思い出そうとしても思い出せないこと

 昔は絶対に覚えていた、そもそも出会った瞬間があるのだから間違いなく自分が知っているはずのことなのに、なぜか思い出せないことが、最近増えた。忘れていること自体いつもは忘れているのだけど、創作をしていると自分の思いつきのルーツを探りたくて、思いを馳せる。そして、馳せる先がもやで見えなくなっていることに気がつく。

 たとえば、これぐらいくだらないこと。フレンチトーストをつくるとき、卵と砂糖と牛乳、混ぜる順番はどうだったっけ、というような。これはまだいいほう。調べてみればわかることだから。だけど、自分が母から教わった、「間違っていたかもしれないけれども自分にとっては正しかったあの順番」は、もうわからない。

 もう少し創作に近いこと。「桜の樹の下には死体が埋まっている」。美しく大きな桜の樹、その下には死体が埋まっていて、樹は人の命を喰らって花を咲かせる――自分の中にある、漠然とした風景のような絵のようなイメージは、どこで形成されたのか。もちろん一番に確かめたのは、梶井基次郎の短編小説。でも、それを読んだとき、これじゃない、と感じた。自分の中にあるイメージは、小説から立ちのぼってはこなかった。イメージの地層の深さから言って、ずいぶん前から持っているような気がする。中学生の頃読み漁った恩田陸が書きそうなことだな、とも思うけれど、どの小説なのか、ピンとこない。すべて読み直して探すほどでもないから、ずっと引っかかったままでいる。

 それから、高校の日本史の中で知ったはずだと記憶しているのに、教材のどこをひっくり返してもわからないこと。明治時代、開国した日本に多くの外国人が訪れた。政府役人や学者、技術者。その人たちの手記がたくさん残っている。イギリスから来たイザベラ・バードの『日本奥地紀行』や、ドイツの医師エルウィン・ベルツの日記。その中で、「我々(西欧)がこの国を開き啓蒙する必要があったのか。ここの人たちは確かに我々の秩序を知らないが、生活を営み、幸福そうにしているのに」という趣旨のことが書いてあった。趣旨はわたしの記憶にある印象を文章に起こしたものだから、厳密には異なるはずだが、高校生だったわたしはこう解釈して、いいなあ、と思ったのだった。こんなまなざしを向けてくれる人が、この国にやって来た、それがうれしかった。わたしの愛国心が、サッカーワールドカップやオリンピックを見ているときと同じくらい膨れあがった、稀な瞬間だった。あの文章を、わたしは日本史の副教材だった史料集で見たはず、と思っていたのに、大学生になって帰省したときその教材をいくらめくっても、その文章を見つけることができなかった。ではどこで見たのだ? ビジュアル版の大きい方の副教材か? そっちにも、見つからなかった。どうして、授業の中で出会ったと思うのだけど。イザベラ・バードやエルウィン・ベルツを上に挙げたのは、このあたりの人だろうか、教材の出典はこのあたりの本だろうか、という憶測からだ。けれども、高校生の頃にあの文章と出会った場所は、そこではないのだ、絶対。その時代の関係書籍をかたっぱしから当たってみるほどではないから、結局、今もわからないままでいる。

 他人といつ出会ったかは、わりと覚えている方なのだけど、こと、こういったきわめて個人的な出会いに対しては、記憶が弱い。自分の感受性に自覚的でなかった頃の出会いだからだと思う。響いたものを覚えていても、それがその時には「響いている」とわかっていなかった。だから今、残響をたどっているが、うまくいかない。

 けれどこれらのもやもやは、かつての自分の感受性の弱さではなく鋭さを、そして今はその自覚をもわずかばかり身につけられた喜びを、教えてくれる。

 いつか再会できることを淡く期待しながらも、当分は新しい出会いに忙しくしていたい。

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