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楽園でパスタを食べる

パスタを食べにきている。
パスタを食べにきたことはないけど、サイドメニューが美味しいのは知ってる。この前はサイドメニューばかり食べたから今日はちゃんとパスタを食べる。まずサーモンのカルパッチョをひとくち。美味しい。

美味しいごはんって幸せだよなぁと思う。

未来の自分のために沢山の場所に行って沢山の人に会ったり本を読んだりすることは賞賛されるけど、今日の夜ごはんや帰って見るアイドルの笑顔を楽しみに生きてるというと「今だけ見てるんだね」と言われるの、おかしくない?未来のことなんか何一つわからないんだから、今日食べた美味しいご飯が未来の自分の支えになるかもしれないじゃん、あの日見たアイドルがいつかの自分の力になるかもしれないじゃん…

サーモンは肉厚で美味しい。歯を入れるととろりと溶け落ちるようで、酸味とともに喉に流れ込んでくるのが美味しい。

未来の自分見るより先に、目の前のお腹すかせた自分見ようよ。
でもさ、結局何かを始めなくちゃいけないらしい。だって大人が言うもの、今日からできることを始めてみようって。でもそんなにごろごろ転がってないでしょ、一生懸命になれるものって。周りがとりあえずやってみろと抱えさせた勉強とか部活とか、つつがない学校生活とかさ、そういうのでいっぱいいっぱいでしょ。

もうカルパッチョ食べ終わっちゃった。

だから大人は自分が一生懸命できることを見つけろって言うんだろうけど、恋人になるためにまず好きな人を見つけろって言うみたいに、好きなものを見つけるのって難しいでしょ。急かさないでほしい。何かを好きになることを急かさないでほしい。

和風カルボナーラ、うま!

わたしは自分の幸せをわかってる。
何かに一生懸命になろうとして見つけたんじゃなくて、ご飯が美味しいこととか、おふとんがふかふかなこととかで幸せになっていたあの頃、防弾少年団は突然わたしの生活に飛び込んできて、今ではご飯が美味しいこととか、おふとんがふかふかなこととか、防弾少年団が愛おしいことで幸せになっている。熾烈な毎日じゃない、でも大きくて抱えきれない幸せ。それじゃだめなんだろうか?

ベーコンが香ばしくて美味しい。
書きながら食べているので、ソースが固まってもろもろしている。

何か一つ打ち込めることを見つけるんじゃなくて、生活に散らばっている小さな幸せを見つめなおしてはいけないのかな。就活で落とされちゃうかな、大学で頑張ったことは美味しいご飯を食べて好きな人たちを応援することですって言ったら、落とされちゃうかな。

みんな「生かす」ことを望んでる。
私が食べたご飯、私が心動かされたステージ、そんなものは生きてないらしい。私の中で生き続ける幸せや学びは、社会にとっては「死んで」て、だから一生懸命になれるものを見つけろと言われるけど、それって難しい。

口から出まかせの夢、とってつけたような頑張る理由、わたしの幸せはそこにはないのに、走ることこそが幸せだとみんな言うから。

人生はマラソンだとみんなが言うから。

今を生きている。あの日、わたしは今日の自分を励ますために防弾少年団の動画を見たんじゃなかった。あれ、これってすごく人気の七人組?軽い気持ちで、ちょっと覗く程度で。

黒胡椒が絡んだきのこが弾力があって美味しい。

私が読んだ本が無駄になったんじゃない。あの日無理して行った講演会だって、泣きながらした勉強だって、無駄じゃなかった。でも、それと同じくらい、私が美味しく食べたご飯や、あの日見た防弾少年団のパフォーマンスがその時にとって未来にいるわたしの心の燈になり続けている。

楽園に向かって走っているんじゃなくて、わたしは既に楽園にいるって気づくことは、だめなことかな。

いつか美味しいパスタを食べた記憶がわたしを助けてくれると信じてる。
だから周りがいう「(自分の未来の就職や進路に繋がるような)一生懸命になれること」もさ、パスタとか食べてる間にひょいっと現れるんじゃないの。
わざわざ走って探し回らなくても良いんじゃないの。

楽園でパスタを食べている。

家に帰ればわたしはもっと自由で、そこでわたしが吐く息も楽園にあるでしょ、きっと。

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