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フラメンコ讃歌ー日本人パフォーマーへの期待

本記事は日本人のフラメンコに対する率直な批判を含みますので、関係者の方はどうぞご注意ください。また敬称は略させて頂いています。

愛用のカスタネット

フラメンコとは何か。スペイン南部にあるアンダルシア地方で派生した民族芸能である。その歴史は古く、フラメンコ研究の大家である浜田滋郎氏はその起源を紀元前およそ1千年頃から説明されていて(※1)、ひとくちでいつ頃から、と言えるものではなさそうだ。そしてフラメンコというと舞踊が有名だが、「カンテ(歌)」「バイレ(舞踊)」「トーケ(ギター)」の3種類がある。フラメンコショーでは3つをすべて組み合わせるのが普通だが、歌のみ、もしくはギターのみでも成り立つ。

私自身、ある時に三重県志摩市にあるテーマパーク「スペイン村」に行った時、フラメンコに魅せられて、2004年から4年ほど舞踊を習ったことがある。フラメンコは今でも大好きで、アントニオ・ガデスやカルロス・サウラ監督の映画は一時期夢中になったし、マリア・パヘスなどの来日公演などあれば追いかけているが、日本人パフォーマーのショーにはあまり惹かれてこなかった。理由はひとつ、ライブショーが舞台作品としての魅力に欠けるからである。

佐渡ヶ島で発祥した民俗芸能「鬼太鼓」を奏でる太鼓芸能集団「鼓童」は、土地で住み暮らし、寝食をともにしながら稽古するという。外国人だからということではなく、フラメンコが表現する世界の光と影を日々血肉にできない、もしくは経験したことがないにもかかわらず、「真のフラメンコをショーとして提供する」というのは、正直言って不遜だと思う。であれば、エンターテインメントとしてのショーを提供するというのが現実的な方向だろう。

先に触れたように、フラメンコは歌だけでもギターだけでも成立する「音楽」である。舞踊でも使うパルマ(手の打ち鳴らし)・ピトス(指の打ち鳴らし)・サパテアード(足の打ち鳴らし)、もちろんカスタニュエラ(カスタネット)は、パーカッションの役割を果たす。舞台ではもちろん、録音でもその音が打楽器として美しく響くレベルでないといけない。日本人の踊り手の場合、サパテアードの音が大きすぎることもある。釘を打っていない靴の方がバランスが取れるのではないかと思うこともしばしばである。

マヌエラ・カラスコ、アイーダ・ゴメス、イスラエル・ガルバン、アントニオ・ガデス舞踊団など、名だたる舞踊家が日本に来てくれて、シンプルな舞台に最高の華を咲かせてくれた。だからといって、日本人がショーをするときに同じ方法で舞台を組み立てるのはあまりよろしくない。日本人舞踊家のAMIが、スペイン人と日本人の体形の違いについて著書で言及している(※2)が、見た目の違いというのはショーにとってかなり不利な要素になりうるからだ。例えば舞台美術、衣装に工夫をするなど、見栄えを意識するのは必要だと思う。

ショーでお金を取れるというのは、そもそも、そのジャンルをショービジネスができるまでに高めてくれたという、先人の功績あってこそのことだということを、忘れてはならない。オックスフォード大学に学んだジェイソン・ウェブスターは、小説『デュエンデ フラメンコの魔力に魅せられて』(※3)で、自身がフラメンコに出逢ってからフラメンコとは別の道を志すまでのエピソードを語っている。フラメンコで稼ぐ人々の裏稼業、傲慢さ、前近代的な伝統。もちろん小説に描かれることがすべて真実だと言うつもりはないが、現実の片鱗はあるだろう。舞踊を教える女性、ファナの言葉が胸を打つ。「この国でフラメンコがどういう扱いだったかあなたはわかってない。ずっと笑われてきたのよ。だれもまじめにとってくれなくて。だけどいまは、ほかの踊りにまったくひけを取らないことを証明してみせることができる。・・・」「ホアキン・コルテスをごらんなさい。コルテスのあとにもどんどん続いている。古典舞踊の訓練を積んで、いまや世界の一流劇場で踊っているフラメンコ。・・・」(360頁)ここで、ウェブスターは「コルテスはスターとなって、フラメンコとは違うものになった」というように述べているが、私は大スターたちは、映画監督のサウラもそうだが、バレエなどの古典舞踊に対して大変に敬意があると感じている。

マリア・パヘスや、フラメンコの人ではないが中国の舞踊家ヤン・リーピンなど、世界を魅了する舞台作品を創る人々に共通するのは、ショービジネスへの強烈な敬意である。技術的にも世界トップにあるパフォーマーたちが、自身の舞踊のみならず、会場の選択から、美術、音楽、衣装、権利処理に至るまで、ハイレベルな仕事を要求するプロ意識には圧倒される。ポスター制作にしても、余白、フォント、レイアウトまでこだわるべきだ。チラシ一枚、人を魅了する力があるものだ。フラメンコライヴをする同じ日、同じエリア、同じ時間帯に、ジャズピアニストの上原ひろみが来ていたら、ボサノヴァの小野リサが来ていたら、果たしてお客さんが来てくれるだろうか?ビッグネームのライヴに負けないくらいの舞台を作る、そんな意気込みがあってほしい。

逢坂剛が「手を出すな!」と言うように(※4)、フラメンコは一度ハマったら抜けられなくなる魅力を持つ。私自身、フラメンコを通じては不思議な感覚を覚えることもあったが、優れたアーティストたちだけが持つ確固たる力によるものだったと思う。実はこれまでずっと、「情熱的な」というお決まりのフラメンコへの評価に違和感を抱いてきたが、これもひとつのオリエンタリズム的な見方ではないかと気がついた。アントニオ・ガデスは言う、「舞台に出るすべての人がアーティストではないのだ。むしろ私が自認しているように、労働者として出演する方が好きだ。もし私が感動を呼び起こすとしたら、それは結構なことだ」(※5、34頁)と。磨き抜かれた形と技術を駆使して表現する音楽であり、パフォーマンスアートであって、必ずしも感情を剥き出しにするものではないと思っている。私にとって、クラシックもジャズもロックもフラメンコと変わらないのだ。

小林伴子がカスタネットの演奏をメインにした舞台作品小島智子がピアノやヴァイオリンなどの楽器と舞踊・カスタネットとの掛け合いをする舞台作品を作っているが、これらもとても上手いアプローチだと思う。ブームが過ぎ、フラメンコ好きが残るようになった今、個人的には日本人舞踊家の技術は向上していると感じている。バレエやフィギュアスケートで世界レベルの人たちが出ていることを鑑みても、日本人のパフォーマンスは、技術の点で本場の人々に決して劣るものではないと思う。日々フラメンコと向き合い、舞台作品を創り、公演日程を知らせてくれる大事な友人たちが、ますます跳躍することを心から期待している。そして、今日からちょうど1年前にご逝去された、浜田滋郎先生の愛したフラメンコが、さらに愛されますように。

参考文献

  1. 浜田滋郎『フラメンコの歴史』晶文社、1983.フラメンコのみならず、スペイン文化、クラシック音楽について調べるなら、必ずお名前を拝見するという、驚異的な存在だった。

  2. AMI『AMIの素敵にフラメンコ』ベースボール・マガジン社、2002.ご本名鎌田厚子さん。なお氏は、スペインで一番歴史と権威のあるコルドバのフラメンココンクールで、外国人初のプレミオ・ナショナル受賞という快挙をなしとげたという。

  3. ジェイソン・ウェブスター(田中志ほり訳)『デュエンデ フラメンコの魔力に魅せられて』ランダムハウス講談社、2006.

  4. 逢坂剛『フラメンコに手を出すな!』パセオ、1998.日本人のフラメンコファンの他、パコ・デ・ルシア、クリスティーナ・オヨス、ビセンテ・アミーゴといったそうそうたるスペインのアーティストとも対談している(しかも報酬は交通費と食事代くらいだったとか)という、結構とんでもない企画である。

  5. ピエール・ラルティーグ、フローランス・ドゥレー、アンリ=フランソワ・レー、カルロス・サウラ(前田允訳)『アントニオ・ガデス』新書館、1986.なお、本書の装幀は宇野亜喜良とあった。

  6. カルロス・サウラ監督映画『フラメンコ』(DVD)、1999.サウラ監督作品『イベリア 魂のフラメンコ』は大変洗練された映像であるのに対し、『フラメンコ・フラメンコ』(2010)も、映像としては少しあか抜けない。フラメンコというのは泥臭さもまた魅力なのだなと思う。

  7. ヘッダー画像は、ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré, 1832- 1883)のイラストを模写したもの。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、最終更新 2021年11月28日 (日) 15:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。)

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