アリス症候群 第一話
第一話 白うさぎの穴に落ちる
大原多輝、十五回目の誕生日。
今日、学校で返された模試の結果はさんざんだった。受験生の秋にこれは痛い。自分で自分に贈った、最悪のバースデープレゼントになった。
そして今日という日にもうひとつ、気の進まないプレゼントを受け取った。文字どおり、親は今年のプレゼントをこいつで済ませるつもりのようだ。
母から預かってきた二万円で買った代物を携え、メガネショップを出た多輝は、思わず重たいため息をついてしまった。メガネケースと保証書の入った袋に、おまけでくれたハロウィン仕様のキャンディ(正直、これで喜べる年齢は過ぎた)。教科書や参考書が入った受験生の鞄に勝るとも劣らない重みがある。
眼科の人の指定するメガネの度数、確かにこれで視力は足りるけれど、なにぶんはじめてのメガネは慣れない。先ほど店の中でかけてみた時には、床がふわふわ浮き上がり、まっすぐなはずのものが弓を張ったように曲がって見えた。肉眼でははっきりした世界が見えない、一方メガネを通して見る世界は、鮮明だが歪んでいた。距離が近すぎてぼやけて見えるフレームが、世界を囲って一段といびつに見せる。急に視力が落ちたもので、まだ視力がよかったときを憶えているだけに、ショックは大きかった。もう二度と前みたいな視界を手に入れることがないのだと思うと軽く憂鬱になる。……いやいや、このご時世、メガネかけてる人はいっぱいいるんだから。何をぜいたく言ってる。
何よりもいやなのは、メガネは一時的なもので終わらないということだ。これから度数は進行するだろう。このメガネに慣れてしまう頃にはそれだけ視力も下がってくるということで、今感じるこのゆがみや違和感をなくしてしまうということだ。それを適応と言うのはわかるけれど、どうしても今はそれがいいこととは思えなかった。歪みは嫌だけど、慣れるのも嫌だ。幼稚なことを考えているようだが、もとの視力に戻りたい。視力なんて、と楽観する常識的な自分は、商店街の喧騒の中どこかに行ってしまったみたいだ。
多輝がどんなにうわの空で歩いても道を間違えることはない、通り慣れた商店街は、いつもより人が多くて騒々しい。この素っ気なく乾いた季節には、おどけたイベントが必要だ。ハロウィンのにぎわいを、多輝は好意的な観客のスタンスで、いいなと思う。
今日という日は、少なくとも日本のちっぽけな地方都市では、にぎやかな季節が去った後の日々をクリスマスまでなんとか乗り切るために、つなぎとして消費される日なのだということに、多輝は小学校高学年の頃から気づいている。あたりは、ハロウィンを使い切ろうとする人たちであふれている。イベントスタッフらしい大人が、小さな子どもたちに風船やらお菓子やらを配っているのが目についた。こうしたイベントに合わせ、いつになく路上パフォーマンスもさかんだ。子どものみならず、大人にも簡単な仮装をした人がちらほら見える。
その様子を、あちこちにぶらさがったかぼちゃが、ぎざぎざの口元でにやつきながら眺めている。生前の遊び癖と狡賢さのせいで天国にも地獄にも行けなくなった生霊が、今日だけは、善良な子どもたちみんなにもてはやされる。そのジャックってやつは、視力よかったんだろうか。
大原多輝、十五回目の誕生日。模試の結果は最悪、メガネだってもちろん不本意だ。世界は、歪む。
塾の一階には、掲示板がある。個人面談の日程について張り紙が出ていた。先日日程の希望を各自提出したが、それの調整が終わったらしい。
こういう張り紙を、掲示板の真ん前に立たないときっちり読めない。こういう場面で、視力の低下を実感させられる。人の頭越しに読むために、多輝はしぶしぶ買ったばかりのメガネをかけてみた。
「よお、大原」
斜め後ろから声がかかる。学校でのクラスは違うが塾でのクラスは同じ、友人の竹井だ。
「あれ、お前ついにメガネになったんか」
「ああ、さっき買ったばっかり。似合う?」
わざとらしくフレームに指をかけて振り向くと、竹井は薄情に笑って「似合わない」と切り捨てた。本当こいつ、冗談に容赦がない。
ちょっとは気を遣えよと苦笑いを返しつつ、掲示板の横の時計を見る。授業開始の午後七時まではまだ時間がある。宿題は終わっているので何も問題はない。
十五歳の誕生日でもハロウィンでも、結局のところ今日は十月三十一日というなんでもないただの平日だ。しかも金曜日とあっては、週二回の塾の曜日にばっちり重なっていた。普段と同じように過ごし、普段と同じことを気にするしかない。
「竹井、模試の結果返ってきた?」
「返ってきたよ。あんま変わらない。あと五点でもあればいいけどな。面談でそう言われる自信がある。お前は?」
一応、模試や定期考査の成績表は、毎回塾の先生に見せて結果報告をすることになっている。さらに今回はちょうど面談の時期に重なっているので、今日返された成績は進路相談の直接の材料になるはずだ。
「全体的に落ちた。面談が憂鬱すぎる」
面談は来週の日曜日の午後に設定されていた。どうせ塾に来て自習室を借りるつもりなので、休日だからって何の問題もない。ただ手持ちの成績に問題があるだけで。
「そんなの、ちょっと調子悪かっただけだろ? うちの上位層は毎回入れ替わりで誰かがこけるし。なるほど、今回は大原だったわけだ。べつに志望変えろとかは言われねえよ」
今回だけ、調子が悪かった。
こうやって片づけられる程度には、多輝は成績に関して心配をかけない生徒だ。学校でも塾でも、どうせ竹井のように言ってもらえるのは予想がついた。じゃなきゃ県内で一番偏差値の高い高校なんか狙わない。
だからこそ、悪い成績を取ることに実は免疫はあまりない。気にするだけ損だ、と竹井の言葉に便乗して自分に言い聞かせる。
「だといいけどな」
ふと乾いた風を感じてドアの方を振り返る。竹井の五メートルほど後ろでドアが開いて、ちょうど塾生が入ってきたところだった。
メガネのフレームの中で開かれたドアのさらに向こうには、商店街につながる賑やかな交差点が正面に広がる。外の暗くなった通りには、店舗の電灯や街灯が明々と灯って、車が絶えず行き来している。魔を除けるためというより人を寄せつけるために飾られているジャック・オ・ランタンは夜闇の中ぼんやりと光を放ち、まるで宙に浮かんでいるようにも見える。
通りを挟んで向かいの歩道に、多輝は不意に視線を引き寄せられた。視力さえ足りれば、決してあの背格好、顔立ちを見逃さない自信がある。たとえ今みたいに、見慣れない高校の制服を着ていても、髪型が少々変わっていても。人ごみの中を大慌てで走り抜けるその姿を、実際に多輝は見逃さなかった。まるで向こうからフレームの中に飛び込んできたみたいに、多輝の視界にはっきりと彼女は現れた。
「あ」
アリス。
イギリスの偉大な作家ルイス・キャロルが著した、かの有名なおとぎ話の主人公の名前。ただし多輝にとってその名は、ワンダーランドに迷い込んだあの少女を表すものではなかった。
今年の春に卒業した、一つ上の先輩、有沢すみれ。彼女は多輝と同じ、生徒会の役員をしていた。先月引退した副会長のポストは、彼女から引き継いだものだ。その彼女が生徒会の仲間や友人たちに呼ばれていたニックネーム。苗字と名前から先頭の文字をとって、“アリス”。
彼女が中学を卒業してからは、当然ながら彼女と会うことはなくなっていた。それがたった今、車道の向こう側を走り抜けていったのだ。
「……アリス」
喉の奥で、彼女を呼んだ。
つぶやきは、隣にいる竹井にも聞き取れない程度のものだった。
「俺、黒板に数学の答え書かなきゃいけないから戻るわ」
「ん、ああ」
そういえば竹井が当たったんだったな、あの図形の証明問題。
多輝が一瞬ドアの向こうに気を取られていた間に、竹井は時計を確認したらしい。竹井は奥の階段のほうへ消えた。メガネショップから直接ここに来たところだった多輝とは違い、鞄を持っていないところを見ると、もう荷物は教室においてあるようだ。服も学校の詰襟のままだし、放課後はずっと塾でいたのだろう。
授業までは、あと五分。迫りくる秒針と分針から逃れるようにして、多輝はもう一度ドアの外を見た。
左右に通り過ぎる車の間に、アリスの姿を見つける。有沢すみれは、向かいの通りの横断歩道の前で信号待ちをしていた。顔にかかるストレートの横髪を耳に引っかけながら、息を整えている。その姿から、なぜか目をそらすことができない。
――やめとけ。
このまま階段を上がって、教室に入るべきだ。黒板には、竹井が書いた証明問題の解答があって、みんな席についてノートを広げはじめる。いつもと同じ光景が、想像するまでもなくまぶたに浮かぶ。昨日までと同じ、さっきまでと同じ、メガネのない世界に戻れ。そこは、誰もがぼんやりと紛れ込む、自分が本来いるはずの世界だ。
だけど今、メガネの向こうにはアリスがいる。このビルの外には、違う空気が流れている。ふいに、逃げ場を見つけたような高揚が心をざわつかせた。とても親しい、けれど滅多には会えない人物。普通に学校へ行き塾へ行く、中学三年生のつまらない毎日ではかなうはずのないことが、今ならできる。
このざわつきの背中を押すのは、視界の端にちらつく忌々しいメガネのフレームだ。このままこれをかけて、今から授業を受けるのか。べつにかけなくてもいいけど、そのために開始ギリギリの教室でわざわざ前の方の空席を探すのも、なんだかナンセンスじゃないか。
つまらない理由だ。考えているそばから、冷静に「つまらない」と思う。笑える、本当にくだらない。だけど、本当にくだらない偽物は“どっち”だ。
十五歳の誕生日。
大原多輝は生まれてはじめて、塾をサボる。
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