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軽妙な語りの間に見える想像力 友利昴『エセ著作権事件簿』

2020年のある暑い日、あるSNSに「蛇口から 頼んでないのに お湯が出る」という投稿をした。外気のあまりの高さに水が冷えず、お湯用の給水栓をひねっていないのに湯の温度に近い水が出てくるものだから作った一句で、「なかなか上手くできたわい」と悦に入っていた。先日、何気なくもう一度見ようと思って「蛇口から」「頼んでないのに」で検索したところ、同じ句、あるいは同じことを仰っている投稿が何件か見つかった。一番古いものだと2011年作だった。「偶然同じ、あるいは似ることがある」ということをまざまざと見せつけられた瞬間だった。

著作権法では、同じでもいくら似ていても、別々に創られたものは別々に著作権がある。それを、「私の作品を真似した!」と怒り、SNS上で人を盗作呼ばわりしたり、抗議文を送りつけたり、裁判沙汰にした事件ーーー真似やパクリに限らず、パブリックドメインである文化財や、アイデアにすぎないものを根拠に他人を攻撃した、そのような事件を集めて検証したのが本書である。そんなトラブルがあったときにどうすべきか、トラブルを回避するにはどう考えたらいいかを、本書の友利昴(ともりすばる)氏は71件という事例を挙げてヒントを与えてくれている。

私自身、知的財産部署のスタッフをした経験から思うのは、「トラブルのない表現をするにはどうしたらいいか、という問いには一律の答えはない」ということだ。ある工夫をすれば問題は生じないということはできないし、それでは表現の可能性をせばめてしまうことになる。時代や社会の変化を吸収しつつ、過去の事例に基づいてトラブル対処の感覚を養うことが重要で、そのために事例には数多く当たった方がいい。本書のボリュームはそのためのものでもあろう。

本書に通底するのは、「似ている/似ていない」といった単純な対立構造で事件を検証していないということだ。判決文からも読み取れることでもあるが、事件には個々の背景があり事情があり、対立する両者の権力の相違というものがある。そこを無視して対比させることは、それこそ「フェアではない」のである。決して教条主義に陥らず、各界の考え方(特に俳句界のルールには目から鱗が落ちる思いだった)や、創作のプロセスにも十分配慮しつつ、人の心への想像力をもって、持論を展開されるご姿勢は、別のご著書『オリンピックvs便乗商法』(※1)と変わらず好感の持てるものだった。

もっとも、氏がたびたび「出版社は作家を守る義務がある」ということに触れられるのだが、それは私にとって「理想的ではあるが、期待できない」。272頁に「小学館は『ドラえもん』の著作権者ではない」とご指摘のとおり、出版社が抗議するのは、作家を守る義務によるものではなくヒット商品を守るためだろう。作家は、孤独である。後ろ盾など何もない。だから、トラブル回避、対処に力になれるよう、横のつながりが必要なのだと思っている。

本書中に登場する「自己肯定感の高いひよこ」は、「ありふれた表現」を緻密に集めたものと思えてならぬ


本書を読む中で気づいたことがある。私はこれまで、「アイデアは保護されない」と考えてきた。しかし本書の端々に、「アイデアは独占できない」とあった。同じことを言おうとする表現だがずいぶん印象が変わるものだ。「保護されない」の持つ突き放したニュアンスから離れ、「他の人の作品と被っても許してあげてくださいね」という温和なニュアンスが出る。著作権が自然に発生する性格を持つ以上、創る方も使う方も、心のストライクゾーンが広ければトラブルも回避できるのだ。

一方で、「独占できない」ということイコール「使用を許す」ということではないし、独占できるものではないが手を出すべきではないというものもあるだろう。氏はあとがきでこう述べる。

・・・ほとんどの創作者は、自分が生み出した作品への愛着ゆえに、それを自分だけのものにして完全にコントロールしたいという欲求を多少なりとも抱いており、それは筆者も例外ではないからだ。・・・
 ・・・さまざまな言葉で批判的に検証してきたが、「じゃあお前は自分の作品が合法的にパクられたとしたら、冷静でいられるのか?」という声が頭に響く。・・・
友利昴『エセ著作権事件簿』パブリブ、2022、504頁。

「自分が創ったものと似ている!」と感じたとき、自分がコントロールできない心理的な動きが誰にでも生じるものだろう。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』で、主人公のジョバンニは意地悪な級友ザネリに、心無い一言を投げつけられるくだりがある。そのときジョバンニは「ぱっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るように」思った(※2)。一瞬の感覚を見事に文字化した表現である。たとえ「別々に創られたものは別々に著作権がある」と知識は持っていても、「傷つけられた」ときの気持ちに近い感覚が沸き起こるのだと思う。しかし本当に傷つけられたかどうかは別の話で、それは深呼吸して時間をおいて、視界を広くして再考することが何より必要だ。

当然、「真似された」と言われた方も「ぱっと胸がつめたく」なるだろう。しかしジョバンニは思う。「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことをいうのだろう。走るときはまるで鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことをいうのはザネリがばかだからだ」(※3)このジョバンニの、いささか強気な心持ちこそ、時には必要な態度といえよう。「それは著作権侵害である/侵害ではない」という主張が、強者の論理や妄想といった、弱い立場への想像力や知性を欠いた考えにとらわれている場合もあるということだ。そして本書はそれをつまびらかにしてみせてくれているのだ。パクリ疑惑は、クリエイターにとって日常的に発生する困りごとだと思う。その常備薬として、本書をぜひお薦めしたい。

友利昴『エセ著作権事件簿』パブリブ、2022

※1 友利昴『オリンピックVS便乗商法まやかしの知的財産に忖度する社会への警鐘』作品社、2018。

※2 宮沢賢治『宮沢賢治童話大全』講談社、1988年、118頁。

※3 ※2と同頁。


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