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Late Night (with you)

『奏? どうしたの、大丈夫?』

 帰宅早々、親を驚かせてしまった。モノに当たるのは悪癖だと自分でもわかっている。これくらいなら大丈夫だろうと思って壁に投げつけた枕は想定よりも何倍も大きな音を立てて、沢山のホコリと、親の心配と、罪悪感を掻き立てた。

『……ごめんなさい。頭冷やしてくる。帰り、遅くなるかも』

 着ていた服を脱ぎ捨てて、タートルネックニット、ジャケット、コート、ジーンズ。マスクとニット帽。背中から聞こえる親の声がまたちりちりと心臓を握るのを無視し、私は冬風靡く夜の街に飛び出す。

 こんなはずじゃなかった。今日は素敵な甘いひとときになるはずだった。

 社会人カップルが行くようなショッピングモールでのお買い物、ちょっとお高いディナー、二人がけソファーのカップル席でのコーヒータイム。久しぶりのオフの日のデートコースは全部が全部思い描いているよりも少し上の展開で、私が浮かれていたことは否めない。

 だから、マグカップの底が見えてきた頃、我儘を言った。『ムードいまいち無い』、違う、そんなことが言いたかったわけでもないのに、今なら何でも叶えてもらえる気がしてしまって、でも走る舌を止めようと思ったときにはもう彼は困った顔をしていて。小さな溜息一つの後に、顔を少しそむけながら、腰に手を回してきたのだ。

 そして体に緊張が走るよりも早く、その手を払っていた。彼はばつの悪そうな顔をして「ごめん」と言い、細い笑顔を作って、それの意味するところがあまりにも体から生気を奪うものだから、私はその場から逃げ出した。自分が何をしたのかを認識したときには、もう自宅のベッドの上だった。

「……どうしよう」

 どうしようの1。どう、女優になりきれなかった速水奏の不始末を謝ったものか。もう少し上手くやれなかったものか。逆に少し寄りかかって受け入れるなり、ひらりと躱すなり。後悔してももう遅い。謝るなら明日しかないだろう。今晩は電話するにしても例の公園に呼び出すにしても、心が無理だ。ついていかない。ごめんなさいの一言は、きっと出てこない。

 どうしようの2。何も考えずに飛び出してしまったが、どこに行ったものか。こんな時間に押しかけても迎え入れてくれるような友人は、二人。それか、近場の映画館に逃げ込むか。それがいい。二十二時のナイター上映なら、なんとか間に合う。終電のことは、後で考えよう。

* * *
 電車で二駅、徒歩五分。昔からお世話になっている文芸座の自動券売機の横に、私の顔を見るなり駆け寄ってくる、見慣れた顔があった。心臓が一瞬鼓動を忘れ、代わりに心が跳ねる。

「何。なんでいるの」

「うん。お母様から電話があって、『飛び出して行ったんだけど何か知らないか』って。山勘で来たんだけど、アタリだったな」

「そう。一本観たら帰るから」

 違う。そうじゃない。そうじゃない。千載一遇、親が思い当たる行き先としてこの映画館を告げていたのかもしれないけど、それでも彼がきっと、一晩たりとも私がこの罪悪感を抱えて眠らせまいと、会いに来てくれたのだから。

「じゃ、俺も。……えっと、チケットってどこで買うんだっけ」

「……買ってきてあげる。席、隣でいい?」

 彼が一瞬眉を跳ね上げ、困ったように笑う。

 そう。これくらいが、私にはまだ、ちょうどいい。

* * *

「なんだ、その、奏」

「なぁに。上映が始まったら喋っちゃ駄目よ」

「わかってるって。その……さっきは、すまん」

「手。ほら、映画始まっちゃう」

「え」

「……俺も少し急ぎすぎたと思って」 

「手」

「……はい」

「……こっちだとイマイチね。肘掛け、上げて?」

「近い近い」

「手。肩に」

「……はい」

「よく出来ました。もうちょっと下」

「奏、無理しなくても」

「いいの。うん。私もこういうムードは少し練習しないとね。もうちょっとグッと寄せてくれてもいいのよ」 

「……奏」

「しー。ありがと、来てくれて。嬉しい。二時間、よろしくね」

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