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藤原肇、夜

 人差し指と中指の先に取った椿油を、髪の毛先に。

 薬指に取った苺の練り香水を、耳の裏に。

 どちらも、特別な日にしかつけないものです。

 椿油は、母からの贈りものでした。十五歳の誕生日、そのガラスの小瓶は手のひらに置かれたとき、とぷりと小気味よい感触を残しました。添えられた「大事に使うのよ」との言葉の通り、使う機会を慎重すぎるほどによくよく選んで、開けています。

 母は、日頃着飾ることのない人です。備前の窯元の家の嫁として、慎まやかに割烹着に身を包んでせっせと家事に勤しむ姿が、私の知っている母の姿のほぼ全てです。私と同じ、ふわりと波打つ癖のある毛先を結わえるために鮮やかな紫や赤の編み紐を使うことはありますが、余所行きのときを除いて、日頃それ以上のおしゃれをしているところは見たことがありません。余所行きのときであっても、少し良い着物、少し良い帯といった程度でした。性分なのだと思います。

 だから、この椿油がきっと母にとっては少し恐ろしいくらいの贅沢であったことは、受け取った当時から容易に想像することができました。そして、着飾るための贅沢というものを理解していない私にとって、この油をいつ、どの程度使うべきかは、答えの見つからない悩みでした。使おうと決めた今晩のような機会であっても、きゅぽん、とまた気持ちの良い音を立てる栓を外した先の加減が、まるでわかりません。その涼やかな黄色の油を指先にほんの少しだけとって、丹念に塗り込むのがきっと正しい、と信じるより他、ないのです。そうして光沢をおびた毛先は、艶やかにまとまって流れを作ります。洗面台の鏡に映る自分が少しだけ華やいだような気がしました。

 苺の練り香水は、東京で後輩と買ったものでした。三つ年下の彼女は少しはしゃぎがちで、けど同郷のよしみもあって私によく懐いてくれていることがこそばゆいながらも嬉しくて、彼女とたまに一緒に外出することは、ささやかな楽しみでした。

 ある雑誌の記事をきっかけに、なかなか手を出せない香水というものを試してみようと、二人で百貨店のコスメコーナーに繰り出したときでした。

 彼女は、肇さんにはきっとこれが合う、いやきっとこっちの方が、と藤や沈丁花の香りをせっせと持ってきてくれたのですが、なかなか自分のものを選ぼうとしませんでした。こんなのはどうかな、と私が彼女に選んだ可愛いらしい果実の香りの香水を彼女は明らかに気に入っていたにもかかわらず、似合いません、それよりも肇さんのものを、と逃げを打つものだから、先輩風を吹かして後で彼女に贈ってあげようと思い、こっそりと自分のものと合わせてハート形の容器に入った苺の練り香水を一つ、買ったのです。

 寮への帰り道、実はこっそり買っていたんです、と彼女は私が買ったものと全く同じハートのスチール缶を見せてくれました。肇さんが選んでくれたんだから間違いありません、大事に使います、と少し誇らしげに語る彼女を前に、ハンドバッグの底にある同じ缶の話などできるはずもなく、私には少し可愛らしすぎるその練り香水は、あえなく私の所有物になりました。

 使う機会もない、けど部屋に置いて、たまに遊びに来る可愛い後輩に見られることも避けたい。仕方ないから実家に置いておこう。私はその缶を岡山の実家に送りました。そしてある夜、精一杯のおめかしをする必要に無性に駆られていた私は、椿油の硝子瓶と一緒に脱衣場にその缶を持ち込み、封を解きました。

 この練り香水を使うのは、今日で何度目でしょう。滑らかな薄い桃色のペーストを耳の裏に伸ばすと、お風呂上りの湯気立つ肌から漂う石鹸の匂いを、みずみずしい果実の香りが鮮やかに彩りはじめます。その香りが首筋を駆け、髪の中にふわりと広がると、その甘酸っぱさにとくりと胸が一つ、高い音を鳴らしました。

 年に三度、実家で夜を過ごすときだけに行う、特別な儀式。 

 こうしておめかしをすると、これから特別な時間が始まるということを否が応でも頭が理解して、気持ちが切り替わる。

 それが、この化粧を慣例としている理由の半分です。

 

 残りの半分は、理由と呼ぶにしてはあまりにも単純で、はしたないもの。

 

 あの人は、この手触りが好きだから。

 ――いつもと、少し違う気がする。

 いつだったか、きっと三回目か四回目のときだったと思います、あの人は私の髪がいつもと違うことに気付きました。 

 この時のために支度してきたんです、そう言ってしまうことはどこかとてつもなく恥ずかしいような気がして、私は小さく笑んで、誤魔化しました。

 けど彼はきっと私の恥じらいに気づいたのでしょう、少し目を細めてから心地良さげな笑みをこぼして、愛おしげに指を私の髪に遊ばせました。

 その感触が、忘れられないんです。

 豆電球の黄昏色の光の中で、彼の優しい目が、日頃はそうそう触れることもできない指が、私の慕情を何かもっと、もっと別のものに変えてしまったんです。

 

 だから今夜も、椿を毛先に。

 あの人は、この匂いが好きだから。

 ――いい匂い。

 いつだったか、確か二回目のときでした、あの人は私にはあまり似合わない、甘い香りに気付きました。

 そして、すんすんと鼻を鳴らして、いつもならば頭一つ高い位置にある頭を、私の首元に埋めたのです。いつもとは逆、私が頬擦りできてしまうような位置に彼の頭があるという状況は、とてつもなく特別な気がしました。

 そして、甘い匂いを探る彼の髪を初めて頬で感じ、つい手を頭に回して抱きかかえてしまったとき、彼が漏らした小さな安らぎの吐息が首筋に広がって。

 その感触が、忘れられないんです。

 私たちは日頃、何かと喧嘩続きで、なかなかお互いのそばで安らぎを見つけられません。お前は頑固だ、あなたはなんでわかってくれないんですか。そんな実の無い応報ばかりです。けど、固い頭を二つ寄せ合わせれば、どんな隔たりも拘りも拭い捨て、側で安らぐことができる。その事実が、思考をゆるゆると溶かす、言葉にできない光悦を私に教えてしまったんです。

 だから今夜も、苺を耳の裏に。

 浴衣を羽織り、胸元をしっかりと閉め、けど帯はあくまで緩く緩く締め、脱衣所を後にします。

 普段であれば、母に見つかり次第お説教になりそうな恰好。

 産まれ育ったこの家の廊下を、母の躾けに背くような着崩しをして歩くのは、今日で八度目。突如体に走った背徳の寒気が、足を速めます。

 ――肇、何、そのはしたない恰好は。

 今日は、そう言ってくれる母はこの廊下にはいません。今晩もきっと、私がお風呂に入っているタイミングを見計らって私の部屋に一枚の布団を敷き、あとはごゆっくり、邪魔はしないからね、と言わんばかりにどこかに行ってしまっているのでしょう。どこに行っているのかは、聞けたことがありません。聞けるはずも、ありません。

 ――お母さん、違うから、あの人とはそういうのじゃないから。

 そう言えたのは、初めて彼を連れてこの家に来た三日間の、最初の一日だけでした。

 仕事のお話。学校の三者面談みたいなもの。そう、家族には説明したつもりでした。そして、夕時まではその通りでした。彼は居間のテーブルに資料を広げ、携帯用メディアプレイヤーで映像を流しながら、仕事の進捗や今後の展望について、熱心に説明してくれていました。少し恥ずかしくはありましたが、これが肇かい、これもかあ、こりゃえらい、と繰り返す祖父母の笑顔がこそばゆく、妙に満たされる時間でもありました。

 けど、いざ食事の時間となると、当時はなぜだかさっぱりわかりませんでしたが、皆が皆、妙に浮つき始めたのです。父は必要以上に頷きながら怪しげな緑色の瓶を彼に預け、母はお客さんに出すには妙に素朴な品の混ざった夕餉を運び、祖母は満面の笑顔でしきりに父と母が出会った頃の話をし、祖父はそれに頷きながら初めて見る満足げな表情でお猪口を傾けていました。そして食後、彼のいる客間にお布団を敷きに行くと、なぜだかいつもは三組は布団が入っている襖は空っぽで、母はどこにも見当たらず、私の部屋から予備のお布団を持って来ましょう、と襖を引くと、部屋の真ん中には一枚の布団と二つの枕がありました。

 ――えっ、あ、これ、あ、あの、違うんです、きっと母が勝手に、

 翌日母に問い詰めて知ったのですが、本当にその通りで、それは母が『気を利かせて』敷いてくれたものでした。ただ、あの日まで私が彼に対して抱いていたものは男女の間柄に生じるような感情ではなかったのです。一緒に仕事をして、多くの苦節を共にし、ささやかな成果を積み重ね、その中で育まれたのは、信頼以外の何でもありませんでした。背中を押してくれる彼に私が全力で応える、それが私と彼の関係でした。

 ただ、あの布団を目の当りにしてしまった瞬間からそれは変わってしまいました。その晩、敷布団の上でシーツだけをかけてに眠る彼の隣に、掛布団を敷き、それに包まりながら妙に高い自分の心音を感じている間に、ずいぶんと別のものになってしまったのです。

 だから次の日の夜、昨日と同じく自室に敷かれた布団の前に彼と立ったとき、一人の男である彼のことを、一人の女という立場から意識してしまった私ができることは、ただ一つしかありませんでした。

 ――あの、お風呂のついでに、お布団を探してきますから。先に寝てしまってください。

 そう言って、湯を浴み、髪に油を通し、香を塗り、布団を探しに行く気など微塵もなく、着崩した浴衣で、私は自室に戻りました。先に眠っている彼の布団に、豆電球が暗く照らす空気を一息吸い込んで潜り込み、ゆっくりと開いた彼の目が、きっと情の熱で淀んでいたであろう私の目を捉えた瞬間、私はどうしようもなく彼に吸い寄せられ、彼は柔らかくそれを受け止めてくれました。

 その日から、私と彼は、変わりました。

 お互いに対してそっけなくなった、と言う人もいます。

 ――肇ちゃん、大丈夫? 最近、あんまり仲良さげじゃないけど。

 必要以上に側にいなくなった、というのが正しいのでしょう。夜のひとときに、溶け合うまでに近づいた私たちの距離感は、「その時」以外は少し遠くなりました。

 喧嘩が多くなった、と言う人もいます。

 ――お二人さんとも、今日も飽きひんなあ。

 遠慮がなくなった、というのが正しいのでしょう。あの夜、なんとなくお互いに感じて取ってしまったのです。私が彼を嫌うなんて、おおよそありえないということ。そして、逆も然りであるということ。それを認識してしまって以来、自然とお互いに対して甘えが生まれ、口喧嘩など、以前はなかった小さな衝突が増えました。 

 傍から見ればくだらないそんなことに、私は、彼からの愛を感じるようになってしまったのです。

 脱衣場の外の廊下はじわりと暗く、空気はひんやりとしていました。

 ぱたた、ぱたたた、と横降りの雨が雨戸を叩きます。

 裸の電球がぼんやりと照らす薄暗い廊下で、雨の騒がしさが奏でる静寂が、心臓が刻むリズムをどくり、どくり、と重くしていくのがわかりました。

 首筋を血が駆け上がり、耳と頬に朱が広がっていく感触に、思わず身体が震えます。

 

 ぱた、ぱたたたた。

 騒がしい、春の雨。調子よく打音を鳴らす雨戸の外では、木々がざわめいています。対して、暗い廊下の先からは音一つしません。

 部屋の襖を閉じてしまえば。

 部屋から声は、漏れないはず。

 頭を振って、浮かんでしまった考えを拭い去ろうとしましたが、既にもう手遅れでした。

 

 廊下のぼやけた暗闇。

 木造家屋を駆け回る雨音。

 湿った指先。

 体から立ち上る、甘い香り。

 

 長い、長い夜が始まる。その事実が、重々しい脈によってお腹の底に敷かれた昂ぶりに、確かな熱をくべていました。

 

 自室に繋がる襖の引き手に指をかけると、妙に冷たい気がしました。

 

 ふぅ、と一息で体の中で渦巻くものを抑えつけ、襖を引きます。

 部屋の真ん中には布団が、一枚。枕は、二つ。

 「あの……あがり、ました」

 しかしPちゃんは完全に寝ている。世の中クソ!

 

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