馬刺し

「駅のスーパーマーケットはわかるよね。」と、渡辺さんがおもむろに切り出してきた。「西口のですよね。」 僕は答えた。そのスーパーマーケットには僕の妻が勤めていたこともあるから、知っているなどと言うよりも聞かなくてもいいこと知らなくてもいいことまで妻から聞かされていた。働かない同僚やわがままな客。どこにだって気の合わない人はいるし、そんな憤懣はお互いに抱いているのに違いない。だから僕の妻が憤懣を抱いたなら妻に対して憤懣を抱いている人がいると思っておいて間違いないはずだ。完璧な人などいはしないのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。僕も含めて。自分を完璧だと思っている人こそが厄介なのだ。正義以外ほとんど何事もバランスが肝心だ。とは言え、そもそも中心がずれている人のバランスの取り方は独特なものになる。だからバランスと言う考えだけでもそれは解決し切れない。人付き合いとは本当に難しい。妻のガス抜きは僕の役割だと妻の話しに相槌を打ち続けて来た。首が痛くなるぐらいに。スーパーマーケットに損害賠償を請求したい。全く。
そんな中でも気が合う渡辺さんの話しに僕は耳を傾けた。「あのスーパーマーケットに限らず、夕方になるとどこでも弁当からお惣菜からパンなど、あらゆる者が値下げされるだろ。」 僕はうなずき「30%offのシールが張られていると、それがその日に食べる物なら迷わずそれを買いますね。50%offなら小躍りして商品を手に取ってしまいます。極たまに70%offのシールを目にしてしまうと、定価って何なんだろうと、頭が混乱してしまって、定価で物が買えなくなる症候群を発症してしまいますね。」 「わかる。」と、渡辺さんも笑顔で同意しながら「そこで馬刺しの50%offを見つけたんだ。」「馬刺しがお好きだったんですね。」と、僕。「実はそうなんだ。あの舌触りと触感にそれにニンニク味噌。酒にばっちりだ。」
僕の住む福島県の中でも会津地方では馬刺しをよく食べる。城下町に見られる食文化だ。騎馬や農耕馬が合戦中に大きな怪我をしたり、または老いたりと、引退が余儀なくなってしまったその際には供養の思いでそれを食べたのだと思う。精神あるいは魂のところでも人馬一体を重んじていたに違いない。そんな馬刺しが50%offで売られている。少し悲しい気もするがフードロスの事を考えれば全てを売り切り食べ切りたい。馬刺し肉など定価は決して安くはない。おいそれと買えるものではないし、半額でもそれはそれなりの値段になる。馬刺し肉好き酒好きの渡辺さんにとってその事は僕に話したいほど喜ばしい事だったのだろう。「本当は教えたくなかったんだけど。」と、もったいぶる渡辺さん。どうやら話しには先があるようだ。「話しに落ちを付けないなんて、ニンニク味噌を付けずに馬刺しを食べるようなものですよ。」と、無理やりな理屈で話を催促する僕。「仕方がない。その馬刺しなんだけど、綺麗な霜降り肉なんだよ。」「霜降りの馬刺しですか。」「そうなんだ。俺も見るのも食べるのも初めてだった。これが美味しいのなんの。あの舌触りと触感に加えて味に旨味があって最高に美味いんだよ。半額なのに誰も買わないんだよ。いつも5パックぐらい売れ残っている。それも霜降りだよ。買わないなんて俺にはできない。霜降りの馬刺しだよ。」 僕は渡辺さんが脂身の多い肉が実に好物だと言うことと、70歳と言う年齢でもそれが食べられることに感心してしまった。「実はもう一週間も続けて買いに出かけているんだ。今妻が娘のところに泊りに行っているから、横から馬刺しを奪われることもないしね。」 渡辺さんと奥さんとの間に何があったか、野暮なことは僕は聞かずに「でも霜降りの馬肉ってあったんですね。僕も食べたことがないです。」「俺も今回で初めてだったよ。」と、渡辺さんも同意しつつ「馬刺しは時に淡白に過ぎるから酒のつまみに何よりも馬刺しと言うことにはならなかったんだ。しかしこれは霜降りの馬刺しだから旨味も十分ある。これほどの酒のつまみはない。」 話しに熱を帯びる渡辺さんだった。
そんな話をしてから一週間後に僕は渡辺さんに会った。「まだあの馬刺しを買いに出かけているんですか。」と、渡辺さんには触れるべき話題だと思って僕は切り出したが渡辺さんの反応が今市渋かった。明らかにその後の話しが生まれていると察するに余りある雰囲気。期待をを抑えられない僕は「何かあったんですか。」と、話を催促していた。「あの馬刺しはもう買っていない。」 「どうしてですか。」と、僕は驚いて見せた。渡辺さんは大きなため息をついてから「妻が娘のところから帰ってきてね。やはり自分ばかりが美味しい馬刺しを食べるのはいけないと買って帰ったんだ。そしてこれを見てよと50%offのシールと霜降りの馬刺し肉を妻にどや顔で見せたんだと言ってから、渡辺さんは大きなため息をついた。僕ははやる気持ちの手綱を引いて話しの続きを待った。渡辺さんの奥さんはその馬刺しを一目見て「私は食べないよそれは。」と、一蹴してきたと言う。渡辺さんの思いの数々はその一言で打ち砕かれた。「妻も馬刺しは大好きだから、どうしてと怒りを抑えて聞き返したんだ。」 また大きなため息を渡辺さんはついた。「妻は食品表示のところを読んでみなと、逆に俺にどや顔を向けてきたんだ。それに呆れ顔まで加えて。もう悔しい。」 歯噛みしてみせる渡辺さんを無視して僕は「まさか。」との声を発していた。渡辺さんがそこを確認してみると加工肉と表示されていた。日々奥さんとこれは食べないようにしようと話していた当にその加工肉だった。馬刺しであって馬刺しではない肉を歓喜して食べ続けてしまった渡辺さん。あの一週間はもう取り戻せない。首を項垂れる渡辺さんだった。肉であって肉にあらず。ビールにあってビールにあらず。そんな者が増えている。良し悪しは僕にはわからないが気を付けようと思った話しになった。

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