が展示されています。

日米修好記念館
日米修好記念館内の展示

ここまで大島にある2つの記念館を巡ってきましたが、今度は本土側に移動しましょう。潮岬先端の灯台にもコミュニティバスが通じています。そこに「潮風の休憩所」がありますが、多くの観光客はその前にある潮岬観光タワーに吸い込まれてしまい、通の人びとだけがこの休憩所を訪れています。司馬遼太郎さんの作品に『木曜島の夜会』がありますが、ここには明治初期に串本からオーストラリアの木曜島ブルームに真珠取りとして渡った人々の遺品と、現地の街並みや漁業の写真が展示されています。

潮風の休憩所内の展示
潮風の休憩所内の展示

串本駅から上り普通列車で大阪方向に2駅行くと田並駅に着きます。村上安吉氏は1897年にこの村からオーストラリアへと渡り、ブルームダーウィンで写真家や事業家として活躍しました。村上氏の足跡は、シドニー在住の金森マユ氏によって舞台作品化され、在日オーストラリア大使館の協力の下で早稲田大学において上演されました。この村では2018年より、古い劇場をリノベーションしたアトリエカフェ「田並劇場」が運営されています。ここでは、演劇や音楽の他、映画の上映もなされており、2階の本棚には映画関連の多くの文献が揃っています。

田並劇場
田並劇場の内部

その後、村上安吉氏の生涯は大阪大学中之島芸術センターにおいて、オーストラリア大使館協力の下、「ヤスキチ・ムラカミ 遠いレンズを通して」として展示さました(2023年12月12日~2024年1月21日)。同センターの2階には、爽やかな気品を漂わせるカフェテリア「AGORA」が営業しているので、ぜひ利用してください。

ヤスキチ・ムラカミの世界展「遠いレンズを通して」

ここまで見てきたように、串本は明治初期以前において、庶民レベルでオーストラリア、アメリカ、トルコとの「未知との遭遇」を経験した村でした。その串本は今、宇宙ロケット「KAIROS」の打ち上げ基地として未来を拓こうとしています。2024年3月13日の初号機打ち上げは残念ながら失敗してイカロスになってしまいしたが、原因を究明して再挑戦を期待して応援したい。


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