カエルのうた

 口笛の吹き方を覚えました。

 あの人は事務所の机で作業をしている時、特に夕方になると唐突に口笛を吹き始めることがあります。曲目はポップソングであったり、コンビニエンスストアの入店音、ミュージカルの主題歌など、多岐に渡ります。私がいつしか彼のために演奏したフルートの独奏曲も、彼のレパートリーの一つでした。体を左右に揺らしながら、どんな曲調であっても軽快なアレンジを施し、ひゅるひゅると上機嫌な音を奏でる彼が、彼が作るその口元が綻ぶようなひとときが、私は好きでした。

 ある日、私は彼の口笛に合わせてみたいと唐突に思い立ち、彼がメロディを奏で始めたと同時に大急ぎでフルートを組み立て、アドリブで合奏を試みたことがあります。結果から言えば、「ゆかり、何やってんの」と呆れ気味怒られてしまいました。思い返してみると、当然のことです。フルートに手を伸ばしたときに思いとどまれなかったことが悔やまれます。

 ですが、彼と一緒に一つの旋律を奏でてみたいという衝動は確かに芽吹いてしまっていました。どうすれば叶うかと考えた私が至った答えは、私も口笛を吹けるようになればよい、という至極単純なものでした。

 浴場で。自室で。ひっそりと、練習しました。最初はひゅーひゅーと情けない音しか出ませんでしたが、彼のように流麗に奏でられるようにと研鑽を重ね、ひと月もすれば簡単なメロディなら吹けるようになりました。

 それからは、合奏できるときは今か今かと待ちわびる日々でした。夕方、事務机で作業をしている彼を目の端に捉えながら、今日は何の曲だろうか、私の課題曲であったりするだろうか、そうであったら私の声が彼の耳に残っているのかもしれない、などと思いに耽り、浮つく心を手元の文庫本で必死で隠していました。

 しかし、彼が私の前で口笛を吹くことはありませんでした。私がそわそわと落ち着かないことに何か感じ取ったのか。それともまた私が妙なことを始めることを危惧しているのか。ともあれ、今日という今日まで、合奏の夢は叶わずにいます。

 でも、私ができることはただ一つ。事務所のソファーの上で特に読む気もない本を片手に、彼の音を待ち続けることだけです。彼に直接、その話をするわけにはいきません。偶然を装い彼の音に不意に私の音を重ね、目が合い、少し微笑む。そんなやりとりに、一重に憧れているのです。

 けれど、待てども待てども、その時は来ません。

「ゆかりちゃん、最近張り詰めてる気がしませんか」

 相変わらず待ち望むメロディが聞こえてこない私の定位置を離れ、給湯室でお茶を淹れていると、事務員の千川さんが彼にそう声をかけるのが扉越しに聞こえてきました。

「そうですね。肩に力が入っている、というか。仕事中は普通なんですけど」と、彼が答えます。

 それは、事務的な会話でした。彼と千川さんが感じ取り、心配して下さるくらいに私は緊張してしまっていたのでしょう。口笛のことに気をとられてしまい、しかめっ面でもしてしまっていたのだと思います。一つのことに頭が囚われてしまうと自分のことや周りに気が回りきらなくなってしまう、私の悪い癖です。

 だから、千川さんは私が何かおかしいと感じ、状態を確認するために彼に問いかけ、彼はそれを認識していることを伝えた。それだけのことに、他意の挟まる余地などきっとなく。故に、私の四肢を襲った得体の知れない虚脱感は、私の心が独り相撲をして産みだしたものに違いありませんでした。しかし頭でそのことを認識したところで、こみ上げてくる何かを止めることはできません。喉の奥が、じわりと重くなったような気がしました。

 ここから離れないと。その一心で、表情を固定させ、湯気の立つ三つの湯呑をそのままに、給湯室を飛び出しました。執務室の二人に外の空気を吸ってきますと告げ、薄臙脂色の傘を傘立てから抜き取ります。目の端で捉えた千川さんは、ぽかんとしていました。彼の顔は、今見てしまえば何かが壊れてしまう気がして、見ることができませんでした。

 事務所の扉をいつもより強く開け放ち、母が見れば怒るであろう乱雑さで傘を開き、カンカンカンと響く自分の足音から逃げるように階段を駆け下り、表の通りに出ます。傘の上では、梅雨の雨音が調子よくリズムを刻んでいました。 

 ぽつ。

 ぽつ。ぽつ。

 その音に急かされるように、私は歩みを早めます。

「何をしているんでしょう。私」

 事務所の隣の細道を抜け、住宅街を通り、遊具もない小さな公園に辿り着いた私の口を真っ先について出たのは、その疑問でした。

 飛び出す必要など、どこにもなかったのではないでしょうか。涼しい顔をして千川さんと彼にお茶を出して、ソファーに戻り、強張らないように心掛けて読書に戻ればよかったのです。そうして私の雰囲気が和らいだなら、彼も、千川さんも、一過性のものだったと理解してくれたかもしれません。彼は私に気を払うことを辞め、いずれは合奏のことも叶ったかもしれません。

 なぜ、もう少し上手く振る舞えないのでしょう。

 なぜ、清純令嬢などと名乗り世間に名前を売りながら、彼の前ではそのように在ることができず、打たれ弱く戸惑いやすい生き物になってしまうのでしょう。

 後悔が自責の棘を纏ってずしりと私の心に掌を乗せたのか、胸がきりりと痛み、頭が風船のように軽くなり、膝から力が抜けていきます。雨が降りしきる猫の額のような公園には座れる場所などなく、私は重さに負けてその場でしゃがみこむことを選びました。

 傘を肩に預け膝を抱えると、突然、私という存在がとてつもなく矮小なものになったような気がしました。雨音に飲み込まれ、目の前でころりころりと滴を零す植え込みの紫陽花と、灰色の雨空が私の世界の全てになってしまったようでした。

 惨めで、憐れで、どうしようもない自分に呆れて溜息をつくと、次第に視界が滲み始めます。

 雨なら。独りなら。少しくらい、泣いてもいいはず。

 そう思い、膝を抱える腕に顔を寄せると、紫陽花の足元にいる先客が目に入りました。

「……カエル」

 ぷく、ぷくと頬を膨らませ、くわっくわっくわっと鳴く、小さな緑色のアマガエルでした。

「寂しそう……です、ね」

 話しかけてみたところで答えなどあるはずもなく、ただただ、カエルは鳴き続けます。

 一分、二分、十分。ただ、鳴き続けます。

 雨の中、独りで、通りすがりの私以外の誰に聞かれることもなく。誰かがその歌を聞きつけてくれることを夢見ながら歌い続けるその姿は、寂しそうどころか、私の幾倍か立派で、力強くすらあるように感じられました。

「……ふふ」

 つい、笑みが零れます。

 私は「井の中の蛙になるな」との父の言いつけを守り、地元青森を離れて東京に来ました。井戸の外の広い世界は面白くて厳しくて、私はいつも井底から出てきた蛙であるという焦燥感に追われて、不器用に、必死に海を泳いでいました。

 けれど、カエルであることも案外悪くないかもしれません。小さい世界の中で跳ね回り、狭い空が全てで、体を震わせながら歌うしかできなかったとしても。誰かが探しにきてくれることを信じて歌うその姿は、私の目には眩しく、高貴で、美しく映りました。

 ああ、そうだ。

 雨なら。独りなら。私も少しくらい、鳴いてもいいはず。聞こえたなら探しに来て欲しいのは、私だって一緒です。

 唇をすぼめて、舌を歯の裏に軽く当て。湿った生ぬるい空気を吸い込み胸に溜め、最初はドの音から。

 簡単な、ハ長調の歌。貴方のことが全ての、私の歌。

・・・

 

「……ゆかり、何やってんの」

 五分ほどアマガエルと肺活量を競い合った頃でしょうか。呆れ気味の声が背後から、私を探しにやってきました。

 上がる口角を抑え、振り向いたらなんと言い訳をしたものか、とりあえず謝るべきか思考を巡らせていると、紫陽花の足元で変わらずに佇む緑色の小さな友と初めて目が合いました。

 弾む心に応え、立ち上がり。

 胸に溢れる喜びに任せ、笑みを隠さず振り返ると。

 去りつつある雨足に紛れて、彼の心が跳ねる音が一つ、聞こえたような気がしました。

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