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平安時代の貴族庭園

『平安時代庭園の研究』(奈良文化財研究所、2011.3 奈良文化財研究所学報, 第86冊 研究論集;17 、古代庭園研究)の、倉田実先生による「文学から見た平安時代庭園」の記述が興味深く、皆さんに紹介しようと思います。



・原文

「源氏物語」の記述から庭園の使い方を分析したものです。まずは、原文を見ましょう。胡蝶の巻の船楽の段です。六条院が完成し、春爛漫の行事として、春の町で船楽が催された記述です。

三月の二十日あまりのころほひ、春の御前のありさま、常よりことに尽くしてにほふ花の色、鳥の声、他の里には、まだ古りぬにや、とめづらしう見え聞こゆ。山の木立、中島のわたり、色まさる苔のけしきなど、若き人々のはつかに心もとなく思ふべかめるに、唐めいたる舟造らせたまひける、急ぎさうぞかせたまひて、おろし始めさせたまふ日は、雅楽寮の人召して、船の楽せらる。親王たち上達部などあまた参りたまへり。…南の池の、こなたにとほし通はしなさせたまへるを、小さき山を隔てせたれど、その山の崎より漕ぎまひて、東の釣殿に、こなたの若き人々集めさせたまふ

龍頭鷄首を、唐の装ひにことごとしうしつらひて、楫とりの棹さす童べ、みな角髪結ひて、唐土だたせて、さる大きなる池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ中島の入江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵に描いたらむやうなり。
こなた霞みあひたる梢ども、錦を引わたせるに、御前の方ははるばるとやられて、色を増したる枝を垂れたる、もえもいはぬ匂ひ散らしたり。他所には盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほ笑み、廊を撓れる藤の魚も、こまやかにひらけゆきにけり。まして池の水に影をうつしたる山吹、岸よりこぼれていみじき盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもをくひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾に文をまじへたるなど、物の絵様にも描き取らまほしき、まことに斧の柄も朽いつべう思ひつつ、日を暮らす。
風吹けば波の花さへ他見えて
 こや名に立てる山吹の崎
春の池や井手の川瀬に通ふらん
 岸の山吹底もにほへり
亀の上の山もたづねじ舟のうちに
 老いせぬ名をばここに残さむ
春の日のうららにさして行く舟は
 棹の雫も花ぞ散りける
などやうの、はかな事どもを、心々に言ひかはし
つつ、行く方も、帰らむ里も忘れぬべう、若き人々
の心をうつすに、ことわりなる水の面になむ。
 暮れかかるほどに、皇といふ楽いとおもしろく聞こゆるに、心にもあらず、釣殿にさし寄せられておりぬ。ここのしつらひ、いと事そぎたるさまに、なまめかしきに、御方々の若き人どもの、我劣らじ、と尽くしたる装束容貌、花をこきまぜたる錦に劣らず見えわたる。世に目馴れずめづらかなる楽ども仕うまつる。舞人など、心ことに選ばせたまひて、人の御心ゆくべき手の限りを尽くをさせたまふ。
 夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火ともして、御階のもとの苔の上に、楽人召して、上達部親王たちも、みなおのおの弾物吹物とりどりにしたまふ。物の師ども、ことにすぐれたるかぎり、双調吹きて、上に待ちとる御琴どもの調べ、いと華やかに掻きたてて、安名尊遊びたまふほど、生けるかひありと、何のあやめも知らぬ賤の男も、御門のわたり隙なき馬車の立処にまじりて、笑みさかえ聞きけり。空の色物の音こしも、春の調べ、響きはいとことにまさりけるけぢめを、人々思しわくらむかし。夜もすがら遊び明かしたまふ。返り声に喜春楽立ちそひて、兵部卿宮、青柳折り返しおもしろくうたひたまふ。主の大臣も言加へたまふ。
夜も明けぬ。朝ほらけの鳥の囀を、中宮は、物隔ててねたう聞こしめしけり。

源氏物語、胡蝶の巻の船楽の段です。


この文章は、平安時代庭園を、植栽、使い方、遊び方、視点などの点で分析する上で非常に興味深い記述です。

・池の桃源郷の意識

貴族住宅で、竜頭鷁首の船を用意して、船遊びを行い、夜は篝火をたいて、夜通し船遊びしました。
「さる大きなる池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心地して、あはれにおもしろく」
と、まるで大海を渡って当時憧れであった中国の唐に行き着いたような気持ちだったようです。桃源郷の表現がなされています。

・建物から庭を見る記述

建物から庭を鑑賞する記述があり、これは、建物→庭、の視点を示すものです。
「春の御前のありさまはるかに見ゆる」や、「いろまさる苔のけしき」は、視覚的景色が記述されます。さらに、視覚だけでなく、「鳥の声や水鳥の遊び」など聴覚とともにその美が捉えられます。
ただ、寝殿からの光景は離れすぎていて、女房たちは、南の池の中島の平橋に造られた舞台での奏舞が、寝殿から「ほど遠し」(土御門邸への五一条天皇行幸時)として、庭中に変更されたという記事がある(御堂関白記、ショウユウキ)
これにより、室町期に部屋から近い鑑賞用の庭に変化するのでしょう。さらにいうと、庭との近さを確保して庭を楽しむために回遊式庭園が成立したのかもしれません。
少なくとも、平安時代には庭は散策する場でなかったようです。よりよく庭を眺めたい時には釣殿が利用され、着物を着た女御たちもそこにアクセス可能だった。女たちは、土の上は、着物をひきづってしまうので、床上しか動けないのです。釣殿は庭園鑑賞の用途と、船着場としての機能があったとわかります。

・仙境表現から浄土へ

南池を中心とした庭が仙境に見立てられます。
「行く方も、帰らむ里も忘れぬべう」というのは仙境、桃源郷を満喫して、帰るのを忘れるという発想です。「唐めいたる船」も蓬莱山に関連した表現でしょう。逆に、11世紀末になると、仙境表現から浄土表現へ移行するようです。

・夜も楽しむ

「中島のあたりに、ここかしこ篝火どもともして、大御遊びはやみぬ」とあり、篝火をたいて、夜通し船遊びをした。平安貴族は元気ですね。朝から昼または夕方まで、儀式関係のお仕事をして、その後このような遊びを行い、徹夜で遊び、次の日、ほとんど寝ずに朝から出社したのですから。

どうでしたでしょうか。平安時代の庭園が、桃源郷や自然の姿などの理想を反映した空間であり、その池上で船を浮かべて舞を行いました。それを建物の中から鑑賞するのです。夜には篝火を灯して、夜通し遊んでいたことがわかります。

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