【短編小説】ワタリ・前編

 あたし、あんたと別れるわ。

 大学に入ってからというもの、あんたは変わってしまったから。あんたは、もう訳がわからない。

 こんな言い方は大袈裟だと、あんたや周りの人は笑うかもしれない。あたしの文句は理不尽だ、ワガママだと言われるかもしれない。でもダメ、あたしにはついていけない。今のあんたには、どうしても我慢がならないのよ。

 あんたとは、出会ってから数えるともうすぐ五年、恋人としての付き合いは四年くらい。

 あたしたちは、地元の高校で出会った。一年生で同じクラスになって、席が近くになったのをきっかけに仲良くなった。数学の授業中に問題が当たると、あんたはあたしを助けてくれた。あんたって文系のくせに数学がとてもよくできるんだもの。羨ましかった。数学で助けてもらう代わりに、あたしは英語のノートを見せてあげた。あんたは英語の予習を全然していなくて、授業中に自分の順番が当たるところだけささっと調べて済ませていた。でも、それではしんどいこともあるんだと贅沢にぼやいていたわね。お爺ちゃんの斉藤先生のときはいいけど、厳しい古河先生の授業をそんな小手先で乗り切るのは難しいって。

 出会ってすぐに他の子たちと同じように形だけ交換した連絡先は、はじめ何カ月も使わなかった。どうせ毎日学校で会うんだし、わざわざ個人的に連絡するような用事はなかったから。あたしたちはすぐに親しくなったし、よく話をしたけれど、その話の中身はずいぶんくだらなかった。次の日、いや、その日、家に帰ったら忘れてしまうくらい、バカな話。でも、楽しい話。あんたとはいくら話をしても飽きなかったわ。あたしたちは、メールのやりとりでドキドキしたり、口実を探して電話をかけたりするような、そんな甘酸っぱい関係じゃなかった。あたしたちの間には、初対面の人同士が交わすあたりさわりのない陽気な軽口がずっとあった。つまり、その場のノリしかなかった。だから電話もメールも出番なし。はじめて役に立ったのは、文化祭の準備で同じグループになったときだったかしら。それも事務連絡だったけど。着信画面にあんたの名前がはじめて表示されたときも、あたしは舞いあがったりしなかったと思う。電話口のあんたの声も、あまりにも普通だった。

 あたしたちには緊張感がなかった。男女の間にあるような緊張感をどこかに放り出したまま、同性の友人のようにしゃべり続けた。そのうち、お互いの性格や趣味なんかも見えてくるようになった。時とともに、どんな形であれ関係は深化するものだから。お互いに深入りしはじめても、あたしたちは退かなかった。どころか、いっそう仲良くなっていった。ここでようやく、あたしたちの間でいつまでも「その場のノリ」が続いていた理由がわかった。あたしたち、とてもよく似ていたのね。だからお互いの言うことがすぐに伝わったし、共感できた。自分の好きなものや、自分の感じたこと、そういうことを真面目に語り合えるほどに、互いを理解するようになった。

 あんたは親友だった。あたしは、あんたのことを男の子として意識したり、付き合いたいと思ったり、そういう気持ちはあまり強くなかった。あんたを思って悩んだこともない。ただ楽しかったの。他の友だちや家族よりも、あんたに本心を言うほうが楽しかった。あたしをわかってくれるあんたの相槌は、他の誰よりもあたしを満足させた。あんたから聞く話には、他の誰の話よりも自然に相槌を打つことができた。あたしはあんたに会ってから、格段におしゃべりになったと思うわ。あんたは、あたしに対してとても影響力を持った人だったのね。お気楽ではあったけど、実のところ、あたしはあんたのことを好きになっていた。

 だから、たまたま一緒になった学校帰りに、交差点で信号が変わるのを待ちながら、あんたに突然「付き合ってくんない」と言われたときは嬉しかった。このときあたしは、あんたの方じゃなく、行き交う車の向こうの赤信号をぼんやり見ていた。ちらりと横目であんたを見上げると、やせた長い首と、耳の下に浮き出た顎のラインが見えた。あんただって、あたしの方を向いてはいなかった。どうせあたしと同じように、前方のどこかをぼんやり見ていたんでしょう。目も合わせないで、あんたは平然と言ったわね。妙な緊張感もなく、いつも話すのと同じ調子で。

 あたしとしては、この告白に、なんの不満もなかったわ。この唐突さ、気取らなさが、とってもいいと思った。ムードも何もないのが、かえって安心したし、気に入った。名前も呼ばない、突然の気まぐれな告白。自動車の騒音のすき間にすべり込むような。「付き合ってくんない」。あんたらしい。センスがある。それもあたしにだけわかるセンス。こんなふうに言ってのけるのは、あんただけ。こんな告白をするあんたのこと、最高だと思った。あたしは「いいよ」と返事をした。あんたの顔も見ないで、平然と。ちょっと浮かれそうだったけど、我慢して見栄をはった。

「いいよ、付き合う」

 付き合ってからも、あたしたちの関係は大きくは変わらなかった。クラスの、仲のいい友だち。暇なときには放課後だらだら話をするのも、お互いに宿題や予習を分担するのも、付き合う前からやっていたことだし、相変わらず電話とメールはあんまりしなかった。

 あたしたちの付き合いの核は、付き合う前から変わらず、おしゃべり。波長が合うというのはこういうことね。思うがまま言っている、その気遣いのない言葉に共感できるということ。飾らない本心が共鳴するということ。

 それにあたしたちは、意見が食い違うこともまったく怖くなかったでしょ。二人とも口達者だったから、二人で遠慮なく議論ができた。その場で組み上げた理屈をマシンガンのように発砲すれば、受け止める相手はその欠陥にメスを入れる。あたしたちは進学校に通う生意気な高校生で、その少しだけよくできた頭をくだらないところに振り向けるのが大好きだったのね。

 別々のクラスで受験勉強を乗り切った後、あたしたちは大学も別のところに進学した。といっても出てきた都会は同じ、行き来をしようと思えばできる距離だったでしょ。電車で快速に乗れば、一時間もかからないくらい。会うことは容易な、プチ遠距離恋愛。

 でも、あたしたちは元々まめに連絡をとるタイプじゃなかった。わざわざ待ち合わせをして会うには、あたしたちは二人ともいいかげんすぎた。会えば楽しいのはわかってた。話したいと思うこともあったわ。けれど皮肉にも、電話が役に立ってしまった。あたしたちは長電話をすれば満たされてしまうことが何度もあった。

 高校生の間に関係が続いていたのは、何の連絡も取り合わなくったって顔を合わせる状況にあったからなのよ。会えば話をする。盛りあがって、長く一緒にいる。そうしてあたしたちはお互いについてしゃべり続けた。意味のあることもないことも、つれづれなるままに、という具合で。そうすることであんたのことを好きでいられた。あんたとの会話にハマっていたし、たぶん、あんたを求めてた。

 あたしたちはお互いに、たぶんどこへいってもそれなりに楽しくやれる人種でしょう。新しい環境に慣れるのも早かった。同じ高校から同じ大学に入った友だちも少しだけどいて、最初から一人ではなかったのはラッキーだった。それからあたしは大学の新歓で知り合ったサークルの先輩に履修や授業について助けてもらい、サークルや学部の友だちとは毎晩のように遊んだ。

「芙由子ちゃんって、彼氏は? いるの?」

 飲み会で、先輩や友だちによく聞かれたわ。

 もちろん、いるって答えた。少しだけ、得意になって。彼氏がいるということにじゃないわよ、あんたと付き合っているということに対して。だってあたしは、あんたを好きだったもの。

 大学で楽しいことがあれば、あんたにしゃべりたかった。あんたがどんな大学生をやってるのかも知りたかった。

 四月に数回電話をしたときは、毎度のように長電話。一度目、あたしから電話をして長くなったからか、二度目以降はあんたがかけてくれた。「俺からかける」とは言わないで、あたかも自分勝手にかけているんだと言わんばかりに、無造作にかけてきた。本当に自分勝手なのか、それとも気遣いなのか。気遣いだとしても、あんたは結局のところいつも気まぐれ。その気取りのなさがあたしは好きだと思った。

 電話であまりにも盛りあがったものだから、二人してゴールデンウィークに帰省した。あんたは全然変わってなかった。髪の毛も染めてなくて、真っ黒なまま。少し伸びた襟足が耳の下で跳ねているのも高校のときのまま。服装もチャラチャラした感じじゃなくて、ダサくはないかなという程度。カーキ色のパンツに、襟と袖口にだけ色のついたワイシャツ、ぺたっとしたタウンスニーカー。ひょろりと細身のあんたに似合ってた。小ぎれいで、無難な感じ。アクセサリーの類はなし。

 あたしは三月に髪を明るいブラウンに染めていたし、メイクもするようになっていた。知っての通り、あんまり濃いメイクではなかったけど。それでもなんとか慣れてきた頃だったから、あんたに「あんま美人にならんでいいけど」とぼそぼそした微妙な褒め言葉をもらったとき、恥ずかしさを含んだ嬉しさを感じた。柄にもなく。あたしの心は「付き合ってくんない」のときの半分も冷静でいられなかった。

 高校という行き場を持たず、すでに地元を出てしまった大学生は、地元での居場所の大半を失ったようなものだった。大学に入りたてのあたしたちは、カラオケもボーリングも下手くそだった(とりわけ、あたしはボーリングが、あんたはカラオケが下手くそだった)。

 あたしたちには、遠慮なく話のできる二人だけの空間があればそれでいい。ゴールデンウィーク明け、あんたはあたしを下宿のアパートに呼んでくれた。あんたの大学の近くで映画を見て、スーパーで買い物をした。割り勘のときには暗算のスピードを競い合う。負けた方が端数を負担。端数と言っても二人で割るから一円だけど。

 あんたの下宿の狭いキッチンで、二人でぎゃあぎゃあ騒ぎながら夕食を作って、缶チューハイを空けた。あたしは終電で帰るつもりだったのに、話しだしたら時はあっという間に過ぎ、気づいたらテレビからは通販番組が流れてた。時刻は朝の四時台を回っていた。

「アホだあ、俺ら。夜通ししゃべってたんかい」

 あんたはベッドの上に仰向けになって、とろんとした目であたしを見上げていた。

「いかん、中毒になりそう」

「人様を麻薬みたいに言うな」

 ひとしきり笑ったあと変にテンションが上がっちゃって、「よし、片づけよう」なんて真面目ぶって、じゃれ合いながら夕飯の片づけをした。

 それから、夜明け前の薄暗い道を歩いてコンビニに行った。

 楽しかった。高校の頃と同じような感じ、でももっと、なんというか、甘く溶けだすような感じ。さらりと流れてしまうのではなく、強い抵抗のなかを漂うような。

 そう、たぶんこの日のあたしは、高校の頃とは少し違う意味で、あんたのことを好きだったのよ。

 けれども、互いに大学での生活が忙しくなると、やっぱり頻繁に会うことはなくなった。連休明け、あたしはバイトをはじめていた。あっという間に夏が来て、あたしははじめての試験勉強にも精を出した。その間、電話の回数も少なくなり、あたしはあんたが大学で何をやっているのか知らないまま、そしてたぶん、考えもしないまま、自分の勉強をしていた。

 試験が終わってから、また少しだけど帰省した。あんたもお盆の前後には帰省すると言うから、また地元で会った。

 地元で待ち合わせたとき、あんたは珍しく待ち合わせに遅れてきた。

 思えばこれも、おかしなことの一つだったのかもね。あたしたちはあんまりたくさん待ち合わせをしたことがあったわけじゃないけど、二人とも遅刻することなんかほとんどなかった。どちらかといえば二人とも、早めに来て時間を潰すようなタイプだったから。

 このとき、あんたは待ち合わせの直前に(あたしはもう待ち合わせ場所に着いていたけど)、遅れるというメールをくれた。だけどそこにはどのくらい遅れるかは書いてなくて、とりあえずあたしは待ってみるしかなかった。でも実際、何分遅れるというほど大きな遅れではなく、十分やそこらであんたは現れた。だから気にしなかったの。あんたにしては珍しいけど、これくらいの遅刻はよくあることだし、これくらいでいちいち怒る人間の方が面倒くさいと思っていたから。

 あんたは以前よりもだいぶ、髪が伸びていた。耳やうなじが隠れ、目にかかる前髪を横に流せるくらいに。ちょっと鬱陶しそうだったから、「髪切りなよー」とあたしは軽い気持ちで口にした。するとあんたはさも言われてはじめて気がついたように、「あー、そうね。確かに」と生返事をした。

 髪型だけならまだしも、その返事や直前の遅刻とあいまって、一瞬、あんたはとてもだらしなく見えた。

 少し遅れて、強い違和感が湧いてきた。

 あれ? 鬱陶しいって思ってたんじゃないの? でもあんたは少し横着だから、面倒くさがってそのままにしてたんじゃないの? あたしはそう思った。高校のときから、あんたが面倒くさがっていることをあたしが言い当てると、あんたは必ず生意気に言い返してきたでしょ。「わざとだよ」とか「言われたらやる気が失せるだろ」とか。そう言いながら、数日のうちに済ませているんだから、ちょっと可愛いな、とかあたしは思っていたわけ。あんたは少しだらしないけど、何がだらしないことかはわかってる人。そのはず。だからその髪だって本当は鬱陶しいって思ってた。そうよね?

 このときは、少し気にかかっただけ。これもささいなことだと思えばすぐに忘れたわ。

 あんたは相変わらず聞き上手で、あたしは自分の大学のことやバイトのことをしゃべりまくった。当時あたしはバイトでかなり鬱憤が溜まっていて、そのことをあんたに話したと思う。あんたが一緒になって「理不尽だ」と言ってくれたことで、かなり気がおさまった。

 あんたはあまり大学の話をしなかったわ、今思えば。

 あのときは、二人がたまたま同時期に読んでた本の話をした。高校生の頃みたいに、微妙に食い違う解釈をめぐって議論した。結局あんたに言い負かされたけど、あんたの物言いにはちょっと感心してしまった。あんたの言うことはとても常識的で、現実的で、筋が通っていた。あたしがどこで共感し納得するかを見込んで、あたしの理解になじむような説明をしてくれた。あんたと話をすると、あたしはやっぱり満ち足りた気分になれたの。

 でも、その夏に返された大学の成績表で、あんたは学期中に受けた授業うち実に半分の単位を落としていた。

 あたしがそのことを知ったのは、大学祭も終わって秋から冬になろうとしていたときよ。

 あんたは何気ない口調で教えてくれた。そこは何気なくじゃなくて、何か気遣ったほうがいいんじゃないのと思ったわ、あたしにじゃなく自分にね。

 いや、あたしにも気遣えと思った。

 なんせお盆に会ってからその時点まで、あたしたち一度も顔合わせてなかったんだから。

 それどころか、秋が深まってからは電話の回数も減っていた。時には電話がつながらないこともあった。あたしだってそれなりに心配していたのよ。

 久々に連絡が来て「会おう」と言うから会いに行ってみれば、あんたはぬけぬけと言ったわ。

「インド行ってた。これお土産」

 あたしの心配もつゆ知らず、あんたはエスニック調の変わった首飾りを、喫茶店のテーブルにじゃらんと広げた。赤っぽい革ひもに、繊細な細工をほどこした石が通してある。もはや値段も想像できない風変りなお土産に、あたしはどうしていいかわからなかった。確かにテーブルに広げて見るぶんにはきれいではあったわ。だけど、あんたのへらへらした機嫌のいい顔と首飾りを見比べて真っ先に思ったのは、「こんなのに合わせる服なんか持ってるわけがないだろ」ということだった。

 というか、それ以前に、インドって何?

「いや、ボランティアでね。二週間ぐらいだけど」

 あたしは今度こそ素直にびっくりした。

 あんた、ボランティアなんてするっけ?

 なんというか、学校行事とかではそれなりに楽しんでやっちゃうタイプだろうけど、そんな、わざわざ好き好んでやる人だっけ? しかも、そのために海外行くようなアクティブな人だっけ?

 しかもその時期は大学の学期の最中だったはず。休暇中じゃない。

 だからあたしは訊いたのよ、「あんた、学校は?」って。

「あんま行ってないかなあ。けどまあそれ言ったら前期からそうだから。前期、半分落としてるし」

 大学生が落としたと言ったら単位か財布かに決まってる。あるいは通学定期か。せいぜいそれくらい。財布や定期ならあたしは笑ってあげられた。でもこのときはもう疑いを差し挟む隙間もなく、「単位」だということは明らかだった。

 大学をちょくちょくサボるくらいなら、あたしは何にも驚かない。あたしだって、たまにはサボるから。出席をとらない授業をサボって、バイトに行ったり自動車学校に行ったりするもの。でもさすがにテストは真面目に受ける。いい成績ばかりじゃないにしても、単位は取る。いや、さらに譲るなら単位だって、いくつか落とすくらいはしょうがないかなって思う。先生が変わった人だったり、試験でヤマがはずれたりしたらありうることだし。でも、あんた、半分って何よ。それ、進級できるの?

 あたしは、自分の思う常識のラインとあんたの現状を、冷静に見比べてみた。あんたの持ってる「常識」は、あたしの「常識」とかなり近似値だったはず。それなのに、それがこのとき大きくズレている気がして、あたしはとても、嫌な感じがした。なんだか少し、怖かった。

 それでもあたしはまだ、あんたを落ちぶれたとは思っていなかった。がっかりするというより、淋しかった。あんたが簡単に大学を休んで海外に行ってたことが。あたしに告げることもなく。

 何か、あんたから大事なものが欠けていくような気がした。それも、これまであたしを安心させていた何かが。

「外国行くとか、そういうのは言ってくれてもいいじゃん。電話つながらなくて、ちょっと心配したし」

 心配、という言葉に、あんたは少し表情をかたくして「そっか、ごめん」と目を伏せた。

「ごめん。急に行くってなってバタバタしたから。でも帰ってきて一番に連絡したのは芙由子だよ」

 あんたはあたしの顔を覗き込むように直視していた。珍しいことで、あたしは不思議な心地がした。あんた、いつの間に、そんな真面目にあたしの目を見て口が利けるようになったのよ。

 真剣な目で見つめられても、照れくささは感じなかった。むしろ、どうしたんだろうと思ってあたしも張り合うようにあんたの目の奥を見つめ返した。けど、あんたの考えていることはわからなかった。そりゃそうよね、あたしはあんたのこと、こんなふうに探ったことなんかなかったから。あたしたちの間を飛び交っていたのは、熱い視線でも甘い囁きでもなかったでしょう。生意気で冗談半分で、けれどもストレートで正直な、ものすごい量の言葉の束よ。

 だからこのときもあたしは、あんたの話を聞きたかった。あたしが心から楽しみ、共感できるあんたの言葉。相槌もツッコミも自然に口に出ちゃうような。あたしと似た感性でもって語られる、あたしの考えていないこと、あたしの知らないものに、触れさせてほしかった。いつもみたいに。高校生の頃みたいに。

 あたしね、このとき、自分がインドに嫉妬してるんだって思うことにしたの。あたしに言わずに外国に行くなんていう大きな経験をしたあんたが羨ましくって淋しいんだって。確かにそれも嘘とは言えない気がしたの。あたしはあんたに置いていかれたような気がしたんだと思う。あんたがボランティアなんてやるってことをあたしは知らなくて、あんたがひょいと外国に行けるような行動力を持ってるってことも知らなくて、あたしはそれが悔しかったんだと思う。あたしの知らないことを、すぐに共有させてくれなかったから。

 それに、こんなことで腹を立てて口うるさく文句を言うなんて面倒くさい彼女だ、あたしはそんなんじゃない、とも思ってた。あんたは浮気したわけでもないんだし、と。

 そう思って、あたしはあんたにインドに行った話を聞かせてよと話を振った。あんたは喜んで話をしてくれた。興奮しているようだった。

 でも、どうしてかしら。

 あたし、その話あんまりおぼえてない。おもしろい話題のはずなのにね。

 あたしがおぼえているのは、あんたが帰りがけに首に巻いたエスニック風のマフラーが、いやに派手な色をしてたってことだけなのよ。

 それからもあたしたちはたまに電話をし、たまに会った。大学に入って最初の年末年始は一緒に帰省もした。それ以降は、あんたは地元に帰らなくなった。長い春休みも、次のお盆も帰ってないでしょう。いや別に、そのことはいいの。あたしだってだんだん帰る回数や日数は減ってるし。

 だけどあんたは地元や家族とも遠ざかっていくだけじゃなく、大学にもますます行かなくなっていた。大学生活二年目、あんたは科目登録さえもしていなかった。

 海外との行き来が激しくなるにつれ、かけた電話がつながらない頻度は高くなったけど、あんたが電話で自分から「会いたい」と言い出す頻度も高くなった。海外から戻ったその日か、あるいはその翌日には、必ずあたしに電話をくれた。飛行機を降りてすぐに電話をかけてきて、今から直であたしのアパートに来たいなんて言い出すこともあった。

 そういえば一度だけ、今から来たら終電なくなって帰れなくなるよって断ったのに、それを無視して押しかけて来たこともあったわね。あのときは本当、どうしたのかと思ったわ。オートロックで締め出すこともできたけど、そういうわけにもいかないし、とりあえず部屋に入れてシャワーを貸してあげた。

 浴室から出てきたあんたは、髪もろくに乾かさないままベッドに這い上がってきてあたしに抱きついた。そんなに会いたかったの、とあたしはからかった。そしたらあんたは、ふざける余裕の最後の一片を使って「うーん、わからんねえ……」と言ったきり、すうすうと子どもみたいな寝息を立てはじめた。あたしはあんたの濡れた頭にタオルを巻きながら、そんなに疲れてたんなら無理に来なきゃいいのに、と思った。そして、そんなにあたしに会いたいなら外国なんか行かなきゃいいのに、とも思った。でもあたしは一度も、あんたに行かないでと言ったことはない。

 この頃、あんたの下宿は行くたび物が増えて雑多になっているような気がしていた。そりゃ、最初に行ったときは独り暮らしがはじまって間もない頃だったから物が少なくて当然かもしれない。でも、それにしたって今は何に使うのかわからないような物までたくさんあって(たぶんまた外国に行って手に入れたんでしょう)、とても無秩序で、だらしがない。本も増えてた。あたしたちはもともとインドアで、読書が好き。あんたは地元にいるときから、本はたくさん持ってた。引越しのときに地元からたくさん持ってきていて、はじめから大きな本棚に、本を並べていたわ。でもあんたは今、本を床の上に積んでる。崩れている山もある。あんたは物を丁寧に扱う人だったじゃない。本棚にまだ余裕のある段があるのに、どうして並べなくなってしまったの?

 思ったけど、久々に会ってアパートに入るなりそんな小言を言うのは気が引けて、あたしは崩れた本をそっと整えることしかできなかった。会うこと自体は楽しかったし、話がしたかったから、あんたの機嫌を損ねたくなかったの。

 当然のごとく、あんたは会うたびほぼ外国帰り。大学に行かず、てきとうにバイトをしてお金を貯めては、海外に行くと言っていた。

 この放浪癖を、実家のご両親は知ってるの?

 あんたが外国での出来事をおもしろおかしく語っているとき、あたしは常にそのことが気にかかって、純粋に話を楽しめずにいた。

 そしてその気がかりは、思い過ごしにはならなかった。

 あるとき、丸一月くらいあんたの携帯がつながらなかった時期があった。最初は「忙しくて出られないのかな」、次に「またボランティアでどこかに出かけてるんだろうか」。けれどもあまりに続けて「電源が入っておりません」と言われたら、さすがに心配になる。

 どうしたんだろうと思っているその矢先、あんたの実家から連絡があった。厳密には、あんたの妹の佳弥ちゃんから。楽観的なあたしは「なあんだ実家に帰ってたのか」と思ったのに、電話に出てみれば、佳弥ちゃんが、あんたのこと知らないかってあたしに聞く。これには本当にびっくりした。あんたのお母さんも電話に出た。あたしはあんたの行方について「知りません」としか言えないけど、その言い方に悩んでしまうくらい、あんたのお母さんは必死だった。あたしは何にも落ち度がないはずなのに、ものすごく申し訳なかった。とにもかくにも、連絡があったらすぐにお知らせします、と言うしかなかった。

 しかもその電話で、あたしはあんたについて衝撃的な事実を聞いてしまったわ。佳弥ちゃんが教えてくれた。

「大学に休学届、出したんだってね」

 あんたに、とてもとても、腹が立った。

 あたしは決意した。今度こそ、あんたに問いただすべきだわ。

 それから数日して、あんたから連絡があった。

 空港ついたところだよ、と甘ったるい声でのんきなことを言ったアフリカ帰りのあんたに、あたしは努めて冷静に言った。

「今すぐ実家に連絡しな」

 そしたらあんたはごねて、あたしがなぜそんなことを言ったのか聞き出したわね。それであたしが、佳弥ちゃんから電話があったと答えたら、あんた、自分がなんて口走ったかおぼえてる?

「ってことは、佳弥のやつが……」

 あたしに向けて言ったんじゃないみたいだったけど、あたしは聞いたわよ。最後のほうはぶつぶつ言ってて聞きとれなかったけど、あんたの口調ははっきりおぼえてるわ。「佳弥のやつ」。なんでそんな口が利けるのよ? 佳弥ちゃんとあんたはそう仲の悪い兄妹にも見えなかった。少なくともあたしたちが地元を出る前はね。それなのに、あんたがあんな言い方をするのを聞いて、あたしは悲しかった。

 佳弥ちゃんもお母さんも、あんたを心配しただけじゃないの。連絡も取らずに勝手にふらふら出歩いていたのは、あんたのほうでしょう?

 そうよ、あんたは勝手だわ。留年して、休学して、海外に飛んで行く。家族を振り回して。アパートの部屋はぐちゃぐちゃ、携帯もつながらない。自分が日本に帰ってきて、都合のいいときにだけ、ひょいと電話をかけてきて、「会いたい」。いいかげんにして。

「どこに行ってたのよ、今度は?」

「だからアフリカ……」

「そんなことはどうでもいい!」

 あたしの言ってることは支離滅裂だった。でも、わかれよと思った。察してよ、あたしがどういう意味で「どこに行ってたのよ」と尋ねたか。素直に「アフリカ」なんて答えを求めていると、本気で思ったの?

「大学は? どうする気?」

「ちょっとちょっと、落ち着こうよ、芙由。話飛んでて訳わからん。どうした、うちの親になんか言われたの?」

 話のどこが飛んでるっていうわけ? 全部つながってるでしょうが、あんたに。

 あたしはすっかり頭に血が上っていたけど、悔しいことにあんたの普段通りの優しげな話し声を聞いているうちになんだか落ち着いてきて、結局「会って話そう」というあんたに頷いてしまっていた。あんたはときどき昔と変わらないところもあって、あたしはそれを見つけると無意識に縋りたくなったの。習慣というものはおそろしいわね。

「井戸を掘るボランティアでさ」

 待ち合わせたカフェで、あんたはアフリカへの旅についてそう説明した。

 確か、アフリカのギニアだったっけ? もう、うろ覚えよ。この日、あたしはもうあんたの話を、身を入れて聞くことはできなかったんだもの。

 あんたは鬱陶しいを通り越して肩まで伸びた髪の毛を、うなじのあたりで一つに結わえていた。白かった顔は日に焼けて浅黒く、ところどころ皮がむけていた。おまけにあごには大きなかさぶたなんか作っちゃって、とんだ男前だこと。

 それから、指を怪我してた。親指の付け根に、はがれかけた絆創膏。その手を見て、あたしは動揺した。

 ――あんたの手って、こんなだっけ?

 日に焼けているだけじゃなく、傷跡がいくつもある。干からびたようにかさかさとして、ひび割れた皮膚。手のひらは豆だらけで固い。細長くてきれいだった指も、なんとなく太くなったみたい。短い爪は、切り揃えてあるんじゃなく、割れていた。表面もざらざらと白く、指によっては内出血をおこして赤黒く血が溜まっている爪もある。断面は汚く、泥が染みついたみたいに濁ってた。

 これが、あんたの手?

 あんたは本やペンの似合う、白くて大きくて細い、きれいな手をしていたのに。あんたは楽器なんかできないくせに、ピアノを弾きそうなくらいしなやかな手をしてたじゃない。

 あたしはこんな武骨な手をした人、知らないわ。こんなの、あたしが知ってるあんたじゃない。

 あたしが知っているあんたは――。


(つづく)

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