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芸歴40周年記念立川談春独演会四月

4月13日(土) 芸歴40周年記念 立川談春独演会
「子ほめ」「除夜の雪」「百年目」
「子ほめ」は、前座が口演する頻度が実に高い噺である。
オーバーに言うと、寄席や落語会での前座のネタで、「二度に一度は子ほめ」に当たると言っても過言ではないくらい。談春は遠い過去にもちろん演っていて、覚えているかと思ったら覚えていなかったとのこと。二度ほど、袖の前座、笑王丸(談笑の弟子)に「これでいいんだっけか」と聞いていたが、これもお座興。
「子ほめ」の口演後、ひとしきりこの後の演目の眼目について、前回の演目のことも含めて言及している。それは大きく二つで、一つは「家を守るということ~守るということにこだわること」で、もう一つは「人を教えるということ」である。
前者においては、前回口演の「たちきり」では、以下のように話が展開していく中で現れてくる。大店の若旦那と若い年端もいかない芸者(芸者の名は「こいと」という)との本気の色恋沙汰を父親と番頭を筆頭とした周囲の者はそれを認めようとしない。一族郎党で集まって、やれ勘当だ、それではぬるいから殺してしまえなどととんでもない話しをしている。結論は、若旦那は百日間蔵住まいをして、その間は、こいととの接触は文(ふみ)も含めて一切禁じられる。こいとからは毎日毎日、それも一日に何通も文がくる。若旦那はそれを一切見ることもできない。一度は、五十日で蔵を出る話も出る(母親がそれを強く望む)が、番頭は強く百日を主張して、大旦那も折れる。芸者は所詮色街の女、どんなに若旦那に惚れていようともそれは客を引き留めるための手練手管で百日は持つまい。もし百日続けて文が途絶えず届いたら若旦那とこいとの仲を認めようとなる。結果は?果たして、九十日で文は途切れてしまう。「やっぱりな」とは番頭と大旦那。
百日経って、晴れて蔵を出た若旦那がこいとの元へ向かうと、置屋の女将(こいとの母親)の「若旦那、遅すぎました」の一言。若旦那に恋焦がれて何も喉を通らなくなっていたこいとは九十日目に息を引き取っていたのである。
「家を守る」ということへの譲らぬこだわりが、若い二人の仲を裂き、それだけでなく一人の娘の命まで奪ってしまったわけである。
「除夜の雪」も、もちろん噺の展開は異なるけれども、本質は同じなのかもしれない。
やはり大店での話。伏見屋の若旦那が、周囲の猛反対を押し切って、貧しい身分の娘を娶った。こちらは「たちきり」とは異なって一緒にはなれたが、これが不幸の始まり。身分違いの嫁を姑が徹底的に苛め抜いた結果、嫁は大晦日に首を括って死んでしまう。
こちらも「家の面子にこだわる」あまりに、身分の低い嫁を認めることができない姑の行いが、嫁を死へと追い込んでしまう。
談春師の前説を聴いていることもあり、よりしみじみと考え込んでしまう。
落語にそれが必要なのかと問われれば、もしかするといらないのかもしれないのだけれど、あることによって、噺に味わいや深みが出るとかそういう浅薄なことではなくて、師匠談志が常々語っていた「落語とは、人間の業の肯定である」ということが談春師の口演を通して、何か名状しがたい感覚(それは、不穏とか不安とかそういうものにも近しいような気もするがそのものではない)を伴いつつこちらに迫ってくることに間違いはなく、諦念のような意味合いも孕みながら、心に抑えようもなく波風が立つ思いを拭えない感覚に陥ってしまうのである。
「人を教えるということ」については、「百年目」のことでまた別の機会に。

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