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芸歴40周年興行 立川談春独演会「百年目」

談春の「百年目」
談春が、「百年目」の枕で語っていたのは、「教えるということはどういうことか」である。
「百年目」という噺は、大店(おおだな)の番頭と主人、そして奉公人の話である。
お店(おたな)の中では、番頭は堅物として知られ、遊びなどには目もくれずそれこそ商売以外にはなんの興味もなく、それを身をもって体現している人間として最初は描かれる。
例えば、番頭の奉公人に対しての小言の中では、「芸者という紗は、夏着るものか冬着るものか。太鼓持ちという餅は焼いて食ったらうまいのか、煮て食ったらうまいのか」などと言う始末であるが、実は、この番頭、とても遊び慣れていて、近所の駄菓子屋に、箪笥を一棹預けており、そこに遊び用の着物をしまっていて、その中には京都の呉服屋に特別に誂えた長襦袢などもある。
そんなことはおくびにも出さず、遊びに出かけることなどはひた隠しに隠して、花見に出かけたある一日。
臆病な番頭は、船の上からの花見に、芸者、太鼓持ちを連れて出かける。
地上だと誰かに見られるかもしれないという恐れからであるが、酒の酔いも手伝って次第に気が大きくなって、向島の桜満開の土手に上がる。
そこで、お店の主人に偶然、遭遇してしまうのである。
まさにそのときに、番頭が主人に対して言った言葉が、「たいへんご無沙汰をしております。お元気にされてらっしゃいましたでしょうか」という不可解な言葉。
これが、「百年目」のサゲに向けての伏線となっているわけだが、もう一つ、この偶然遭遇した日の翌朝に旦那と番頭が話しをするその中に、この噺の大きな聴きどころがある。
それをかいつまんで書いてみる。
それは天竺での話であるが、栴檀の木の根元には難莚草という草が生えている。栴檀は立派な木だが難莚草は見苦しい草である。
それで見栄えをよくするために目障りな難莚草を取ってしまうと、次第に栴檀は枯れてしまう。
この難莚草が栄えては枯れ、枯れては栄えるという営みが、栴檀にとってのまたとない肥やしとなる。
栴檀から垂れる露が難莚草の肥やしとなり、また難莚草が栴檀の肥やしとなるという持ちつ持たれつの間柄である。
「旦那」というのは、栴檀の「だん」と難莚草の「な」から取っているとのことだ。
お店も同じことで、旦那が栴檀だとすれば、番頭は難莚草、番頭が栴檀なら、奉公人は難莚草ということを譬え話で、旦那は番頭に話している。
旦那は、この譬え話をすることで、それとなく、番頭がこの店にとってなくてはならない存在であることと、また奉公人を大切にしなければならないことを番頭に諭すとともに、また暖簾分けを持ちかけるのだ。
番頭はてっきり暇を出されるとばかり思っていたのだが、旦那から「久しぶりに肩を揉んでくれないか」と言われ、そして旦那の優しい言葉に絆されて、思わず涙の露を旦那の肩にこぼしてしまう。
そこで旦那が、「おいおい、お前が露を落とすとは、お前が栴檀で、あたしが難莚草か」というのが談春のサゲ。
旦那が番頭に、「昨日、ばったり会ったときに、お前さん、なんで、たいへんご無沙汰をしております、なんて言ったんだい?」というのに対して、番頭が「ここで会ったが百年目だと思いました」というのが、本来のサゲ。
談春は、あえて本来のサゲではなく、別のサゲを持ってきている。
そこに談春のなかなかに考え抜かれた工夫が見て取れると思う。

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