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金の卵を産むガチョウを殺すのは

漫画家、芦原妃名子あしはらひなこ先生が、ご自身の漫画『セクシー田中さん』のドラマ版にあたり、トラブルが起こっていると知ったのは1/28頃だった。その翌日だったか、たまたま開いたXのタイムラインに何かしら不穏なものを感じた。死亡。自殺。一瞬周囲から色彩が失せた思いがした。Xのアカウントを消したというのはその前に聞いていた。トラブルの告白をしたことで、より辛い思いをされているのだろうとは思っていたが、このような結末になるとは思っていなかった。ダムなんて、怖くて一人では行けない場所だ。どれほど絶望していらっしゃったのか。最期に見えたのはどんな景色だったのか・・・。

「原作の改変」ということで、にわかに著作権、著作権法に対する注目が集まっている。もちろんこれは著作権の問題である。しかしながら、私個人はそれとは異なる問題が横たわっているように思う。コンテンツビジネスが語られるとき、私はいつも「クリエイターを生身の人間、個々に顔のある存在として見ているのだろうか?」という疑問が生じているのである。

投資対象としてのコンテンツ

私も国家資格である第一級知的財産管理技能士(コンテンツ専門)を取得するため、コンテンツビジネスのしくみを学ぶべく講座や書籍にあたったことがあった。漫画を作って出版することも広義ではコンテンツビジネスだが、知的財産の活用という観点では、漫画や小説などの個々の作品(コンテンツ)を、形を変え媒体(メディア)を変えて売り出したり、広告にしたりグッズ展開したりと、利益を生み出すために最大限利用するビジネスである。もちろんそれ自体は別に悪いことではないのだが、私が気になっていたのは、少なくとも私があたった教材や講座では、作品名は例として挙げられても、その作者の仕事にフォーカスされていなかったということだ。映画版『鬼滅の刃』がコンテンツビジネスの成功例として紹介される一方、原作の吾峠呼世晴ごとうげこよはる氏、監督の外崎春雄氏を始めとする創り手たちのお名前やその仕事の偉大さ、そういった作品を長期的に制作するための施策について議論されることはなかった。

「クールジャパン」というキャッチコピーで、コンテンツを含む日本文化を世界に輸出する取り組みがなされて久しい。「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」、いわゆる「コンテンツ振興法」が制定されたのが2004年。クールジャパン官民連携プラットフォーム」が設立されたのが2015年。その間の2006年にも関連書籍において、

ファンからアマチュア、そしてプロのクリエーターを目指し、日本のマンガ、アニメ、ゲームに「想像力」を発揮して次世代の作品の創造を担おうとする若者たちにとって、日本の産業構造は恵まれた環境とはいえない。海外からも、多くの日本のアニメやゲームのファンが、本場で学んでプロになりたいと就学、就業を望んでやってくるのだが、その多くが失望して帰っていくという

(日本経済新聞社『日本のポップパワー 世界を変えるコンテンツの実像』第4章 日本ポップカルチャーの構造 p117、執筆担当:小野打恵)

と指摘されているにも関わらず、クリエイターの待遇改善や、長期的な視点での育成についての踏み込んだ政策や提案が見当たらなかった。

クールジャパン機構のサイトにおいて、紹介文に「投資対象は、世界にとどく日本。」とある。「日本のコンテンツは売れる」というのはいいが、日本の漫画に惚れ込み、アニメーション作品に惚れ込み、その土壌を広げたい、未来まで脈々と続く文化として育てるという目的があるのかどうか。出版社やアニメーション制作会社、映画会社、テレビ局というコンテンツ事業者においても、「金の卵を産むガチョウを十分大事にしてきた」といえるのか。

遵法じゅんぽう手段にある人権蹂躙じゅうりん

原作の改変は著作権の問題と先に述べたが、厳密には著作権法のうち、「同一性保持権どういつせいほじけん」という著作者人格権に関する。著作者は、その著作物をその意に反して改変されないというものだ。これは契約に関して、契約相手に譲り渡すことができない。それでは、相手方はどうするか。作者である著作者が「著作者人格権を行使しない」という条項を設けることになる。「作者は改変されても文句は言いません」ということだ。いわゆる「不行使条項ふこうしじょうこう」である。これでもって、「著作権法に違反せず、著作物を自由に利用できる」という理屈ができあがる。

コンテンツビジネスには切っても切れない著作権の契約へのアドバイスとして、「不行使条項入れといてくださいねー、でないと作者から文句言われちゃいますからー」という法律家も本当にいるのだ。法務省提供の日本法規の英語版によると、著作者人格権は「Moral Rights of Authors(作者が持つモラル上の権利)」となっている。財産権と違って譲り渡すことができないのは、著作者人格権はクリエイターの心、気持ちを守るものだからだ。無断の公表、名前の表示/非表示、そして改変はモラルに反することなのである。痴漢をしてはいけないのは、法律違反だからではなく、人を著しく恐怖させ一生消えない傷を負わせるからだ。同様に人の作品に手を加えることも、人ひとりの心を踏み躙る可能性があることは明確に認識しておくべきである。

アダプテーションという創作、改変という手段

断っておくが、私は「原作の改変はいっさいすべきではない」という立場ではない。漫画から小説、小説から映像、あるいはラジオドラマ、というふうに、ある作品の形(メディア)を変えて、二次的著作物(別の作品)を創り上げることを「アダプテーション」ともいうが、それぞれのメディアにはその性質上の制約があり魅力があるものだ。時間的制約に合わせるために原作の小説から一場面、もしくは一行削除するだけでも、小説にとっては「改変」のはずである。改変なしにアダプテーションをすることは不可能だと思っている。

原作の漫画とて、漫画家と編集者が意見をぶつけあった結果生まれたものであろう。売るためではなく、より面白く、より魅力的なものをお客さんに届けたい、そういう視点でメディアを変え、内容に手を加えるのであれば、脚本家や演出家という別の才能とが化学反応を起こし、別の優れたものができる可能性はあるはずだし、そういったアダプテーション作品もこれまで多く生まれてきたはずだ。ぶつかりあうことを回避するのではない。奥乃桜子氏の小説『それってパクリじゃないですか?』において、特許出願の審査面談で、主人公と弁理士が審査官と争った後に、こういうセリフがある。

・・・僕は冴島審査官をめちゃくちゃいけすかないやつだと思っているけど、審査官としては信頼してるってことだ。なぜなら僕らは・・・そうだな、藤崎さんみたいなかっこいい言い方をするならば、僕らは同じ理想を目指して、汗と涙の結晶を守るために働いている仲間だからだ

奥乃桜子『それってパクリじゃないですか? 2
〜新米知的財産部員のお仕事〜』【0005】「仲間とは、同じ理想を目指す人」、
集英社オレンジ文庫、2023、260頁。

世の中に魅力的な作品を提供するために、クリエイターとコンテンツビジネス事業者は、対等な仲間でないといけないはずだ。これは理想論だろうか?もしくは、コンテンツ事業者にとって、至極当然、すでにわかっている話だろうか?「実践できていなくて、わかっていると言えるのか」という、経営者・稲森和夫氏の言葉を私は時折思い出す。事実として、コンテンツビジネスの場で、ひとりのクリエイターの命が失われた。芦原先生は、もう戻っては来ないのである。

内閣府「クールジャパン戦略について」https://www.cao.go.jp/cool_japan/about/about.html、2024年2月16日閲覧。


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