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「耳」楳図かずお

性格も容ぼうも全体がひかえめで地味なトヨ子は、人一倍やさしい心を持っていたが、その心は誰の目にもふれることはなかった。
銀行で勤めるようになったトヨ子は、そこでも目立たなかった。
彼女はそれを悲しいとは思ったけど、あきらめていた。

たとえていうなら「耳」だった。
不幸な耳は、目や口の華やかさにすくんで目立たなかったのである。

トヨ子に縁談があった。彼女はずいぶん年上の口うるさい無神経な男と結婚して、新興団地に移り住んだ。

口うるさい夫はトヨ子に文句ばかり言っていたが、なぐられてもけられても、トヨ子は夫をうらむようなことはなかった。これが自分のさだめだと信じ込んでいた。隠れてひとりで泣いていたがそれもあきらめに変わっていった。

くるくるとよく働くトヨ子は、ひっつめ髪にしていた。昔から変わらない後ろで束ねた髪型は、トヨ子をさらに地味にしていた。
そして耳はいつもそこにあった。

トヨ子の顔は遠くから見ると泣いているように見えた。だがそれは彼女のいつもの顔だった。そんな彼女の顔を振り返るような男はいなかったし、やはりトヨ子はかわいそうな女だった。

光男という若い男が年老いた母と引っ越してきたのはそんな時だった。
光男がトヨ子の存在を気にするようになったのは、トヨ子が夫に怒られていた後ろ姿だった。トヨ子のあわれな姿、目立たない存在であるということが、かえって彼の目には目立って見えた。花に水をやりながら泣いているトヨ子がとてもかわいそうな女に見えた。

ある日光男は、買い物袋を重そうに持っているトヨ子に声をかけ、荷物を持ってあげた。
その時からだった。トヨ子が窓越しに光男を見ていることが多くなった。そんなトヨ子を光男はいっそうかわいそうに思った。ただ、このかわいそうという感情には軽蔑と優越感が含まれていたのだが、光男はそれを自覚はしてはいなかった。

会社の旅行に出たときに、光男はトヨ子にみやげを買って帰った。みやげものなどもらったことのないトヨ子は、息がつまって声すら出なかった。
かわいそうな女を喜ばすことの満足感がしだいに好意すら混じり始め、もっとしあわせを分けてあげたいと思うほどになっていった。

一度も男からいたわりを受けたことのないトヨ子の感情が、一途に光男にかたむいたのは当然のことであった。
こうして光男とトヨ子は少しずつ親しくなっていった。

光男はトヨ子の夫のいない時間を見計らって訪問する約束をし、トヨ子はその誘いを受け入れた。
トヨ子は生まれてはじめての出来事に、自分の女としての存在を認められたことの嬉しさに、うしろめたい気持ちなど全くわいてこなかった。ひたすら夫や近所の人たちに知られないようにと心に言い聞かせるのだった。

そして約束の日、トヨ子は光男の来るのを待った。何も手につかないトヨ子は耳だけをドアに向けていた。トヨ子の心臓は破裂しそうだった。
光男がトヨ子を抱きしめたとき、目もくらむような陶酔にトヨ子は気を失いそうになった。

その時だった。トヨ子は突然大声を出し、人々に助けを求めたのだった。

こうして光男はこの団地にいることができなくなり、年老いた母親と去っていった。トヨ子はその姿を、涙でくしゃくしゃになりながら、窓の向こうから見送った。その顔は今までにも増してさらに悲しい女の顔だった。

そのことがあってから、トヨ子の噂は団地内に広まっていった。トヨ子が若い男に襲われたという驚きとともに。そしてトヨ子の存在はたちまち明らかなものとなった。

トヨ子はあの時なぜなんな言葉を口走ったのか、あんな行為をしたのか、自分ではわからなかった。

ただ、それ以来、トヨ子のひっつめた髪型が少し変わったことについても、自分ではなにも意識してはいなかった。

耳が髪の中に隠れていることについては誰も気がついていなかったのだった。


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楳図かずおの描く美少女たちは、神々しく、ふてぶてしく、時には可憐であり、般若のようでもあり、強く、そしてもろい。

だが、「耳」のトヨ子は、ほかの作品とは一変して、かわいそうで不憫な目立たない女性だ。トヨ子が女性として目覚める時、その時、トヨ子は同時にそれを拒絶する。それは、女性としての存在のあり方が男性という対象により生まれることを拒絶しているようにも思える。

または、はじめての陶酔という感情を得たことを、胸の中にしまっておくことで、それを永遠の恋として生きていくことを選んだ、とも。

それとも、トヨ子は一人の人間として、団地の人たちに自身の存在を証明するために、光男を無自覚に利用したのではないか、とも思える。

彼女の存在が証明されて以降、彼女は人に認識されるようになる。今までの存在感のない不幸顔のトヨ子ではなく、男に襲われかけたトヨ子に。存在を得た代償にトヨ子は光男との陶酔した時間を失ったが、その恋した瞬間は永遠に彼女だけのものなのだ。

ただ、それを胸に秘め、夫との日常を取り戻すことを選んだトヨ子の「耳」だけは変わったのだった。

彼女は髪型を変え、耳を出さなくなったが、それは彼女自身でさえ無意識で、周りの誰も気が付かない。
ただ、今まで目立たなかった地味な「耳」を髪の中に隠したトヨ子は、なぜそうしたのか、やはり私にはわからない。

楳図かずおは、トヨ子の「耳」になにを見ていたのか?

なぜ楳図かずおは、トヨ子の「耳」が髪の毛に隠れた事実をもって、エピソードを閉じたのか。
存在感のないトヨ子の「耳」が髪に隠れたこと、それは誰にも知られることなかった。まさにトヨ子自身だった。

楳図かずおの感受性ってなんなの?ってぞくっとした。





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