大富豪になりたい。

今年で28ともなると、中々トランプでゲームをするシチュエーションは来ない。カードゲームに限らず、テーブルで遊ぶようなゲームをやる事は滅多にない。
小学校低学年の頃はよく親とボードゲームを半ば無理やりやっていたな。今なら親の気持ちがわかる。「なんでこの忙しいのにゲームやんなきゃならねぇんだ」と思うのはそりゃそうだよな。俺も子供ができたら無理やりジェンガとかやらされるんだろうか。多分だけど子供なんて絶対下手じゃん。上手く負けてやるのも難しいのかな〜。と20年越しくらいに親の気持ちを慮る。

もう少し歳をとるとトレーディングカードが好きになって友達とやるようになった。今思えばめちゃくちゃ弱かったな。そもそもそんなにカードを買ってもらえなかったのでレアなカードは手に入らなかったけど、それを差し引いても多分めちゃくちゃ弱かったと思う。
高校生くらいの時にリバイバルみたいなのが起きて、当時の同級生とやってみたけどやっぱり弱かったもんな。
多分戦略とかそういうことを考えるのがかなり下手で、それは多分カードに限ったことじゃなくて。いやー、先が見据えられる立派な大人になりたいですね、としみじみ思う。
もしかしてみんな子どもの頃からカードゲームでそういうの磨いてたんですか…?先に言ってよそういうの…。

中学生になると先輩に数々のトランプゲームを仕込まれた。無論、「ババ抜き」「神経衰弱」「7並べ」なんてのはレイムだ。ダセェやつがやるゲームだ。(本当はそんなこと思ってないけどそういう雰囲気だった)
集まってやるのといえば「大富豪」「ウィンクキラー」「主犯共犯」が多かった。なかでも大富豪はもう多分一生分やった。
基本的に男子中高生なんてのは暴力性の塊なので、「都落ち」で大富豪から大貧民に落ちるとか、ウィンクキラーで負けたやつの罰ゲームとか、主犯共犯で誰かをぶん殴る(比喩です)とかがやりたかったんだと思う。知らんけど。
とにかく我々のトランプゲームといえば「大富豪」だった。運の要素とゲームの要素がどちらもあって、常に勝てるとは限らない面白さがウケていたのかもしれない。いや、詳細な分析なんてあんまり関係ないかもな。他に選択肢がなくて、「まぁ大富豪でもやるか」というのが自然な流れだった。

今思えば大富豪なんていつでもできるものだし、だからわざわざやんなくてもいいんだけどとにかくする事がないからやっていたんだと思う。この歳になっちゃうと中々大富豪どころかトランプで友達と遊ぶことなんてないからな〜。かと言って「めちゃくちゃ大富豪やりたい!」みたいな日って別にないので、懐かしい思い出としてしまっておくくらいが多分丁度いい。

面白かった(インタレスティングだった)のはローカルルールの類だ。僕は寮に入っていて、全国から集まってくる人たちが全国から集まってくるルールで遊んでいた。
世代でもちょっと(世代と言っても一個二個の違いなのに)別のルールが入ってたりして、先輩と大富豪をやると「はい10捨て」みたいに新ルールを出されて「え、そんなのアリなんすか??」みたいな気持ちになっていた。
それでも大体はほとんど共通のルールが認知されていて、ゲーム前に確認をする。「え、7渡しとかアリ?」「11バックは9切りでいいよね?」みたいな。
今思うとまるでジャズのセッションだな。自由の中からルールを決めて一つのものを作っていく。そう考えるとアツいな。いや、多分全然違うけど。

とにかく、大富豪は僕の青春だった。暇さえあれば大富豪。暇がなくても大富豪。花札や麻雀は(一応)禁止されていたのであまりやっていなかったし、麻雀に至っては今でもルールが分かってない。

無論、「麻雀やっておけばよかったな…」と思うこともなくはない。高一の時にアルバイトしていた山小屋でお兄さん(多分当時の年齢は今の俺と同じくらい)に基礎の基礎の基礎くらいは教えてもらったのだが、山を降りた後は周りに誰も麻雀をする人がおらずせっかく教えてもらった事を全て忘却した。今思えばもったいない事この上ないな。友人を巻き込んで練習とかすればよかった。
とは言っても後悔先に立たず。今さら麻雀友達を、ドのつく初心者に付き合ってくれる友達を探すのはそれなりに大変というか、結構めんどくさい。
学生の特権は「学割」とか「遊び」とかだけじゃくて、「できない」という事を許容してくれる友達の存在だと思う。もちろん、今からだって遅くはないしやる気があればなんだってできるんだけど、学生時代と比べると「やる気はあんまりないけど試してみたい事」を一個やるのに必要なカロリーが段違いだ。
それでいうとたまにキャッチボールとかしたい気持ちは、今はどこにもやることができないで燻ったままだ。学生時代の暇さえあればキャッチボールしてたの本当になんだったんだと思いながらめちゃくちゃ楽しかったなとも思う。

話を戻して、大富豪は大学時代もちゃんと流行っていた。いや、「流行っていた」と言うと語弊があるかもしれない。当たり前に存在していた。酒飲んで酔っ払ってもはや何も話すことがなく、ただカードゲームで時間を無為に過ごす時間は今となっては尊き思い出であるが、やっぱりよくよく考えると無駄ではある。しかし、無駄を愛せる時間はあの時にしかなかった。
大学の食堂で意味もなくカードを配っている時が1番楽しかったかもしれない。
そういえば一度意味もなく人生ゲームを買って食堂に持って行ったことがあったな。人生ゲームって結構時間がかかる割に勝ち負けもスッキリしなくて、泊まりがけの旅行とかならまだしも大学の休み時間にやるのにはあまり適してないっぽかったな。しかも意外と高いんだよな。まあ、あれも楽しい思い出としてとっておこう。しかし人生ゲームに関しては本当に大人になるとやらないな。まず誰も持ってないし。実家に、かなり昔の人生ゲームがあったのは記憶しているがそれを遊んだのも家族で数回しかないと思う。両親はいつどのタイミングで人生ゲームの購入を決めたのだろうか。不思議だ。
一応断っておくが勘違いして欲しくないのは僕は決して人生ゲームdisをしたいわけではないということだ。確かに人生ゲームは楽しいが生き急ぐ学生たちは常にスピード感を求めていて、まさに人生のように長く短い旅をするほどの心の余裕はなかっただけの話だ。

しかし我々の大学には大富豪の他にもう一つ大きな派閥があった。UNOだ。と言っても所謂普通のプレースタイルではない。かなりスピード感を重視したスタイルは、1人が上がればそこでゲームは終わり。あとは手持ちの札の点数合計で順位が決まるというかなりアグレッシブなルールだった。今思い出してもかなりアツいルールだったな。勉強の合間(というほどちゃんと勉強はしていなかったが)にちょろっと1ゲームだけ、とかいう遊び方ができるのはあのルールならではだ。なお、僕は普通に意志が弱いので1ゲームだけとかはできずに無駄に長時間をUNOに溶かしたりしてた。無限に続くようなカードの出し合いも、夜がきてそれが有限であるということを知ってすごすごと帰路に着くのであった。
そんなわけで我々の食堂は毎日カードに侵略されていて、たまに誰かが新しいボードゲームを持ってきても数回遊べばいつの間にか倉庫に移動していて、残されたのは結局2種類のカードだけになっていた。

今ではもう色褪せ始めてしまったカードゲームの記憶。取り戻せるのは年に一度集まる大晦日の年越しくらいで、ダラダラとテレビを観て、飽きがきたら徐にカードを出して遊ぶ。久しぶりに会うけれど話すことはほとんど変わらなくて、大富豪のルールもあの頃と一緒で「9切りでいい?」とかやってるのだ。それが今はたまらなく楽しい。強いとか弱いとか、大富豪にはありそうでなさそうで多分ちょっと考える要素もあるんだけど、今更負けたやつに無理やり酒を飲ましたりもしないし、ただ一緒に過ごす時間が面白くてやってるだけみたいなのがちょうどいいんだろうな。

これからも年に一度くらいは大富豪になりたい。年々徹夜が体に与えるダメージが大きくなったりもするし、正月だからといってやらなきゃいけないことが全部なくなるわけでもないから、昔みたいに完全に気を抜くことなんてあんまりできやしないけど。たまには何も考えずに一心不乱に大富豪を目指す夜があってもいいよね、と今から今年の大晦日を楽しみにしている。

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